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第十一話

誠は階段の縁に片足をかけたまま、しばらく動けなかった。

地下へ落ちていく暗がりは、まるでの影ではないと主張するように、その口を開いているように。

長い年月のあいだ湿気を吸い込み続けたコンクリートが吐き出す、

冷たく、重く、どこか鉄錆の匂いを含んだような空気が、

階段の奥からゆっくりと這い上がってくる。


肌に触れた瞬間、

その湿気は薄い膜のようにまとわりつき、

まるで“戻る場所を奪う”ために指先へ絡みついてくるようだった。


青年は誠の横をすり抜け、

迷いの欠片もない足取りで階段を降りていく。

靴底が古いコンクリートを踏むたび、

乾ききらない鈍い音が、

誠の胸の奥にまで響いた。


誠は喉がひりつくのを感じた。

呼吸が浅くなる。

心臓が、鼓動というより“警告”のように脈打っている。


恐怖か。

それとも――期待か。


自分でも判別できない感情が、

胸の内側でざらついた音を立てていた。


「……覚悟、か」


呟いた声は、

自分のものとは思えないほど乾いていた。


誠は一段、階段を降りた。

その瞬間、背後の世界がゆっくりと遠ざかっていく。

風化していくように、

音も光も、昨日までの自分も。


暗闇へ足を踏み入れるたびに、

誠は理解した。

ここから先は、

もう“戻れない場所”だと。

ーーー


誠は青年の後を追い、

古い雑居ビルの階段をゆっくりと降りていった。


一歩づつくだるうちに、

空気が変わった。


湿り気を帯びた地下の匂いに、

どこか懐かしいような、

胸の奥をざわつかせる“煙草の残り香”が混じっている。


(……この匂い、どこかで……)


足音が吸い込まれるように小さくなる。

階段の下からは、

低く唸るような蛍光灯のノイズが微かに聞こえた。


最後の段を降りると、

そこには長い廊下があった。


壁は古いコンクリートで、

ところどころに剥がれた塗装が残っている。

湿気が光を鈍く反射し、

まるで時間そのものがここだけ止まっているようだった。


誠は喉を鳴らした。

呼吸が浅くなる。


(……戻れない場所に来たのかもしれない)


廊下の奥に、

一つだけ灯りがあった。


アンバー色の白熱電球。

天井から細いコード一本で吊られ、

ゆらゆらと揺れている。


その下に――

彼がいた。


背を向けて、

古い木の椅子に腰掛けている。


肩越しに見える黒い外套。

その周囲に、

紫煙がゆっくりと漂っていた。


煙は白熱電球の光を受けて、

淡い金色に染まりながら揺れる。


まるで、

“記憶の底”から立ち上る靄のようだった。


誠は足を止めた。


青年は振り返らない。

ただ、煙草を指先で軽く弾き、

灰を床に落とした。



紫煙。

アンバーの光。

静寂。

そして――語られなかった記憶。


誠の胸がざわついた。


青年は、

背中越しに低く言った。


「……来たか、坊主」


その声は、

まるで“物語の扉”が開く音のように、

誠の心に深く沈んだ。


誠は息を呑んだ。


ここから先は、

もう戻れない。


けれど――

進まなければならない。


誠は一歩、

アンバーの光の中へ踏み出した。





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