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教室の中、窓際の席で空を見上げ、夏の終わり、まだ眩しい晴天に映える白い雲の形を何かと形容しようとしながら、時間を潰す。眩しい太陽の日差しが校舎に射し込むのを感じながら、木崎翔はまた今日も考えるのをやめ、非現実のような日常を思い返す。


──幼馴染の八重山ゆのは、木崎翔にとって大事な存在だった。明るく優しい、煌めく陽光を想起させるほどの笑顔が忘れられない。生まれて間もない頃からずっと一緒で、ゆのと両家族と共に旅館へ星を観に行ったあの日から彼女に少し恋とは違う思いを持つことになった。しかし、その言葉で表現しにくいそれは、高校1年のある日に見た現実で零れ落ちることとなった。

男女の隔たりもなく疎遠もなく、順調に年を重ねていく。彼女は学年の中でも可愛いとこの学校でも評判で、それ故に恋愛沙汰には人一倍関わっていた。入学して1ヶ月ほどして最初に告白を受けたゆのは翔へ相談しに来た。どうしようと困った笑みを浮かべていた彼女はどこか寂しげで、翔は堪らずどうして嬉しくないのかと聞き返すと、ゆのは簡単に答えた。

「そんなの自分でもわかんないよ」

率直かつ明快、それでいて不安定な返事だったことを覚えている。その時から彼女は知らぬ間に不安を抱えていたのかもしれない、今そう思わされる。

数々の申し出を断り続けて春から夏への変わり目も時が流れ、夏休み前の期末が終わった後のある日。彼女のある噂が流れ込んできていた。

"クラスで一番のイケメンが、あの八重山さんと付き合ったんだって。"

聞いたとき、翔はすごく嬉しかった。それは幼馴染の初の交際、いつも見てきた彼女の朗報だ。真実を本人に確認をすると、うん、の2文字。そこには少量の迷いと、困惑の表情があった。やはり嬉しくないのか、と聞くと彼女はまた素直な発言をした。

「だって、私がこんなに好かれるの、わけわかんないから」

それを聞いた翔も訳がわからなかった。モテるだとかそういうことを置いておいても、彼女にはそういう魅力があるのだと、近くで見てきた翔でさえ思わされるほどの人柄がある。だから翔は実直に答えた。

「自信を持っていいんだ、ゆの」

また2文字、うん、の言葉が返ってくる。その時に優しく笑った彼女のことを、忘れられない。

翔の心残りは、これではない。順風満帆な恋人生活を送っていたゆのは度々翔にも話しかけてくる。これでは彼氏に対して失礼ではないか。翔はゆののことを考えていたつもりだった。実際、今でも間違っていなかったと思っている。

「別に、無理して関わらなくてもいいよ」

学校からの帰り道、それを聞いたゆのは立ち止まり、少し荒い声をあげた。

「無理してなんてない!」

翔はそんな悲しそうに声を荒げる彼女を見ても、"ゆのを自分から遠ざけるために"言葉を紡いだ。

「それでも、俺とばっか話さない方がいい」

翔の言葉を聞いて、ゆのの目に涙が溜まった。

「なに、それ……なんなのそれ!」

滅多に怒ることのないゆのの初めて聞いた怒声だった。そして、ふざけないで!と翔の横を涙を流しながら走り抜けた別れからあの日までは、彼女とは一切話さないことになった。

遠目でイチャイチャとしているゆのを見かけると、安堵があった。このままその関係が続けばいいのに、と願い見届けていただけで、あれから会話のひとつもしない。それはそれで寂しさも覚えてはいたが彼女のためだと心に思っていた、夏休みが終わり本格的に授業も始まりかけ、文化祭の話も飛び交いはじめた秋色真っ盛りのある日。明るい夕日も落ち切り、辺りの電灯に虫が群がり始めた頃、ゆのの母親が家に訪ねてきた。慌てふためく様子ですぐになにかあったのだと思い、ゆのの母親が早口で喋るのを聞いて、要件を聞くよりも早く翔は駆け出した。

"ゆのが帰ってこない、連絡もないし、取れない"

普通ではない。ゆのはそんなことをする人じゃないと翔はよく知っている。高校に受かった時最初に連絡をしたのが母親なほど、彼女は母親を心配させまいとする優しい女の子だった。たとえ高校に入ってもそれは変わっていないだろう。もし変わったのならそれは自分の──。翔はここまで考えた後、思考するのをやめた。そんなことを模索する暇があるならゆのを見つけ出すのが先だと思った。

学校までの道を全て探したが見つからず、最後に辿り着いた終点、夜の、もう明かりが点いていない、教師も帰った後の締め切られたはずの校舎。それでも探さなければいけないと、開ければ警報のベルが鳴る脳内とは裏腹、なぜか鍵がかかっていなかった。違和感を覚えたまま翔は暗い校舎の中へ歩を進め、前だけをスマートフォンの明かりのみで進んでいった。1年の教室へ近付き自分の吐息が止み始めていたところに、もうひとつの荒い息が聞こえてきた。自分のクラスではない、ゆののクラス。明かりも点いていない教室なのに人の気配がすることに恐怖感を持ちながらもその開いた戸を目指した。ガタリ。と机が動くのを見て、翔は若干身体を強張らせながらも、恐る恐るその音のした、部屋の奥隅を覗く。

スマートフォンの発した光が彼女の横たわり丸まった肢体の形を映し出すと、息をする肩の上下に揺れる乱雑に崩れた制服と濡れた足にかかる下着、光で反射する落ちた涙と不快な臭いが彼女を包んでいた。絶望しきったその顔は、翔の喉の奥をつっかえさせ、心に強く焼きつき、全てを悟らせた。視界が霞む。その憎悪やそういった類いのものを感じさせないほど、見るも無惨な姿を晒していたゆのが精一杯の声を上げて反抗していた。

「見ない、で……翔…………」

こちらを見ることもなく、それでも翔だと言った。それがなによりも安心し、そして悔しく、翔はスマートフォンを地面に強く叩きつけた。自分のせいだと心に負の渦が巻かれる。ひび割れた画面から漏れ出す光が2人を細々と照らし、空いた距離を縮めるべく翔は手を伸ばした。ゆのは、それでも動くことはせず、触れると全部が壊れてしまうのではないかという恐怖が翔を襲う。近付くにつれ生々しい彼女の綺麗な肌色の輪郭、彼女のも混ざった匂いをも感じさせ、肩の震えが止まらないゆのの姿を見ると翔は手を進めるのをやめた。一瞬でも疚しく考えた自分に嫌気がさし、気持ち悪くなった。

単に悔しかった。信じていた人に裏切られてしまったゆののことを考えると、それだけで後悔が押し寄せる。それは彼氏のあいつだけではなく、翔のことも同じであったことが、より一層自分を殺したくなるほど心が重くさせた。ゆのに背を向けて座り心が落ち着くまで待っていると、彼女が声を出した。

「翔、なんできたの…?」

背から聞こえる弱った彼女らしくない声。翔の心が痛くなる。話を始める前に衣擦れが音を艶かしく鳴らしはじめ、彼女の方を向くのを躊躇して背を向けたまま返事する。

「そんなの……心配になるからだろ……」

「お母さんから……?」

「ああ」

そっか、とだけゆのが言い、そこからは会話もない。気まずい雰囲気と着替え直す音が暗闇に広がる。ゆのは、翔が自分のせいでなにかあったのだと思って探しにきてくれたことに気付いていたのだろうか、それとも他人の気持ちに触れるのが嫌なのか、それ以上は深くなにも詮索もしない。かなりの時間が経ったように思った。夜の2人だけの教室には、彼女の嗚咽以外の遮る音もない。ふと肩をちょっとだけ触れられ翔が向き直ると、乱れた髪と服装、汚れた制服やスカートが目に付く。床には汚れ丸められたティッシュが転がっていた。

「ケータイ、どうしよ」

ゆのの漏らした言葉を耳にし彼女の顔を見ると、翔から逸らすようなその目線の先には彼女のスマートフォンがあった。落としたのかボロボロで、画面も動きそうにないほどに割れたその無惨な姿を確認した後自分の隣にあるバラバラの液晶から漏れる光を見て翔は、ははっ、と乾いた笑いをこぼした。

「ボロボロだな。これも、ゆのも」

そして自分も。心の中でそう呟く。その言葉を聞いてもゆのは顔を合わせようとしない。暗い教室の中、仄かな光でさえも明瞭にわかる恐怖感がゆのを支配していた。一度だけ肩を触れられたあの時に、すでにもう自分と彼女でも狭まることのない隙間が出来ていたのであった。もう手を伸ばすことさえ叶わない、それに気付いた時にはもう遅く、恐怖で脳を焦がされたゆのは、人を信用することが出来なくなっていたのだろう。

「帰ろう」

翔は全ての衝動を抑えるように立ち上がると、一度袖を掴まれた後、少しして手に強い力が込められた。握られた手、その奥で恐怖心を噛み殺すように目を瞑るゆのの姿が、翔の目に映った。ゆのは目を閉じたまま、弱々しい声をあげた。

「た、立てないから……ずっと繋いで……」

翔はその言葉を聞いて、震えの止まらない手を優しく、そして力強く握り返した。びくりを肩を震わせる彼女の身体を翔は支えることも出来ず、今はこれが精一杯なのだと心に強く押し留めていたのだった。

弱りきったゆのをゆっくりと家に届け、離れない彼女を部屋のベッドへと横たわらせてあげると、彼女はすぐに意識を失った。説明し難い事情を事細かにわかる範囲だけでも、とゆのの母親に説明する。どこか悲しげな顔で、母親は眠るゆのを見つめながら話を聞いていたことを忘れられない。そして、自分とゆのが最後に喧嘩した以来、目を合わせることが出来なくなった。ゆのの明るい笑顔も優しい言葉も、全て見ること聞くこともなく。


そんなことがあって以来、翔は自分のことが嫌いになった。高校2年に上がってもゆのは学校に来ることはほぼない。彼氏側は少ししたある日、自分のやったことを認め八重山家へ謝罪をし自主退学。しかし、ゆのの傷は深く、あの一端から次の日からは学校に来ること自体がなくなり、今も学校側の方針として単位などが入るように措置された決められた登校日以外は学校に来なくなっていた。胸糞悪い話だと翔はもう1年経つとしても根に持つ。もし相談された時に気付いていれば、彼女はまだずっと笑顔でいてくれたのではないかという思いが拭えないまま、時だけが過ぎていきいい方向へ動くことすらない。そんな今の状況を作った自分が大嫌いだ、と翔は責め立てる。

昼休みを告げたチャイムが鳴り、休み時間の喧騒が耳に障るのを嫌い翔は教室を出る。購買で騒ぎ立てる人の波、廊下でたむろする男女の集団を目に映さないように早足で歩を進め、誰もいない、いつもの校舎裏で風に当たる。

「そういえば、今日は飯がないな」

ふと思い出すが、仕方がないか、と諦め壁に身体を預けるように深く座ると、頭上から翔を呼ぶ皮肉げな声が聞こえてきた。

「木崎先輩、またこんなところでひとりですか?」

1年の佐口茜。中学の頃からの後輩で、小悪魔のような可愛い笑みをする小さくて活発な女の子。中学の時にゆのと仲が良かったらしく、その過程で翔とも少しは話す程度だった。

「なんだ、ひとりをバカにしにきたのか」

「まーたいつもどおり、そのなにか諦めたような顔はどうにかならないんですか」

見上げながら話すと、よっと、と漏らした声の後翔の頭上を窓から飛び越えて目の前にストッと着地する。綺麗なジャンプをしていて、捲れたスカートの中が丸見えだった。

「あ!先輩スカートの中覗きましたね?」

「不可抗力だそれは」

「ま、スパッツなんでどうでもいいんですが」

どうでもよくはないだろ、と翔が呟くのを聞くといたずらっ子のような笑いをする。少し鼻につくがなぜか否めない不思議な子だった。

「そうそう、ご飯食べました?なんかちょっと余りそうなんであげますよ?」

右手に持った袋をごそごそと左手で弄る。嬉しそうに手に取ったのはおにぎりひとつ。

「別にいい」

「もう、ほんと木崎先輩は遠慮しぃですね。ほらほら、茜もひとりなんで一緒に食べましょ」

ポイっと投げられるおにぎりをキャッチしてしまい、仕方なくもらうことにした。隣に茜が座るが、2人の間は袋ひとつ分だけ空いている。三角座りでちまっと座り自分用のおにぎりを食べる茜は、少し顔が明るくなっていた。翔ももらったおにぎりをあけ、口に入れる。すると茜が見つめる視線を感じ、翔は茜の方を向く。パーソナルスペースを乗り越えるように前のめりに見つめていた茜と目が合った。

「なんだよ」

「もう少し楽しそうにしてくださいよ。やっぱり、ゆのちゃんじゃなきゃダメなんですか?」

目を逸らし、前に戻しておにぎりをまた一口食べるが、その問いに翔は答えない。

茜もゆののことをよく知っている。先輩後輩というより姉妹のような、そんな仲の良さをしていたのを翔は覚えていた。だからこそだろう、茜もゆののことを気にしており、関わりの強い翔にも時々気にかけるような言動を投げかけることがある。翔についてゆのの家へ訪問したこともあるが、今のゆのを初めて見た時は相当なショックを受けていたのが最近。それがあってから茜は翔に対して少し丸くなった。なにかと理由をつけては絡むのが、翔には少し小賢しくも心地は悪くなかった。

唐突に縮まった顔の、目の奥に茜の本心も垣間見えていた。ゆのが心配なのは2人とも同じならば、と少しだけ話を始めた。

「ゆのは時々学校に来てるぞ」

「あ、そうなんですね。まあ単位とか色々ありますしね。どうにか卒業までは行けそうって感じですかねー」

「多分。元から勉強出来ないわけじゃないし、社会に出る知識は大丈夫だとも思うけど」

そうですね、と言いながら茜は袋を広げた。中にはあとひとつのおにぎりと、小さいペットボトルのお茶と、缶コーヒーが入っていた。

「あ、コーヒーどうぞ。どうせいるだろうと思って買っておきました」

「別にそんなことしなくても」

遠慮気味な翔にほいっ、と突然茜が冷たいコーヒーを投げる。翔の座る股の間に転がされ、これも仕方なく受け取ることにした。

「それで、やっぱり人間関係ですか。難しいですよねそこは」

翔がカチリとタブを開けコーヒーを流し込む。それを追うようおにぎりをひとつ食べ終えた茜もペットボトルの蓋を開け、小さな両手で持ってちょびっと飲み、翔の方へ向く。

「んー、それは茜も、木崎先輩もどうしようもないですし。少しきつい言い方しますが、これはもうゆのちゃんが自分から動かないとどうしようもないことかと」

「それゆののことちゃんとわかって言ってんのか」

少しだけ強い声音を発し怖がらせたのではないかと茜を見るが、茜は真剣な表情で翔を見つめたままでいた。

「この茜がわからないと思いますか?木崎先輩ほどじゃないにしろ、茜もゆのちゃんとはかなり仲が良かったんですよ?というか、木崎先輩もこんなことわかってるでしょ?」

翔は唖然とした。自分の中でゆのを助けなければいけない使命感が勝手に渦巻いていただけで、内心ではゆのが少しでも動かない限りどうしようもないということは、翔自身薄々感づいていた。今の人間を信じることの出来ないゆのにはどんな誠実な言葉も泡となり消えるのだと、そう思った時から。

「反論出来ないでしょ。茜はアホな木崎先輩よりも現実主義者なんで」

「それでも」

それでも、と翔は唇を噛み締める。自分のしたことが一生の後悔になるのが怖くて、全部自分のために。

「ま、そういうわけですよ。じゃあ茜は教室に戻るんで。友達が待ってますからね」

スッと立ち上がる茜を翔は見上げる。腕を空に伸ばし、んんーと気持ちの良さそうな伸びをしたあと、ペットボトルだけを手に持ち、では!と手を振ってその場を離れる。

「あ!窓、よろしくお願いします!それとゴミもよろしくお願いしますね!そこに入ってるおにぎりが報酬です!じゃ、また!」

一度振り返り、彼女はいたずらっ子のような幼い笑顔を見せて去っていった。乱雑に放置された袋を確認すると、そこにはおにぎりひとつがゴミの中に残っていた。

「って全部かつおかよ」

絶妙なチョイスに苦笑いをし、袋にもう一度戻すと、俺はゆのを助けたいんだ

、と呟いて彼女の置いていった袋ごと手に持った。



○○○○○



放課後になっても多くの生徒が校内にいた。飾り付けを作るために指をせわしなく動かす者や、廊下を走り回り資材を集める働き者が、周辺を賑やかしていた。翔はそれを見守ることもなくひとり、帰路へと向かう。1年の時から文化祭というものには参加していないせいか、1年経った今ではもう乗り遅れてしまっていた。靴を履き辺りを見てみると、部活も休みにはならず、外へ出るとグラウンドには野球部の掛け声や打球の痛快な音が響き渡っていた。

学校からの帰り道、決別した道を見るたびに翔は心の奥が苦しくなる。子供たちがはしゃいで遊ぶ公園がすぐ近くにあるが人通りは多くはない、そんな道だ。この時間に歩く人は帰りが同じ道の生徒くらいで、今日に限ってはあまりいない。そこにいつもは見ない、同じ制服の女性が立っていた。1年の頃翔が密かに憧れていた、川島佳恋。話しかけるのも忍びなく、見ないフリをして通り過ぎようとしたが、向こうから声をかけられた。

「あ、木崎くん。やっぱりこっちの道であってた。よかったー」

見るからに優しい雰囲気のスタイルのいい先輩。男の人なら初めて話すのは必ず緊張するだろうというほどの完璧オーラのようなものを持っているため、校内では逆に男との噂を驚くほど耳にしない。

「はい、なんでしょう先輩」

「そんなかしこまらなくてもいいって。今日はね、ちょっとお願いがあって」

翔が首を傾げると、くるりと踵を返した佳恋がついてきてと促すようにゆっくりと歩き始めた。このまま帰るのも失礼なので、少し離れたところからついて行く。

──少しだけ接点はある。初めての邂逅は保健室の中だった。入学して少ししたある日、先生に頼まれた用事で保健室へ届けものをした時、中でひとり佇んでいたのだった。最初に「どうしたの?」と聞いてくる彼女の顔を見た時、ドキリとした。みんなの憧れの2年の先輩が目の前で自分と密室で2人きりであること。人はどうもこういうシチュエーションに弱く作られているのか、すぐに緊張で声が出なくなった。心臓だけが声を荒げ、会話もおぼつかなくなるほどの綺麗さを目の当たりにしたのを今でも翔は鮮明に覚えている。そしてひとつだけ。2人だけの秘密として抱えていることもあった。

少し歩くとそこは翔やゆのも知っている、近所の神社だった。木に囲まれて落ちてきている日差しと相まり少し涼しく、佳恋も境内の端を楽しげに通りながら、ふと歩を止めた。風が木々を揺らし、寒々しい秋空の雲がまた形を変えた。

「お願いってなんですか?」

翔が切り出すと、佳恋はくるりと翻った。その笑顔はまた、儚く見える。

「八重山さん、最近どう?」

内容に入る前に世間話をしようとするように、佳恋はよく本心を隠したがる。翔はまあいいかと答えることにした。

「ゆのは…なにも変わってません。なにも」

「なにも、ね。変わってほしい?」

「あの頃みたいに笑ってほしいです」

翔は拳を握る。言葉と態度に力が入ったのを見て佳恋は笑う。

「大好きなんだ。八重山さんのこと」

「そんなんじゃ、ないです」

佳恋は足を踏み出し、近寄る。後ろに下がるのを追いかけるように顔を近づけられ、翔は視線を逸らした。

「木崎くん、あの日からずっとそんな感じ。初めて出会った時はもっと誠実でいい子な印象だったのに」

「それは…」

「あなたがそんなんじゃ、あの子にも失礼じゃない?だって」

「なんで!なんで、そんな話をするんですか…!呼び出した理由はそれですか…!」

痺れを切らして翔は声を荒げる。佳恋は動揺も見せない、それこそその怒りを聞いて嬉しそうな顔をするのを、翔は更に激情を言葉に乗せて返す。

「大体、あなたにはゆののことはわからないでしょう!あいつがどれだけ辛い思いをして、今を生きているか。先輩は、なんで俺にそんな、辛い現実を見せるんですか…」

「だってそんな態度じゃあなた、自分のことしか考えてないもの」

ぐっと胸を突き刺された感覚が翔を襲う。人1人分もないほどに接近したその距離で、佳恋は言う。

「あなたが変わったら、普通あの子に、あなたの言う"あの頃"に戻ってほしいなんて言う資格はないと思う」

翔の胸の前に細く綺麗な左手が置かれる。苦しくて叫ぶ鼓動が佳恋の手に伝わっていくのを、隠すこともできない。

「なんで、誰も彼も、俺をそんなに苦しめるんですか…」

悔しさで滲む声をあげた。胸の奥から溢れる悲痛な叫びが、翔の口から零れ出した。佳恋はそれを聞いて、翔の力のこもった手を女性らしく右手で柔らかく包んだ。

「そんなの、心配だからに決まってるじゃない。多分木崎くんを苦しめた言葉全部、木崎くんのための言葉だよ」

言われて頭の中であのいたずらを乗せた笑みを思い出す。そして、自分自身に強く腹を立て、涙も零れてしまう。

「もう、泣かないでよ」

「なんでこんな俺に、そんなに関わりのない俺に、先輩は優しくしてくれるんですか…」

「あら、ちょっとそれはひどい。最低でもわたしはあなたのことは結構特別なのよ?」

「あの秘密のことでですか」

「それもあるけどね」

ふふっ、と笑った佳恋は握った手を離し、翔の流れた涙を胸に当てていた手の親指で拭き取って後ろに腕を組む仕草をした。

「そうそう、それでお願いの話。わたしと木崎くんで、文化祭でやりたいことがあるの」

「話変わりますね…なんですか?」

話の本題に入ろうとする佳恋の話を聞くために、翔が溢れる涙を自分でしっかり拭って視界をよくすると、鞄から取り出したボードを見せつけられる。

「お悩み相談所。保健委員らしいでしょ?でもやっぱみんな遊びたいらしくて乗り気じゃなくて。だから一番なにもしてなさそうな木崎くんにって思って」

「さらっとひどいですね。いや、まあ当日は2日ともなにもする気はありませんが…」

「大丈夫だよー、表に出るのはわたしだけ。補佐なんかしてくれるだけでいいから、だから人数の埋め合わせだけ、お願いします!」

渡された企画案用紙に、最低2名という制約が書かれていた。一つ目の欄の川島佳恋という名前だけが埋まっている状況で、他にはやってくれる人はいなかったらしい。翔は今の話をし、彼女も少しなら、純粋に出来るのではないかと思った。

「わかりました。どうせクラスでもドロップしてるんで、安心して入れるところがあれば少しはマシですし」

用紙に付いていたボールペンを持つ時、自分の手が濡れていることに気付き、腰元で拭ってから木崎翔という名前を載せる。その手についた汗や涙で滲まないように慎重に書いたその字はいつもより少し下手だった。

「ぷっ、字、下手」

「笑わないでください…なんか上手く書けなくて」

「うんうん、わかってるよ。しかと受け取りました。よろしくお願いしますね」

しっかりとボードを抱きかかえた佳恋は、風で髪を靡かせて優しく微笑んでいた。


翔は佳恋の背中を半歩離れて追うように歩く。出会った場所で佳恋は学校の方へ逆戻りするため、それを惜しむように2人はいつもよりゆっくりと歩みを進めていた。

「なんであの神社に寄ったんですか?」

「んー、理由はないよ。ただ、前半のことも話したかったから」

全て佳恋の策中であったことに翔は恥ずかしくなった。口籠って声を出せないのをよしとしたのか佳恋は話を続けた。

「これからどうすればいいかわかる?わたし、相談に乗ってあげれるからいつでも話しかけてきてね」

「い、いや、さすがに学校で話しかけるのは…その…」

「恥ずかしい?」

「いや、なんというか…」

くるっと半回転して後ろ歩きをしながら翔を見て、佳恋はじゃあなに?と聞く。翔は頬を掻いて、苦笑いをした。

「だって川島先輩って、みんなの憧れなんですよ?」

翔に言われたことがわからず、佳恋は頭にハテナを浮かべた。そもそも佳恋は自分のことをあまり気にしていなかったのだった。

「んー、でも、わたしがいいよって言うんだから、いいんだよ?」

柔らかい微笑みをしながら前に向き直る。その佳恋という名前そのものの可憐さはやはりどこか眩しく思われ、多くの人に手を伸ばせない場所にいる錯覚を起こさせる。楽しそうに肩を揺らして歩く、その背中を追うのが翔の精一杯だった。

「どうせ、場所の取り押さえとかで手伝ってもらわないとだし」

「は、はあ、そうですね。いいところがあれば教えます」

承諾したはいいものの、少し不安ではあった。先輩の期待に応えることの重みを感じていた翔は、所在無さをごまかすように佳恋の影を目で追っていた。通り過ぎる公園からはもう小学生たちの動く影も見当たらないほど、いつしか時間も過ぎていた。さようならの声がする。小学生たちが丁度家へ帰るところだろう。大きく手を振ってまた明日!と元気よく交わすのを、翔と佳恋は耳にする。いつも翔の通る道へ出ると佳恋もまた、小学生たちと同じように挨拶をする。

「おつかれさま、またね」

遠ざかる後ろ姿を翔は見えなくなるまで見送った。そろそろ日も全部落ちきるだろう前に、少し早足で家に向かう。

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