第1章:沈黙する数式
有沢るいは、ぬるくなったコーヒーを口に運びながら、職員室の窓の外に広がる曇天をぼんやりと眺めていた。
時計の針は午前7時42分。始業まで、あと18分。だが、彼の心はすでにどこか遠くにあった。
「また、同じ一日が始まるな……」
誰に向けるでもなく呟いた言葉は、パソコンのファン音にかき消された。
教員歴27年。数学教師として、数式とグラフに囲まれた日々を送ってきた。かつては、関数の美しさを語り、生徒の瞳が輝く瞬間に胸を熱くした。だが今は、教科書のページをめくる手に、熱はない。
「有沢先生、今日の3年2組、進度どうします?」
隣の席の若手教師が声をかけてきた。有沢は一瞬だけ顔を上げ、曖昧に頷いた。
「……予定通りでいいよ」
それだけ言って、再び視線を窓に戻す。曇天の向こうに、校庭の鉄棒が並んでいる。誰もいない。誰も、彼を必要としていないように見えた。
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家に帰ると、空気は一変する。
「パパ、おかえりー!」
「今日ね、算数で九九の早押しやったんだよ!」
「僕はね、分数のテストで100点だった!」
小学2年、4年、6年の三兄弟が、まるで小鳥のように有沢にまとわりつく。リビングには、妻・美咲の笑顔がある。彼女は30歳、小学校の教師。るいより19歳年下だが、教育への情熱は眩しいほどに健在だった。
「るいさん、お疲れさま。夕飯、カレーにしたよ。子どもたちがリクエストしてね」
「……ありがとう」
有沢は、笑顔を返す。返せる。だが、心の奥には、どこか空洞が残っていた。
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翌朝、校長から新しい教育支援ツールの導入が告げられた。
「AIによる個別学習支援システム『AL』を、来週から試験導入します。生徒一人ひとりに合わせた学習提案が可能です。先生方の負担軽減にもつながるはずです」
職員室にざわめきが広がる。有沢は、ただ黙っていた。
「AIが、教師の代わりになる時代か……」
その言葉は、誰にも聞こえないように、彼の胸の中で静かに響いた。




