7人目 制裁完了
決行の夜、空はどんよりとした鉛色に澱み、湿った風が川沿いの草むらを不気味に揺らしていた。
午後十時。かつて二人で「海へ行こう」と約束したあのピンクの軽自動車は、市民公園の最奥、街灯の死角に潜むように停まっていた。アイドリングの振動に合わせて、錆びたマフラーがカタカタと乾いた音を立てる。閉め切られた窓ガラスは、内側からの熱気と湿気で真っ白に曇り、その光景自体が卑俗な情事のメタファーのようだった。
「……準備はいいですか、綾香さん」
背後から低く、確かな声がした。レンが、暗視カメラを構えたスタッフを従え、影のように寄り添っている。綾香は深く頷いた。その指先はもう、震えてはいなかった。
「はい。あの日逃げ出した自分を、今日で終わりにします」
綾香の手には、隼人がリビングに脱ぎ捨てていたスペアキーが握られている。彼女は音もなく車に近づくと、スライドドアの解錠ボタンを力いっぱい押し込んだ。
――ガシャン、と重い金属音が夜の静寂を切り裂き、ドアが勢いよくスライドした。
「隼人。……お仕事、お疲れ様」
綾香の声は、驚くほど冷静で、そして冷酷だった。
次の瞬間、レンの合図とともに数台の強力なLEDライトが、暗闇を暴力的なまでの白光で塗り潰した。
「眩しっ! なんだよ、おい、ふざけんな!」
光の中に晒されたのは、後部座席で半裸のまま絡み合う隼人と、派手なネイルを顔に押し当てた若い女の姿だった。車内からは、あの忌まわしいホワイトムスクの香りが、吐き気を催すほどの濃度で溢れ出してくる。
だが、地獄はここからだった。
狼狽して顔を伏せるかと思われた不倫相手の女が、突然、剥き出しの肩を隠しもせず、レンのカメラを鋭い眼光で睨みつけた。
「ちょっと、何裸撮ってるんですか! プライバシーの侵害なんですけど! 警察呼びますよ!」
耳を刺すような高圧的な叫び声。女はあられもない姿のまま、身を乗り出して綾香に指を突きつけた。
「ていうかさ、奥さん。あんたがまともに旦那を満足させられないから、こうやって浮気されるんですよ。わかってます? 魅力がない方が悪いんじゃないですか?」
「な……」
あまりの言い草に、綾香の言葉が詰まる。女は勝ち誇ったように鼻を鳴らし、さらに言葉を重ねた。
「欲求不満で爆発しそうだった隼人さんの相手をしてあげたんだから、むしろ私に感謝してほしいくらいです。慰謝料? 払うわけないでしょ、こっちはボランティアでやってあげてんだから!」
「……てめぇ、いい加減にしろよ……!」
それまで呆然としていた隼人が、狂ったように吠えた。だがその怒りの矛先は、女ではなく、撮影しているレンに向けられていた。
「おいコラ! 何撮ってんだ、ぶっ殺してやる!」
隼人は半裸のまま車外へ飛び出すと、獣のような形相でレンに殴りかかった。レンが咄嗟にカメラを庇って身を交わすが、隼人は理性を失った勢いでさらにスタッフへ体当たりをかます。
「やめなさいよ! 隼人、恥を知りなさい!」
綾香が叫ぶが、隼人の耳には届かない。泥だらけのアスファルトの上で、半裸の男が振り回す拳と、それを制止しようとするスタッフの罵声、そして女の「撮るなっつってんだろ!」という金切り声が混じり合い、現場は阿鼻叫喚のカオスと化した。
バキッ、という鈍い音が響き、隼人の拳が軽自動車のサイドミラーを叩き折った。彼が何よりも大事にしていた「唯一の城」の残骸が、虚しく地面に転がる。
「……あはは……」
その光景を見つめていた綾香の口から、乾いた笑いが漏れた。
泥を噛みながら醜く暴れ狂う幼馴染。全裸同然で傲慢な正当化を喚き散らす女。
かつて共に夢を語った思い出の軽自動車は、今やホワイトムスクの死臭を放つ、ただの鉄屑の棺桶だ。
「レンさん、もういいです。……全部、撮れましたよね」
綾香は、乱闘の渦中に離婚届を放り投げた。ひらひらと舞った紙は、隼人の泥まみれの背中に張り付いたが、彼はそれに気づくこともなく怒号を上げ続けている。
「さよなら、私の青春。……あんたたち、本当にお似合いの『底辺』よ」
レンの持つライトが、新しい人生へと歩き出す綾香の背中を、凛とした白さで照らし出した。
背後で続く狂ったような咆哮も、壊れたマフラーの異音も、もう彼女の耳には届かなかった。夜風が、澱んだムスクの香りと共に、彼女の過去を永遠に押し流していった。




