後編
「……ふぅ」
立ち上る湯気の中、僕は体を脱力させた。
お風呂がこんなに気持ち良いのは生まれて初めてかもしれない。
顔にばしゃばしゃとお湯を被るとまた小さく息を吐く。
「……どうだ」
「あっ、はい。気持ち良いです」
「……そうか」
貸し切りに近い湯船。
話しかけてきたのはこの銭湯の主人であるおじいさん。
僕がこうして安堵の息を吐けるのもこの人の厚意のおかげである。
走り疲れてもはや足取りすらふらふらになってしまった僕。
自転車を支えになんとか歩いて辿り着いたのがこの銭湯だった。
「わっ、銭湯だよ銭湯っ」
へとへとな僕を元気付けるように先輩が言う。
もしかすると単に初めて見る銭湯にテンションが上がっただけかもしれないが、ここはいい方に捉えておく。
「……もう閉まってるみたいですよ」
「……え」
中に明かりは付いているものの、ドアに掛けられた札は『閉店』になっていま。
先輩が心底残念がっている。
僕はというと、銭湯が閉まっていることよりも銭湯が閉まるような時間になっていることの方を気に掛けていた。
「……なんだ、お前ら」
閉店の札をしげしげと眺めていた僕らに銭湯の中からガラス越しに声が掛けられた。
先輩よりも背の小さい白髪の老人。
老人としてもかなり歳が進んでいる方であろう。
「あの、今日はもうやってないんですか?」
先輩がガラス越しに言葉を返す。
「……」
潮風でパサパサの髪をした少女と汗でパリパリのTシャツを着た少年。
そんな僕達が目を細めた老人の目にどう写ったのかは分からないが、僕らは閉店後の銭湯の中へととおされたのだった。
「……」
僕は男湯と女湯を隔てる壁の方を見る。
この壁の向こう側に産まれたままの姿の先輩がいるわけだ。
なんてことを考えてしまったらもうダメだ。
意識が全て壁の方へ吸いこまれてしまう。
「きもちーねー、後輩くん」
「っ」
突如先輩の声が響いてきた。
完全に不意を突かれた僕はばしゃんと音を立てて湯船へ沈む。
「どしたのー?」
「なんでもないですー」
先輩の声に釣られて間延びした声が出た。
頭がふらふらする。
湯冷めしないうちに出た方がいいかもしれない。
「……ふぅ」
浴室から出ると、鈍い音を立てながら乾燥機が回っていた。
僕はタオルを腰に巻くと、その鈍い音の正面に座る。
先輩と一緒に旅へ出なければ一生経験することがなかったような経験。
「……勝手に洗わせてもらったが」
「いえ、助かりました」
「……そうか」
それだけ言っておじいさんは男湯の脱衣所から出ていってしまった。
なぜおじいさんはここまでしてくれるのだろう。
流石にそれを直接聞くほど無粋でもないが。
体の疲労が大分解消された僕は脱衣所の前で先輩を待っていた。
先輩にとっては初体験の事ばかりだろうし色々心配なのだが。
だからと言ってここで女湯の脱衣所へ入って行くのもおかしな話だ。
悶々としながら僕は待つ。
「あ、待たせちゃったかなー」
程なくして現れた先輩。
水気の残った髪が頬に張り付いている。
ほんのりと蒸気した頬。
病院に居た時や並んで歩いていた時ともまた違う印象。
まぁどの先輩も魅力的なのだけれど。
「ありがとうございました」
僕はおじいさんに深々と頭を下げた。
もう動けないとまで思っていた体の疲労は大分解消されている。
その代わり逆にもう動きたくないと言う感情も湧いてきたが。
「……行くのか」
おじいさんは先輩と僕を交互に見てから呟くように言った。
こんな時間に出歩いている理由は聞いてこない。
聞かれても困るけど。
「ありがとう、おじいさん」
「……うむ」
おじいさんは何か言いたげに見える。
だが何も聞いてこない。
理由も無く助けるはずがない、というのは僕が捻くれているだけなのだろうか。
外へと向かう先輩の背中を見ながら僕は財布を開けた。
「……いらん」
既にお札に指を掛けていた僕。
その言葉を聞いて財布から手を離すとおじいさんの方を向いた。
正直、状況を考えると素直に受け入れるのが正しいのだが。
「どうしてここまでしてくださるんですか」
ここで聞かない人の方が少ないのではなかろうか。
そんな風に自分に言い訳しながら、不躾とは分かりつつも僕はその疑問を口にした。
「……」
おじいさんは僕の方を見ていない。
去って行った先輩の背中を追うように出入り口の方を見ている。
答えにくい事だったりするのだろうか。
「……その金はあの子に使ってやってくれ」
今度はちゃんと僕の方を向いておじいさんが言う。
僕の質問の答えにはなっていないが。
「……お世話になりました」
僕か、先輩か、そのどちらかに重なる気持ちが何かあったのだろうか。
僕はおじいさんへ一礼すると、振り返らずに出口へ向かう。
「夜になっても涼しくはならないねー」
「お風呂に入った直後なのもあるかもしれません」
「あ、そっかぁ」
傍から見ると滑稽に聞こえるであろう会話だ。
先輩は小さく笑っている。
僕も釣られて笑った。
「これからどうしましょうか、先輩」
「んー……」
先輩がここにきて初めて悩む素振りを見せた。
何か心境の変化があったのだろうか。
僕は悩んでない時間が無いような状況なのでむしろ今更ではあるけども。
「あっち、あっちに行ってみよう」
悩んだ末に先輩が指差した方向は街とは反対方向だった。
僕は何も答えずサドルを跨ぐ。
直後、荷台に何かが乗った気配。
喉を鳴らす音も聞こえた。
音が止まるのを待ってから、僕はゆっくりとペダルを漕ぎ出した。
『やっぱり、帰ろう』
先輩がそう言いだすのを僕は待っているのかもしれない。
待つ必要なんてないだろうに。
自転車を漕いでいるのは他ならぬ僕なのだから。
先輩を連れて帰ることはそう難しい事じゃないはずだ。
「銭湯って洗濯機あるんだね、初めて知ったよ。キミは知ってた?」
「いえ、僕もほとんど利用した事無かったので」
「そうなんだ」
先輩は相変わらず他愛もない会話を続けている。
事は僕が思っているほど重大ではないのだろうか。
誘拐未遂騒ぎがどうのと言う話はどうでもいい。
先輩の身体が平気ならなんだって。
どのぐらい走っただろうか。
立ち並んでいた建物がだんだんと疎らになり、その代わりに自然が増えてきた。
街灯もほとんど無く、車の往来もほとんどない。
まるで世界に先輩と二人だけになってしまったような感覚。
先輩の息遣いが大きい音に聞こえた。
「どの辺りまで来たんだろうね」
先輩がぽつりと呟く。
とても小さい声なのに、まるで音叉のように反響して耳に響いた。
「確認してみますか?」
僕は自転車の速度を落としながら尋ねる。
「確認できるの?」
「多分、大丈夫だと思います」
僕は自電車を止めると、スマートフォンを操作してマップを起動した。
山間に位置するので少し心配だったが、右往左往しつつも矢印が停止する。
アテも無く走っていたが結構な距離を来たものだ。
もし捜索願が出ていたとしてもそう簡単に見つかる距離ではなくなっている。
その事実がまた少し僕の胸にちくりと刺さった。
「どの辺りまで来たかそれで分かるの?」
スマートフォンを覗き込んでいた僕の耳元に先輩の声。
続けて先輩の顔がにゅっと僕の首元を掠めながら現れた。
先輩の髪に首筋を撫でられて僕の身体が思わず身震いする。
心臓の鼓動も当社比5割増しだ。
「どこを見たらいいの?これ」
「あ、えと……ですね」
先輩の細い指がスマートフォンを奪い取ろうとする。
その過程で僕の手と先輩の手が触れた。
なんて冷たい肌なのだろうか。
僕の体温が吸い取られるような錯覚すら覚えるほどだ。
それで先輩の身体が温かくなるなら、それはそれで構わないけれども。
「ここがスタート地点?」
「ですね」
「結構遠くまで来たんだね」
先輩は僕から受け取ったスマートフォンをまじまじと眺めている。
電子機器が珍しいのだろうか。
事実、先輩がそういうものを使っているのを見た記憶は一切ない。
「はい、返すよ」
また先輩の指が触れた。
さっきは感じる余裕の無かった感触を味わう。
柔らかい。
自分の指とは根本的な構造が違うとすら感じるほどに。
「さっきからどうしたの?」
「へっ?」
自分でもどこから出したか分からない声が出た。
「心ここにあらずって感じがするよ。もしかして疲れた?」
「えと、その……」
疲れていないわけではないけれど、心ここにあらずな理由は全く別なものなので。
というか思いっきり先輩に察知されてしまっていた事が恥ずかしい。
僕はどもりながら思わずたじろいでしまう。
「少し休もっか」
「……はい」
僕と先輩は道の外れに転がっていた大きなコンクリート片に腰を下ろした。
元がなんだったのかは分からないが、風化による削れで腰掛けに丁度良いのは確かだ。
「……んぐ」
ペットボトルの水は既に半分より底に近い位置まで減っている。
「いよっと」
先輩が握っていた薬の銀色台紙を放り投げる。
中身が無くなったのか、はたまた薬を飲む気が失せたのか。
どちらにせよ先輩が薬を飲むことはもうないのだろう。
「もう平気?」
「はい、大丈夫です」
元から平気だったのだが、なんて余計な事は言わずに僕は答える。
僕の返答を聞いて先輩は立ち上がり自転車の方へ向かった。
帰ろう、の一言は出てこない。
僕らは同じ方向へまた進み始めた。
何度目か分からない休憩。
山が近くなってきたせいか傾斜や凹凸が大きい道が多くなってきた。
先輩が人ひとりの重さを持っていたらきっとここまでこれなかっただろう。
人ひとりの重ささえ持ってないから心配なのだけれど。
「……ふー」
「大丈夫ですか?先輩」
僕は思わず先輩に聞いてしまった。
聞くつもりは無かったのだが、完全に脊髄反射的に言葉は出てしまって。
要は無意識的に聞いてしまうほど気になっていたのだろう。
「へ?何が?」
「いえ、気のせいならいいんです」
やっぱり濁された。
いや、自覚が無いのかもしれない。
そっちの方がよっぽど危険な気がする。
「そこで止められると凄い気になっちゃうなぁ」
「……すいません」
「謝られても困っちゃうけど」
先輩が困ったように微笑んだ。
深く息を吐くことが増えてますが大丈夫ですか、と言わなかった自分を褒めたい。
先輩が喉を鳴らす音を聞かなくなってから結構経っている。
何も無いわけがない。
聞いて先輩の身体がよくなるなら何度でも聞くが。
「ほらまた」
「……あ」
「凄く難しい顔、してる」
先輩の人差し指が僕の額をこつんと突いた。
僕の目の前に先輩の顔がある。
白くて儚くて、なんだかすごく存在が希薄に感じてしまう。
「……ごめんね、厄介な事頼んじゃって」
今度は聞こえないフリ出来ない状態で謝られた。
どう答えるのが正解なのだろうか。
大丈夫です、気にしないでください。
謝るぐらいなら最初から、言わないでください。
ここまで来たんですから、最後まで付き合いますよ。
色々と言葉は浮かんではきたけれど、そのどれも音になる前に喉元で潰れていった。
どの言葉も先輩を引き留めることは出来なさそうだから。
無駄な言葉を発すれば、先輩が更に遠くなってしまいそうだから。
「ここがこの世の果て、かなぁ」
先輩がごろりと草むらの上で横になった。
気楽にごろんといった風ではなく、横になるのも億劫と言った感じで。
「まだ行けますよ」
僕は思わず声を上げた。
先輩が遠くなってしまいそうだなんてかっこつけている場合ではない。
「うん、分かってる」
先輩は起き上がることなくゆっくりと目を閉じながら答える。
嫌な汗が僕の頬を伝った。
よく見たら先輩の額にも大粒の汗が浮かんでいる。
全く気付かなかった。
いや、先輩なら大丈夫だなんて勝手に考えて気付こうとしていなかっただけか。
「私の方がね、結構限界みたい」
先輩に言わせてしまったことを後悔した。
やっぱり余計な事は言わない方がいい。
「何故こんな事をしようと思ったんですか」
そんな僕の意志とは裏腹に言葉が口から飛び出してきた。
ここまでやらせておいて何も教えてくれないのか、という怒りというか悲しみというか。
そんな僕の中でぐるぐる回っていた感情が音になって飛び出したのかもしれない。
「んー、なんでだろう?突然だったんだよね、思いついたの」
先輩は務めて平静に答えを返してくる。
それが僕の中にある言い知れない感情をさらに煽った、気がした。
「両親は優しいし、お医者さんも全力で頑張ってた」
言葉を続ける先輩。
それは僕に語りかけているようでもあり、独り言を上の空で呟いているようでもあった。
「不満は自分の身体の事だけ。だからこんな事したのかな……ごほっ、ふっ……く」
「先輩っ!」
そこまで言って先輩が大きく咳き込んだ。
横たわった先輩の身体が大きく跳ねるほどの咳。
僕はすぐに先輩の傍へ駆け寄った。
「死にたいわけじゃなくて……生きるのが辛くなった、だけ」
先輩が僕の肩を掴む。
あまりに弱弱しい手の平。
付いていた血が僕の肩にじんわりと滲む。
「キミにしか頼めないと思ったんだ。ごめんね」
先輩が言いたいことを言い終えたと言った感じで沈黙する。
僕は全身で先輩の身体を支えた。
重い。僕は本当にこの人をここまで運んできたのだろうか。
「……ふー……ふー」
先輩はまだ生きている。
まだ生きている、と言う次元の状態ではあるが。
どうするのが正しいのだろうか。
僕は考えようと思ってやめた。
正確に言えば考えるまでも無かった。
「ん……っと」
僕は先輩を背中に背負って走り出す。
最初からここまで来なければよかったじゃないか。
このまま先輩が死ねばお前のせいだぞ。
なんて湧きあがってくる思考に今は蓋をして。
「すいません、先輩」
「……」
もう聞いているかは分からないが、僕は先輩に謝罪を口にした。
ここまで連れ出した謝罪もある。
生きるのが辛い先輩をまた辛い世界へ引き戻してしまう事への謝罪も含めた。
きっと先輩も僕と同じだったのだろう。
止めて欲しいけど、自分では言い出せなくて。
涙を流しながら僕は走った。
走って、走って、走って、走って。
気付けば僕は突っ伏していた。
全身が痛い。
立ち上がろうとして驚く。
体に全く力が入らなかった。
ここまで疲労していたのか、僕の身体は。
瞼が重くなる。
先輩は無事だろうか。
このまま僕も死んでしまえばいい。
そんな事を考えていたような気がする。
「……ん」
気が付いたら僕は天井を見上げていた。
見たことのある天上だ。
僕は体を起こそうとしてふと気付く。
身体が動かない。
拘束されたりしてるわけではないので、いわゆる意思に反してと言うやつだ。
それでも何とか動こうとして僕はガタンと身を揺らす。
そんな僕の動きに近くの看護師さんが気付いた。
「先生、患者さんが目を覚ましました!」
辺りが慌ただしさを増していく。
僕はそんな喧騒から逃れるように目を閉じた。
後で聞いた話なのだが僕はどうやら3日程眠っていたそうだ。
そんなに眠った自覚はないし、そんな経験なかったので実感は全くなかったが。
「おはよう、寝坊助さん」
「おはようございます」
動けるようになってすぐ、僕は先輩に会いに行った。
僕が気を失った直後に僕らは巡回していたパトカーに保護されたらしい。
あと数分遅れていたら危うい状態だったらしく、僕の頑張りは無駄ではなかったとの事。
そもそもの原因が僕であった事について、大人達はあまり大きく責めなかった。
「この世の、果てに……連れていって、欲しいって」
たくさんの管に繋がれた先輩の声は、囁くようにか細くて。
言ったのに、と呟くように言った最後の言葉は計器の音で消えてしまうほどに小さかった。
「……すいません」
その声に釣られて僕の声も小さくなる。
「……恨む。よ」
先輩は天井を見ながら話している。
僕は先輩をじっと見つめながら言葉を返す。
「……構いません」
先輩の顔がゆっくりとこちらを向いた。
悪戯っぽく微笑んでいる。
それは僕が想定していた表情とあまりにも違っていて、僕はぽかんとした顔で先輩を見つめた。
先輩の左手の小指が弱弱しく伸ばされた。
何事か分からない僕。
しばし見つめ合う僕達。
『ゆ、び、き、り』
先輩の口の動きからなんとかそう読み取れた。
僕はそっと左手を差出すと、先輩の小指を自らの小指で絡め取った。
『ま、た、ね』
先輩が最後に言った言葉は、きっとその三文字だ。
ここで言う最後というのは今際の言葉ではなく、単に先輩が眠りに付いたと言うだけの事。
僕はひんやりとした先輩の感触を残した小指をぎゅっと握ると病室を後にした。