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勇者がヒモになったなら  作者: ひーらぎ
1章「たのしい? 勇者のヒモ生活」
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1章「たのしい? 勇者のヒモ生活」1

今作品は、C90「よろづ屋本舗」にて販売した作品となります。

 1章「たのしい? 勇者のヒモ生活」


   1


 ボロボロに擦り切れた赤いジャケットコートを纏ったアルベルトが途切れ途切れの呼吸を必死に繋ぎ止めて、聖剣メルクの切先を魔王の額へ突きつけた。

「追い詰めたぞ、魔王……ッ!」

「追い詰めた、か。そう見えてもおかしくないわね」

 背中へ絡みつく鮮やかな赤い髪を肩の上でクスクス震わせた。病的に薄く、散る間際の白百合を思わせる双眼からは敗北の匂いを微かにも感じさせることはない。

 そんな余裕がアルベルトへトドメの一手を鈍らせた。このままメルクを数ミリ動かせば脳天を貫くことも容易いはずなのに。

 アルベルトが緊張と背筋へ走る悪寒を誤魔化すように唾液を飲み込んだ。

 脳天を突くよりも首を切り払ってしまおう、メルクを下段へ構えた。

 それを見た途端、今にも殺されそうな魔王がカラカラ楽しげな笑い声を上げた。一瞬の動揺を見抜かれた気がして、アルベルトの頬へ冷たいものが伝った。。

「なにがおかしい」

「早くあたしを殺せばよかったのにって思っただけよ」

「早くもなにもお前はここで死ぬ」

「時間切れってことよ。さっさと殺しておけばよかったのに」

 両肩を大きく露出させた改造修道服姿の魔王がストールで拘束された腕を持ち上げてパチン、と鳴らした。瞬間、彼女の背後へ簡単に人を飲み込んでしまえる大きさの異空間が出現した。どこまでも深い真っ黒な空間は見てるだけで不安感を煽られる。 

 全身の毛穴をこじ開けられそうな巨大な魔力反応は違いない――アルベルトが瞬間的に脳裏へ過ぎった可能性を潰すべく、メルクを振り上げた。

 薄青い炎を纏った右手にメルクが受け止められる。

「甘いわね。だからこうなるのよ」

「空間転移魔法……か。それもただの空間転移じゃないよな、それ」

「さすが勇者ね。そうよ、逃げるが勝ちとも言うじゃない?」

 メルクを受け止めたままの右手の炎がより大きく揺らめいた。鼓動するように膨らんでは萎むを繰り返した炎が爆散。

 咄嗟に後ろへステップ。アルベルトが魔力を注いだメルクで粉塵を払った。突風が巻き起こり視界が晴れる。

「それじゃあね」

 魔王を包み止めた転移ゲートがその口を閉じ始める。

 ここで殺り逃せば再びアレボスが壊滅の危機に陥るかもしれない。

 アルベルトはなりふり構わず魔王へ駆け出し、辛うじて届くところへいる魔王へメルクを抜いた。

 ひらひら散った修道服の布片へ舌を鳴らし、もう一歩踏み込んで突き穿つ。しかしそれでも魔王へ傷一つ与えることはできなかった。

「行くしかないか……!」

 アルベルトは完全に口を閉じようとしているゲートを睨み、唾液を押し込む。

「アルベルト!!」

 後ろで魔王の軍勢と戦う仲間を順に一瞥し、

「行ってくる!!」

 どこへ繋がってるかもわからず、生きて帰れるか、そもそも出て来れるかもわからない暗黒空間へ飛び込んだ。

 瞬間、前後左右、上下の平衡感覚が狂ったような気持ち悪さに襲われる。全身を押し潰すような圧迫感に嗚咽がこみ上げる。

 世界から切り離されていく浮遊感は果たしてどれくらい続いただろうか。

 地面へ投げ出されたアルベルトがゆっくり目を開けると――なんということか。


「う、嘘でしょ……」

 トンネルを抜けると、そこは見知らぬ世界だった。


 どうやら民家へ転移したらしい。

 木でできた床に、どうやって石を磨けばここまで光沢を抑えられるのか気になってしまう壁。そして見たことがない家財道具の数々。アレボスで目にしたことがない形式の民家内へ驚きながら、痛む身体をゆっくり起こす。

「ここは……。ま、魔王は……」

 まだ転移のショックから回復できずにいるアルベルトが壁へ手を添えて、一先ず正面へ見える扉へ足を向ける。

「お、音……? 水か?」

 扉のすぐ傍で大量の水が溢れる音が鼓膜を触った。

 もしかして魔王? 

 一度身構えはしたものの、そこからは魔王の気配も魔力も感じられない。となると、ここの住人ということになる。アルベルトが緊張感を吐息に変え、二つ並ぶうちの一つへ指をかけた。

「あのーすみませーん」

 もわんもわん、湯気が押し寄せて視界がぼやけていく。お湯と石鹸が混ざった柔らかい香りへ閉じかけた瞼を持ち上げ直す。

「あの聞きたいことがあるんですけど――えっ!?」

 あれっ!? どうしてここに全裸の女性が!? まさか、浴場!?

 湯気の先へ現れた、薄栗色の髪を肌へ張り付かせた女性が何を意味するのか一瞬で理解したアルベルトが逃げるように回れ右。浴室を背中にする。

 しかし気になってしまうのが男の悲しい性。

 おそるおそる首だけを回してしまう。

 仄かに蒸気した頬とぷっくりつやつやな唇が色っぽい、薄ぼんやりした幸薄の笑顔が可憐な女性と目が合ってしまった。可愛いより綺麗。嫌、そのどちらもバランスよく取り入れた顔立ちはアレボスの姫様なんか目じゃない。

 たゆんたゆんな胸元からずれたタオルも気にせず、じっとこちらを見つめる女性は何を考えているのか。いろんなところが見えて肌色全開な視界へこちらが恥ずかしくなり、アルベルトが一歩、また一歩と浴室から遠ざかる。

「え、えっと……ち、違うんです!」

「う、うそ……」

 アレボス言語じゃない!? けど、この言葉は知ってる。

 勇者になったときに聖剣と一緒に授けられたあらゆる言語を自分の知ってる言語へ変換する『言語理解』のスキルを使わずに、アルベルトが言う。

「嘘じゃないです。本当ですから!!」

 必死に弁解しようとするもナイスな言い訳が一つも浮かんでこない。せめて距離を取って自分が無害であることを証明しようとするも――なんということか、彼女から一歩、二歩と近づいて来るではないか。

 逃がす気はないってこと?

 歩くたび幸せいっぱいに踊るおっぱいからは逃げたくないのですが……。

 アルベルトの顔から精一の微苦笑さえ消え、ついに背中へ壁が触る。足の力が抜けて、壁伝いに尻餅をついた。

「やっと帰って来た……やっと、やっと帰ってきてくれたんだね……」

 両目へいっぱいに涙を貯めた女性が目線を合わせるようにしゃがんで、こちらの素性を聞くこともなく当たり前に抱き締めてきた。ボリューム満点、夢と希望で膨らんだ胸に顔が埋まりかける。

 もう何が起きてるか理解できず、アルベルトの意識が彼女の温もりに絡め取られそうになる。それをなんとか踏み止まらせたのは、この状況のマズさからだ。

 搾りかす同然の理性を夢中でかき集めて、彼女を押し返そうと必死に抵抗する。

「恥ずかしがらなくていいんだよ」 

 しかしこの女性、全く引く気がないらしい。いや、引かなくて結構。ここはきっと天国に違いない。男の夢と希望とロマンを集めた楽園、あぁ生きてて良かった!! って、そうじゃない!

「ど、どういうこと?」

「三年ぶりに帰って来て第一声がそれってどうかと思うよ」 

 困った風に吐息した女性に益々事態が飲み込めない。アルベルトが首を傾げた途端、ぷくっと頬を膨らませた女性に両頬を軽く摘まれる。

「彼女をほったらかして、あの約束は嘘だったの?」

 彼女!? この女性は何を言ってるんだ……?

 これは自分が見ている夢か幻術か。

 アルベルトが目尻を震わせながら、より強く抱き締める女性へ一旦身を任せた。

「もう離さないから……アルトは一緒にいてくれるだけでいいの」

 耳元を撫でる彼女の声へ、アルベルトは押し止めてきた溜息をついに吐き出した。

 ――もうどういう状況だよこれ……。



 なんてことが、三ヶ月前。

「それじゃあ花壇にお水上げてくるから」

「それくらいおれがやるって」

 店内の掃除を終えた深雨が入口の扉へ手をかけたのを見て、アルベルトがカップを置いて立ち上がる。ジョウロを受け取ろうと手を伸ばした。

「お花に水あげるだけだから、アルトはゆっくり休んでてよ」

 もう休みすぎておかしくなりそうなんだって!

「おれがやるって。深雨さんこそ休んでてよ」

「うーん、じゃあお願いしようかなー」

 アルベルトの、これ以上怠惰な生活を送るわけにはいかない。その訴えが通じたのか、深雨がふにゃと目元を綻ばせてジョウロを手渡す。

「お水あげすぎないように気をつけてね」

「了解。じゃあ行ってくるよ」

 なんとか今日最初の仕事をもらうことができた。

「でもこれで満足しちゃダメだよね……。なんとか働かないと……」

 店先で季節の花が風にそよぐ姿に目を細めながら呟いて『雨宿り』の二階部分、布団が干されたベランダ部分を見上げた。換気のために開けられた窓からは居住スペースの一角である和寝室もチラリと覗ける。

「いい天気だなぁ……」

 空になったジョウロを花壇脇へ休ませて、大きく伸びをする。眠気を覚える心地いい気温にアクビを噛み締めながら背後へ広がる商店街の街並みへ首を回す。今ではすっかり見慣れた日本の風景へ溜息がこみ上げてきた。

「もう三ヶ月か……」

 この世界、日本へはアレボスと違い、魔王どころか、魔獣、魔力と言った概念、その全てがオカルト扱い、存在していないらしい。世界を滅ぼすものは、魔王の驚異じゃなく核と呼ばれるミサイルや得体の知れない病原菌など魔力を行使して発現する事象じゃないからもう驚き、完全お手上げである。

 勇者は必要なし、お役御免というわけだ。

 それはアルベルト・シュナイダーが培ってきた数年、もしくは生まれてからの十数年を三ヶ月程度の短い期間で消失したことを意味する。

 その代わりに得たものが二つの悩みじゃ釣り合うわけがない。一つ目はたった今一時的に解放されたからいいものの、二つ目に関しては解決策が見当たらない。

「どうすればいいんだか」 

 故にそう溜息をつかない日の方が珍しい。そして、職なし金なし知恵もなしのアルベルトを不自由なく生かしてくれた彼女への恩と罪悪感に死にたくなるのもまた日常。一刻も早くアレボスへ帰らないといけないのも重々承知だが、その方法も今のところは……。

「いい加減なんとかしないといけないんだけどな」

 アルベルトがこの日何度目かわからない溜息をつくと、

「また溜息。幸せ逃げちゃうよ? 悩み事?」

 開閉窓を持ち上げた深雨が「うん?」と小首を傾げていた。

「いや……違う。違わなくないけど。深雨さん、おれももっと色々手伝いたいんだけど、なにかない?」

「特にないかな。お客さんもいないし」

「そ、掃除とか。流石になにかしないと落ち着かないというか……」

 ここにいちゃいけない存在なのに余計居ずらいんだよね……。

 内心呟きながら店内へ戻る。改めて自分の指定席同然のカウンター席へ腰を下ろすと、困り顔の深雨がぽんぽん、と頭を触った。

「わたしに気を使って無理になにかしようって考えなくていいんよ。記憶を取り戻すのに焦る気持ちはわかるけど、今はゆっくりしてて。記憶なんてすぐ戻るから……そうなったら忙しくなるんだからね。あと、掃除は終わってるよ」

「はぁ……うん」

 この世界に来て二つ目の悩みがこれだ。

 大窓へ飾られている一つの写真立て。この店をバックに数年前撮影したらしき写真がこちらへ無責任に幸せな笑顔を向けている。今より少し若い深雨とアルベルト――と同じ外見の男が並んでいるのだ。

 常連で深雨のことをよく知る八百屋のおじさん曰く、写真の男は三年前に事故死した深雨の彼氏、品田アルトだそうだ。そして何の因果か、そこへ自分が転移して来てしまい、深雨に品田アルトが生きてる――と思わせてしまっているらしい。

 実際そんな勘違いがあり得るはずないが、八百屋やほかの常連もそれより先は口を噤んで教えてくれない。

「ねぇ深雨さん?」

「ん? お腹空いた?」

「いや、品田アルトってどんな人だったのかなって」

「気になるか……気になるよね」

 途端に声を小さくした深雨へ横目を流す。つい数秒前の女神を思わせる微笑みが雲に隠れた。

「私の大切な人で恩人。たったひとりの家族だよ」

「そうじゃなくて。そうじゃなくて……」

 ――どうしてそんな悲しそうな顔をするんだよ。

 触れればガラスの破片のように粉々になってしまいそうな深雨へ押し止めていた心中を吐き出しそうになる。その顔を見るたび、自分が品田アルトと全く縁もゆかりもない、この日本とも関係がない人間だと見透かされている気分になってしまう。少しでも彼女を覆う雲を晴らしてあげたくて深雨の手を強く握った。

「手を握ってくれるのは嬉しいけど……ちょっと痛いよ」

「えっ、あぁ……ごめん」

 すぐ力を緩めるが、深雨はそんなアルベルトから何かを感じ取ったのだろう。深雨が指同士を絡めるように握り直したと思えば、

「前のアルトのこと聞いて……思い出したふりとかしなくていいんだから」

 直後、改めて目にした深雨の顔に先程の悲しみはなく、凛とした強さをほのかに感じさせる微笑が込められている。

 出会って三ヶ月経ってもこれだ。

 自分の知らない、決して自分へ向けられることがない深雨の側面を知ってしまった。

「アルトはアルト。わたしはどんなアルトもちゃんと受け止めるから。大丈夫だから」

 かけられる言葉に頷くことしかできない。深雨のとろける母性で膨らんだ胸へ抱き寄せられ、顔が埋まる感触はそれから数秒後のこと。

「ごめん……」

「気にしないで。生きてさえいてくれれば何度でもやり直せるんだから」

 心のリラックスさせる声音にアルベルトは身体の芯から彼女へ染まりきっていくのを感じた。こんなにいい人を置いて品田アルトはなに勝手に死んでるんだ、そう思わずにはいられない。

 あっそういえば手伝いの話。なんかまた誤魔化されちゃったような……。

「それで深雨さん、あの手伝いの話に戻るんだけど」

「またその話? 元気いいねー。元気なのはいいことだけど、お客さん来ないしなぁ」

 深雨が改めて店内をぐるりと見渡した。

「やることないんだよね」

「な、何かあるでしょ」

「とくにないかなぁ」

 綺麗に掃除が行き届いた店内、ピカピカのL字カウンターテーブル、顔が反射しそうな窓ガラス。確かにやることはないように見える。しかし、今日の活動が水あげだけなのはなんとしてでも阻止したい。

「そこをなんとか! なんでもやるから」

「でもなぁ……」

「買い出しとか!」

「夕方一緒に行こうね~」

「なら……深雨さん休憩しててよ。その間おれが見てるからさ。お客さんもいないし」

「そうなの。だから今も休憩してるようなものなんだよね」

 アルベルトの熱意もニコニコ顔の深雨へは欠片も届いてくれなかったらしい。ならせめて座っててくれないと、アルベルトが腰を持ち上げると、


 カランコロン。


 この退屈ムードを払拭するカウベルが響いた。アルベルトからすればこの怠惰な時間から抜け出せる福音そのものだ。

 アルベルトが食い入るように振り返ると、肩の下あたりで綺麗な紅葉も思わせる赤い髪の女の子が立っていた。インドア系というより、病弱と呼んだ方が相応しい顔と華奢なシルエットに妙な既視感を感じてしまう。しかし記憶と一致する人物はひとりも浮かんでこない。

 更に近くで見てみると、パッチリ開かれた瞳を細められた。雪花をモチーフにした髪飾りを抑えながら首が傾く。

「どうかしました?」

「い、いや……ごめん。なんでもない」

「そうです? えっと……あっ、もしかして!」

 彼女へ見つめられたかと思えば、両手を合わせてカウンターの深雨へ目をやる。

「あっ、クシャナちゃん。いらっしゃい、久しぶりだねー」

「おひさでーす。この人が例のカレシさんですか?」

「まぁね~。クシャナちゃんは会うの初めてだよね」

「ですです。写真では見たことあるんですけど……へぇ」

 カウンターテーブル中央の席へ座った彼女の視線はアルベルトだけを捉えたままだ。

「はじめまして、桐花クシャナでっす。見ての通りJKってやつですよ、どうです? あたしと遊んでみません? お兄さん、えっとアルトさんでしたっけ? アルトさんなら大歓迎ですよ」

「えっ……そういうのはちょっと……」

 なんか独特なノリだなぁ。

 今まで接したことがないテンションに戸惑いながら、チラリとカウンターの方を見てみる。深雨は怒ってないだろうか? 品田アルトとしての立ち振る舞いはこれで正解か?

 そんな心配を覚えていると、深雨がクシャナへコーヒーを持ってきた。

「ホットコーヒーでよかったよね。あと、貰い物だけどケーキも食べて」

「やったー、実は今月お小遣い使いすぎてピンチだったんですよ」

 クシャナが用意されたコーヒーで両手を温めながら深雨へ目を綻ばせた。

「ふふ、うちで働く? クシャナちゃんなら大歓迎だけど」

「あたしの学校バイト禁止なんですよねー。それにあたしが働いたらカレシさんとイチャイチャできなくなっちゃいますよ? あたしは気にしませんけど」

「大人をからかわないの。アルトもケーキ食べるよね」

 どうやら怒っていないらしい。盆でたわわな胸を押し潰した深雨の微笑みが向く。咄嗟のことにアルベルトが機械的に返事をすると、

「ぼうっとしてどうかした?」

「な、なんでもないよ」

「アルトが何考えてるかくらいわかるよ。クシャナちゃんと話したくらいで浮気だぁーって怒ったりしないよ。子供じゃないんだから」

 ちょっと違うんだけど……まぁいいか。

 アルベルトが一先ず微苦笑でその場をしのぎ、用意されたケーキへフォークを通して一口。生クリームにもいちごが使われているらしく、程よい酸味を含んだスポンジが口の中でほろりと溶けた。

 アルベルトが再度ケーキへフォークを入れたところで、カウンターへ頬杖をついてニコニコ笑う深雨の視線へ気づく。

「深雨さんは食べないの?」

「んー、アルトが美味しそうに食べてるならそれで十分だから」

「でもおれだけ食べてるのも悪いし……」

 アルベルトがフォークに乗せたケーキを深雨の口伸ばした。深雨のキョトンとした顔に気恥かしさを感じずにはいられないが、それもまた可愛らしい。まるでこちらの意思が通じていないような――違う。

 よく見ると、深雨の口元が少しだけ緩んでいるじゃないか。期待するように持ち上がる唇に自分が遊ばれていることに気付いた。しかしここまで来たら引くのはきっと許してくれない。。

 薄目を閉じ、唇を半開きにしただけなのに妙に性的に映る深雨へフォークを近づけ、

「あ、あーん」

 精一杯の羞恥心もトッピングしたケーキを深雨がはむっ、と唇で包んだ。名残惜しそうに瞳をトロけさせた深雨が頬へ手をやる。

「ん~、美味しい。アルトが食べさせてくれたからかな」

「最初からこれが狙いだったでしょ」

「どうかな~? アルトのすっごい恥ずかしそうな顔も見れたし大満足ですよ」

「恥ずかしくて死ぬかと思ったんだから」

「そうなったらわたしも一緒に死んであげるからねー。あと……」

 おもむろに伸びた深雨の指先が右頬あたりをなぞり、

「ついてたよ、クリーム」

 クリームが乗った人差し指へキスするように咥える。ちゅっ、と心音が弾けそうな音色にアルベルトが俯いてしまう。

「あ、ありがと」

 照れを精一杯隠して顔を上げた直後、右手の視線を思い出す。錆び付いた扇風機のようなぎこちない動きでクシャナへ首を回した。

「見せつけてくれますね~。こっちはカレシもいないさみしい青春を送ってるのに」

「あらあら見られちゃった」

 どうしてこんなに呑気に笑っていられるのか。それとも恥ずかしがってる自分がおかしいだけ? 

 アルベルトがコーヒーの苦味で羞恥心を押し殺そうと熱々のを一気に煽った。

「でも桐花さんに彼氏がいないのは少し意外だな」

「だよねぇ。彼氏じゃなくて好きな男の子とかはいないの?」

「いないですよー。いたら店長さんに相談しますって~」

「クシャナちゃんモテそうなのにね~」

「モテるですか……あの……実はですね」

 それまでスキップするような口調だったクシャナがフォークを皿へ戻して溜息を一つ。それだけで場の空気が深刻さを受け入れたように引き締まった。アルベルトが椅子へ座り直したのをキッカケに、

「最近……ストーカーにあってるみたいなんですよね……」

 クシャナが背後の窓を気にするように半身した。

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