【第50話】★閉じられた舞台★(本編)
喉元に冷たい牙が迫った――息が詰まる。
終わりだ、と絶望が喉を塞いだ瞬間。
白い閃光が闇を切り裂いた。
耳を裂く轟音とともに影の網が弾け飛び、焦げた匂いが広間に満ちる。
眩しさに思わず目を細めた俺の視界に、白い霧が流れ込んできた。
霧の中から、軽快な声が弾ける。 「ふふッ、そこまでよ♪ 獲物は渡さない!」
悪戯好きが秘密を暴いたみたいな調子。
けれどその声が響いた瞬間、空気は一変した。
黒猫が尾を打ち、赤い瞳が闇を照らす。
白霧が裾を抱いて流れ、彼女の姿を鮮やかに浮かび上がらせる。
――場の支配者は、確かに彼女へと移っていた。
白い光が闇を呑み込み、影の網を一瞬で焼き払った。
焦げた匂いだけを残し、黒い糸のような残滓は空気に溶けて消えていく。
……シャドウの動きが止まった……?
今のは……デイジアがやったのか?
何が起きてる……?
胸の奥に安堵が差し込む。だがその直後、耳に残った言葉が突き刺さった。
――獲物は渡さない。
……獲物って、なんだ……?
誰のことを言っている? オレのこと……なのか?
胸の奥がざわつき、冷たい汗が背を伝う。息を吸おうとしても、肺が浅く鳴るだけだった。
彼女はいったい、何者なんだ……。
答えの見えない不安が、胸を冷たく撫でていった。
「貴様、どこから入ってきた!? 邪魔をするなら――お前も消してやる!」
カールが叫び、影を揺らめかせる。
「あら~? 結構狼狽えているじゃないの」
デイジアの声は軽やかで、冷ややかに響いた。
「あなたのシャドウって、その程度?」
広間に張り詰めた空気が走り、次の瞬間を待つ沈黙が降りた。
アイリスの身体が前に崩れ落ちた。
反射的に腕を伸ばし、その華奢な身体を抱きとめる。
ずしりとした重み。かすかな温もり。
――生きてる。そう実感した瞬間、胸が強く締め付けられた。
「……ジ、ジェイド様……っ」
掠れた声で名を呼ぶ。
次の瞬間、嗚咽が堰を切ったように溢れ、俺の胸に縋りついて泣き崩れる。
震える指先が、必死に服を掴んで離さない。
俺だって怖い。足は震え、息も荒い。
それでも――この腕だけは離さない。
「……もう、離さないから」
涙の温もりが胸を濡らす。
束の間の安堵を破るように、鋭い怒声が広間を揺らした。
「調子に乗るな、小僧ォ!」
影が再びうねりを上げ、広間に黒い槍が次々と芽吹いていく――。
カールの怒声とともに、闇が無数の槍となって噴き出した。
鋭い穂先が雨のように広間を覆い、俺とアイリスを貫こうと迫る。
抱きしめたまま、動けない。
足は竦み、心臓は痛いほどに脈打って――それでも――腕だけは離さなかった。
その前に、白い影がふわりと広がった。
デイジアだ。裾を靡かせ、赤い指輪をかざす。
瞬間、白い光が弾け、迫る影を片端から焼き払う。
轟音と閃光。槍は砕け、黒い粒子が霧となって散った。
眩しさに目を細めた俺の視界に、赤い光が焼き付いた。
人のものとは思えない輝き。胸が震え、息が詰まる。
「……デイジア……お前は一体……」
気づけば言葉が零れていた。声が震えていた。
デイジアは小さく首を振り、囁くように告げる。
「今は、それ以上、聞かないで」
カールが最後の抵抗のように影を暴走させる。
黒い奔流が広間を覆い――デイジアの一閃で霧散した。
悲鳴を上げる間もなく、カールの身体は吹き飛び、床に叩きつけられる。
残ったのは、焦げた匂いと沈黙だけだった。
床に沈んだカールは、呻き声を漏らしながらも立ち上がれずにいた。
影の残滓は砂のように崩れ、広間には焦げた匂いと沈黙だけが漂っている。
「……はは……どうやら舞台から降りるのは、この俺のようだな……」
かすれた笑みとともに吐かれる言葉は、もう力を失っていた。
そのとき、背後の扉が軋み、規則正しい靴音が近づく。
「遅れてしまって申し訳ないわ。どうやら私の出番はなさそうね」
軽やかな声とともにユミナが現れた。
その背後には、影のようにノウス近衛隊の面々がぞろぞろと並ぶ。
「カール=ベレヒト。あなたを拘束、逮捕します」
ユミナの冷ややかな宣告に、近衛たちは一斉に動いた。
彼女たちの権限は学院ではなく、国家そのものに直結している。
「……連れていきなさい」
「はっ!」
鋭い返答とともに、鎖が光を放ち、カールの身体を縛り上げる。
抵抗する力は残っておらず、そのまま押さえ込まれた。
残されたのは、まだ震えるアイリスと、彼女を抱き寄せる俺。
「……ジェイド様……」掠れた声で名を呼び、アイリスは涙を零す。
その嗚咽が胸を濡らし、服を掴む指先の震えが痛いほど伝わってくる。
ふと顔を上げれば、近衛の視線が俺を射抜いていた。
ただの候補生ではない――そう見られている気がして、心がざわめく。
広間に残った静けさは、重苦しくも確かに終焉を告げていた。
――それでも、胸のざわめきは消えなかった。




