白い闇を観る女
午後八時四十五分を回った時、出入口ドアが静かに開いた。
「あと十五分でこのギャラリーは閉まりますが」乙一は入室して来た女性に声をかけた。銀縁眼鏡をかけ長髪を一括りにしている入室者は微かに頷き、白い記名帳にボールペンで氏名と住所を記入した。彼女は自分の前に記入された氏名をチラッと見た。紺色のレディススーツ姿の入室者は乙一の視線を無視して何かを探すように周囲を見渡した。そしてある一点に眼を凝らした。それから眼を凝らした方に真っ直ぐ歩き始めた。彼女は真壁褾の絵の前で立ち止まった。
乙一はパイプ椅子からゆっくりと立ち上がり、この入室者の後ろ二メートルのところまで移動した。彼の目の前の女性の肩が小刻みに震え始めた。ほっそりとした肩の震えが徐々に大きくなり「アハハーッ」という乾いた声が響いた。そして真壁褾の作品を観ていた女性はゆっくりと体を反転させ、乙一と向かい合った。
「ねえ、あなた。あなたは私がこの絵に何かすると思ったでしょ?」冷たい銀縁眼鏡をかけた女の青紫の唇が滑るように動いた。
「さあ、何のことでしょう?」受付係の男性の右の口角が僅かに上がった。
「大丈夫よ、何もしないから」
「ハイ、分かっています」乙一は明るく答えた。
「フ―ン、あなた、面白いわね」女は受付係の胸のプラスチック用の名札を見ながら詰まらなそうに言った。
「ありがとうございます」受付係の男性社員は目の前の女性の灰色の瞳を見ながら言った。
「私もね、この子を知っているのよ」女は細長い舌で青紫の唇を舐め回した
「・・・・・・」乙一は頷いた。
「この子は車椅子に乗っている。杖を突いているときもある。どうしてかと言うと右足が切られたのよ。右膝の上あたりから。スパッとね。可哀想でしょ?」女の発した言葉に嘲笑の匂いがあった。
「・・・・・・そうですか」
「同じ義肢をつけていてもスタスタと歩く子もいるのにね」
「・・・」受付係のAFZ社員はまた頷いた。
「この絵画展の絵は暗い絵ばかりねぇ。みんな闇ばかり見ているのかしら?」女は右人差し指の尖った赤い爪で乙一の名札を掻きながら、探るように訊いた。
「お客様が観ていた作品は白が基調の絵だと思いますが・・・」
「そうねぇ・・・白い闇に覆われている」
「白い闇?」乙一は一瞬、目を見開いた。
「闇はねえ、暗闇ばかりじゃないのよ。白ばかりだと何も見えないでしょ」女は後ろを向いて真壁褾の絵を観た。そして苦々しい笑いを浮かべながら絵画展の受付係を見た。
「なるほど・・・」絵画展の受付係は女の言葉を素直に聞くことができた。
「その空間は何もかも真っ白で影すらもない。そういう場所って素敵じゃない?」女は細い舌を青紫の上唇に這わせた。乙一は目の前の女をただ観ていた。
「私は蛾なのよ」そう言った女は目の前の男が自分の言葉に何も反応しないことに少し苛立った。
「・・・」乙一は何も答えなかった。
「電灯の灯りに引き付けられて、その周りを飛び回っている虫なの」女は自嘲気味に微笑んだ。
「・・・蛾」
「そう蛾よ。白い闇の中には、とっても良いことがあるかもしれないわよ」
乙一には女の灰色の瞳が徐々に白さを増しているように見えた。
「ガチャ」出入口ドアが開く音が響いた。痩せた男が入って来た。
「おーい、新潟君、もう九時過ぎているよ」くたびれた灰色の作業着を着た男はしわがれた声を発した。度の強い黒縁眼鏡をかけたその男はボサボサに伸びた白髪交じりの頭髪を右手で掻いている。
「・・・亀井さん」乙一はそう言うと左腕に嵌めている紅バンドの腕時計を見た。そのデジタル式腕時計は九時三〇分を表示していた。
「じゃあね、新潟君」女は白い名刺を乙一に手渡し白い出入口ドアに向かって行った。乙一は右手に手わされた白い名刺を見た。そこには女の携帯電話の番号が記されていた。




