【第49話】★追い詰められる牙★(本編)
広間の光が一気に落ち、闇が視界を覆った。
残ったのは、床下から響く低い機構音だけ。重機の鼓動のように、一定の間隔で鳴り続ける。
ジェイドは影に絡め取られ、胸に抱えた紙袋を落としかけた。
琥珀葉の茶と蜂蜜菓子の香りが、血と鉄の匂いにかき消されていく。
――それは、さっきまで二人で分け合った日常の象徴。
彼は必死に握り直し、腕に力を込めた。
「立てよ、少年。舞台はまだ二幕目だ」
芝居がかった声が闇に響いた。
カール=ベレヒトが指先で黒い糸を弄びながら、照明の残光を背に笑みを浮かべている。
その笑顔は舞台役者の仮面のようで、目だけが深い闇に沈んでいた。
――その頃、外の路地。
ユミナは仲間とともに影の痕跡を追っていた。
赤黒い染みが石畳に滲み、波紋のように揺れている。
「反応が強い……この先だ!」
彼女は息を切らせながら叫び、駆け足で暗い街路を抜けていく。
その先に何が待つか、まだ誰も知らない。
広間の中では、ジェイドの鼓動が機構音と重なり合い、胸の奥で重苦しく鳴り響いていた。
剣を振り抜いた瞬間、確かに影は裂けた。
だが、切れ目はすぐに液体のように塞がり、波紋を残して足元に広がっていく。
その波紋がジェイド自身の影に触れた。
――次の刹那、影が立ち上がった。
「っ……!」
自分の足元から伸び上がった影が、剣を握る形を取っていた。
振り下ろした自分の動きと同じ軌道で、逆方向から喉を狙う。
鋭い刃の冷気が頬をかすめた。
ジェイドは咄嗟に身を捻る。影の剣先が石床を裂き、火花が飛んだ。
「自分自身と踊る気分はどうだい?」
カールが声を弾ませる。黒い糸を指で鳴らし、影を操る手つきは指揮者のようだ。
影は再びジェイドの剣と同じ動きをなぞる。
斬れば斬るほど、己の刃が裏切って逆襲してくる。
胸の鼓動と、鎖の機構音がぴたりと重なった。
影の動きはリズムに合わせ、規則的に襲いかかってくる。
(同じ拍子……!)
ジェイドは息を飲む。剣を振るうタイミングを半拍だけずらした。
――その瞬間、影の攻撃が空を切り、鎖のしなりもわずかに遅れた。
「影と鎖が同じリズムで襲う……なら、遅れて動けば軌道は食い違う!」
ジェイドは足を滑らせるように踏み換え、半歩外に出る。
影と鎖の二重攻撃が、わずかにずれた。
そこに剣をねじ込み、絡みつく影を断ち切る。
しかし裂けた闇はすぐに再生し、再び拍子を合わせて迫ってくる。
カールは笑みを深めた。
「いいねぇ……舞台が少しずつ形になってきたじゃないか」
床下から響いていた機構音が、突如として高鳴った。
石畳が裂け、歯車と肉を合わせたような異形の頭部が現れる。
鉄で組まれた顎が、ゆっくりと開いた。
――シャドウギアハウンド。通称“シャドウ”。
四肢の関節は逆に折れ曲がり、骨のような金属が肉片じみた軋みを立てる。
尾の代わりに伸びた鎖が、床を這い、壁を打ち、広間全体を揺らした。
(……影と機械を掛け合わせた猟犬……。オーク帝国が造り出した兵器……これが“シャドウ”か)
鎖が鳴るたび、ジェイドの心臓の鼓動とぴたりと重なった。
まるで胸の奥の鼓動を外に奪われ、鎖と同期させられたようだった。
「――ッ!」
シャドウの尾がしなる。鎖がジェイドの腕に絡み、獣の咆哮と同時に壁へと叩きつけた。
肺から空気が一気に抜け、視界が白黒に潰れる。
鉄と血の味が喉に広がり、世界が遠ざかっていく。
揺れる瞼の向こうに、縛られたアイリスの姿。
唇は声を失って震えるだけ。
――だが心の奥では、叫んでいた。
「こんな怪物……ジェイド様がひとりで相手するなんて……」
「私が……何かできれば……」
彼女の視点から見た広間は、鎖の網に閉ざされ、ジェイドがその中心で押し潰されているようにしか見えなかった。
目を逸らせば楽になれる、それでも逸らせない。
鉄の顎が再び開き、ジェイドへと迫る。
空気が震え、広間そのものが咆哮する。
ジェイドは必死に剣を振るい、迫る影を裂いた。
だが切れ目はすぐに繋がり、黒い繊維が再び形を作る。
その隙を狙い、シャドウの鎖が横から襲いかかる。
「ぐっ……!」
鎖に弾かれ、体勢が崩れる。
次の瞬間、影の刃が背後から振り下ろされた。
ジェイドは咄嗟に剣で受け止めるが、衝撃で膝が震えた。
カールは黒糸を弄び、観客に語る役者のように声を響かせた。
「キミは誓ったんじゃないか? もう二度とその涙は流させないと。
残念ながら、キミの大切な“フィアンセ”は今にも泣き崩れそうじゃないか」
「黙れ!」
その一言が、石柱に縛られたアイリスの胸を突き刺した。
アイリスは必死に声を振り絞る。
「逃げて……!」
震え声は影に呑まれそうにか細い。
それでもジェイドの耳には鋭く届く。
「ジェイド様、こっちを見て!」
次の瞬間には声が途切れ、唇が震えるだけになる。
けれど、その瞳は必死に訴えていた。
(負けないで……あなたはここにいる……)
彼女の心の声が、鎖の轟音の隙間を縫って届いた。
だがその刹那、足元から伸び上がった“自分の影”が踵を掴んだ。
骨の髄にまで冷たさが染み込み、脚の感覚が鈍る。
影とシャドウ、二重の敵が同時に襲いかかる。
ジェイドの呼吸は荒れ、握る剣の感覚さえ遠のいていった。
影が蠢き、黒い手がジェイドの胸に抱えた紙袋へと伸びた。
琥珀葉の茶と蜂蜜菓子――ささやかな日常の証が、血の臭いに押し潰されていく。
「やめろ……!」
ジェイドは必死に腕を回し、紙袋を抱え直した。
鎖が肩を裂き、血が滴る。それでも離さない。
「まだ……折れない!」
その姿を見て、アイリスの胸が張り裂けそうになった。
(どうしよう……このままじゃジェイド様が……!
どうして私は、こんなにも無力なの……! お願い……!)
縛る封印の鎖が軋み、微かな光が彼女の胸から零れる。
広間を覆う影とシャドウの動きが、一瞬だけ止まった。
ジェイドはその隙に、腕に残る力を振り絞る。
――抱えているのはただの紙袋じゃない。
本当に守りたいものは、目の前の少女そのものだ。
剣を強引に構え直し、迫る黒を断ち切ろうと踏み込む。
だが光はすぐに途切れた。
影は再生し、シャドウの鎖が再び迫る。
カールは糸を操り、低く呟いた。
「幕引きは俺が決める」
影とシャドウの二重攻撃が同時に迫り、黒い刃と鉄の顎がジェイドの喉を狙った。
影の網が四方から伸び、ジェイドの体を絡め取った。
同時にシャドウの顎が開き、鉄の牙が喉元へと迫る。
世界が白と黒に潰れ、音が消える。
残るのは胸の奥で鳴る太鼓のような鼓動だけ。
呼吸音が異様に大きく響く。
影の腐臭が充満する広間で――ほんの一瞬だけ、別の甘い香りが空気を上書きした。
それは、静寂を破る予兆のように漂う。
石柱に縛られたアイリスは声を失い、涙だけを流した。
それでも瞳は必死に叫んでいる。
(お願い……まだ終わらないで……!)
ジェイドの首に影の輪が食い込み、呼吸が途絶える。
シャドウの顎が開き、鉄の歯列が喉を食い破らんと迫った。
「さて、終わりにしようか」
カールの低い声が広間に落ちる。
その瞬間――白い閃光が闇を裂いた。
影の織目が一斉にほどけ、シャドウのレンズに亀裂が走る。
広間を満たしていた機構音が断ち切られ、拍動のリズムが途絶える。
無音の余白。
白に塗りつぶされた世界に、ただ一つ――
足音ともつかぬ響き、存在の圧だけが忍び寄るように残っていた。




