復讐準備
和馬が浴室から出てくる音がする。宏美は、弾かれたように床に落ちた領収書と紙袋を元の位置に戻した。指先の震えが止まらない。胃の底が冷え切り、視界がチカチカと明滅する。
「あー、さっぱりした。おい、ドライヤーどこやった?」
タオルで頭を拭きながら、和馬がのんきな声を上げる。その無防備な背中。かつては頼もしいと思っていたその輪郭が、今はただ、自分の人生を食いつぶす寄生虫のようにしか見えない。
「……棚の一番上よ。さっき陽太が触らないように置いたの」
「あぁ。……あ、そうだ。明後日の水曜、また残業になったから。飯いらないわ」
まただ。
また、あの「2万4千円のレストラン」へ行くのだろうか。それとも「ホテル」へ行くのだろうか。
宏美は、シンクに溜まった洗い物を見つめたまま、声を絞り出した。
「……そう。大変ね、お仕事」
「ま、期待されてるからな。お前も大変だろうけどさ、レジ打ちのパートなんて代わりはいくらでもいるんだから、あんまり気負いすぎるなよ? ははっ」
和馬はドライヤーの轟音にかき消されるように笑い、寝室へと消えていった。
宏美は、真っ暗な台所で立ち尽くした。
代わりはいくらでもいる。
それは、彼にとっての「妻」も同じなのだろう。
翌朝。宏美はいつも通り5時半に起き、和馬の弁当を作った。
だが、中身は変えた。
100円ショップで買った一番安い冷凍食品を詰め込み、隙間を米で埋めた。和馬は気づきもしないだろう。彼にとっての宏美は、自分の生活を円滑に進めるための「機能」でしかないのだから。
陽太を保育園へ送り届けた後、宏美はスーパーのパートを早退した。
向かった先は、昨日見つけた領収書のレストランの近く。
32歳、ボロボロのママチャリ。首元が伸びたカットソーに、スーパーのレジ打ちで荒れ果てた指先。
お洒落なカフェの窓に映る自分の姿を見て、宏美は惨めさに喉が詰まった。
(私は何を守ってきたんだろう。このボロボロの生活を、あんな男のために守ってきたの?)
宏美は震える手で、預金通帳を開いた。
自分の独身時代の貯金と、和馬に内緒でコツコツと貯めていたパート代の残余。
合計で、30万円。
一晩で2万4千円を使う男に復讐するには、あまりにも心許ない武器。
だが、宏美の瞳からは、もう涙は出てこなかった。
レジ打ちで鍛えられた、正確で冷徹な計算が脳内で始まる。
一円単位の無駄を許さなかった彼女が、今度は和馬の人生の「損益計算」を始めたのだ。
「……司さん」
宏美は、スマートフォンの連絡先から、一人の名前を呼び出した。
それは、かつてスーパーでトラブルがあった際に、客として居合わせ助けてくれた、現在は探偵事務所で働いているという男性だった。
「野村です。……仕事を、お願いしたいんです。……一円もまけなくていいので、完膚なきまでの証拠を、揃えていただけますか」
宏美は、錆びついたママチャリのペダルを思い切り踏み込んだ。
チェーンがギィ、と鋭い音を立てる。
それは、彼女の心が「守る側」から「壊す側」へと切り替わった合図だった。




