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メリトクラシア  作者: Lancer
第6章:紅茶と影の牢獄
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【第48話】★突入、影の檻★(本編)




錆びた鉄扉が、心臓の鼓動と同じ間隔で軋んでいた。

 赤黒い光が霧を断続的に染め上げ、視界を不規則に切り裂く。

 その残光の中で、琥珀葉の茶と蜂蜜菓子の甘い香りが 意識を激しく揺さぶった。

 つい先ほどまで、あの小さな街角でアイリスと並んで味わった日常――。その記憶が、皮肉のようにここに引き寄せられる。


 紙袋を強く抱き直す。皺の感触が掌に食い込み、彼女の存在を証明する最後の拠り所になる。


(ここにアイリスがいるんだな……)

 胸の鼓動がいつにも増して早い。

 ここに、あの子がいる。

 いつも自分のために、慣れない勉強と、使用人としての嗜みを懸命に覚えつつある彼女が――。


「無事でいてくれ……!」


 そう祈るように、ジェイドは重い鉄の扉を押し開けた。

 軋む音が周囲の空気を裂き、闇の向こう側へと身体を呑み込む。


 その瞬間、世界は変わる。

 音が途端に遠ざかり、足音すら自分のものか疑わしい。

 空気は重く密度を増し、喉の奥に冷えた水を流し込まれたような圧迫感が走る。


 背後の光はたちまち失われ、扉の縁さえも闇に溶けた。

 戻る道はもう、存在しない。



通路は狭く、足を踏み出すたびに赤黒い光が点滅し、壁の表面が膨らんだり縮んだりして見えた。

 黒い染みが鼓動のように震え、視線を外すとたちまち平らに戻る。まるで意志を持つ生物が、こちらをからかっているかのようだ。


 ――空間そのものが敵だ。


 ジェイドは背筋を強張らせながら、慎重に歩を進めた。

 喉の奥で空気が詰まり、吐息が自分のものでないように錯覚する。


 冷たい金属のきしみが奥から絶え間なく響いていた。

 不規則なリズムが耳を叩き、心臓の鼓動と重なり合う。

 そのたびに視界の端が暗く反転し、足元の影が長く伸びて絡みつこうとする。


 ふと天井を仰ぐ。

 そこには鉄仮面がいくつも吊るされ、揺れていた。

 歯の欠けた口は嘲笑を形作り、瞳孔の空洞がこちらを覗き込む。

 揺れるたびに光が反射し、空間全体が不気味に脈動する。


 剣を握る手が汗で滑りそうになる。

 ジェイドは柄を強く握り直し、自らの存在を確かめるように指先へ力を込めた。


 この先に――アイリスがいる。

 そう心に言い聞かせなければ、一歩を進めることすらできなかった。



広間の中央に、それはあった。

 石柱に縛られた影――いや、少女の姿。


 銀白の髪は乱れて肩にかかり、艶を失って絡まり合っている。

 唇は青ざめ、閉じた瞼は震えることさえなく、まるで蝋細工のように冷たい。

 けれど、その身体から漂う甘い残り香が、ジェイドの胸を締め付けた。

 琥珀葉の茶、蜂蜜菓子。つい数刻前まで隣にあった穏やかな時間の名残が、こんな異形の空間にまで連れてきてしまう。


「……アイリス!」


 声が広間に響いた瞬間、彼女の名が呪文のように重さを持ち、ジェイドの足を前へと押した。

 駆け寄ろうと踏み出した、その刹那――。


 床の影が脈動した。

 黒い液体のように盛り上がり、腕の形を取りながら伸び上がる。

 冷たい手がジェイドの手首を掴んだ。


 その感触は、氷よりもなお深い冷気だった。

 骨の中にまで侵入するかのように冷たさが走り、脳裏の色彩を奪っていく。

 視界が一瞬、白と黒の二値だけに変わり、世界が塗り替えられた。


 足が止まり、呼吸が凍る。

 握り締めていた紙袋がわずかに落ちかけ、彼は慌てて抱え直した。

 その行為ひとつさえ、彼女を守るための意志の表れだった。


「離せ……っ!」


 ジェイドは力を振り絞り、影の腕を振り払おうとする。

 だが影は吸盤のように貼り付き、脈動を強めるばかりだった。



「おやおや、ようやくこの物語の主人公さんのお出ましかな?」


 芝居がかった声が広間に響いた。

 影の柱の向こうから現れたのは、カール=ベレヒト。

 彼は歩み寄ることなく、影が糸のように形を編み出し、自らの姿を舞台の幕のように押し出させていた。


 指先には黒い糸。

 それを弄びながら、空中に模様を描き、蜘蛛の巣のように赤黒い照明の中に広げていく。

 口元には笑みが浮かんでいるが、その瞳は照明を反射して濁り、深淵のような暗さを湛えていた。


「……っ、ジェイド様……」

 縛られた石柱の陰から、かすかな呻きが漏れた。

 アイリスの唇がわずかに震え、視線は必死にこちらを探していた。


「――アイツが、目障りなのは、お前の方だろ」

「お前には……アイツが人に見えないのかよ!」


 ジェイドの叫びに、カールは小さく笑った。


「関係ねぇよ。通りすがりの“試験帰り”だ」


 その言葉に、カールはにやりと首を傾げる。


「キミさ、確か前にこんな臭いセリフ言ってたよね?」

「通りすがりの試験帰りくん、だっけ? ハハハ」


「……逃げて……ジェイド様……!」

 アイリスの震える声が広間に溶けた。

 その一言が、ジェイドの胸を焼く。


 影の糸がぴんと張られ、空間全体にじわじわと侵食を広げていく。

 天井に吊られた鉄仮面が影に揺らされ、不気味に笑った。


「目障りなのはキミだよ、ジェイド。オレにとって、ただの商売道具に過ぎないんだ」


 その声は、舞台の観客が芝居を楽しむような調子だった。

 だが同時に、縛られたアイリスの心を冷たく抉る刃となって突き刺さる。



「――てめぇ、ふざけてんのかよ!」


 ジェイドは叫びとともに踏み込んだ。

 剣閃が空気を裂き、まっすぐカールへと伸びる。


「いやだなぁ」

 影の中で、カールが肩をすくめて笑った。

「俺の名を知らないとは無礼だな。身の程を弁えろよ、平民が」


 影が真横から鞭のように振り下ろされる。

 金属が裂けるような音とともに衝撃が走り、ジェイドの体勢は崩れた。

 剣筋は逸れ、刃先はカールへ届かない。


「――っ、ジェイド様……!」

 石柱に縛られたアイリスが、震える声で名を呼んだ。

 その一言が胸を突き、視界の揺らぎを押し戻す。


 だが隙を逃さず、影の腕が喉元を撫でる。

 冷たい感触に息が詰まり、思わず身を沈めた。

 剣で切り返すと確かに裂けるが、次の瞬間には液体のように繋がっていた。


「ほら、予想通りにはいかないだろう?」


 カールの声が、頭蓋の奥に直接響いてきた。

 ぞわりと背骨が震える。


 壁の影が膨らみ、手の形を取って伸びる。

 足首を掴まれた瞬間、視界が反転した。

 天井が床に、床が天井に――。

 重力が逆さに流れ、身体が引きずられるように宙を舞う。


「……逃げて……」

 耳鳴りの中、アイリスのか細い声が届いた。

 その声が、影の冷たさに抗う力をわずかに戻す。


 剣を振るえば影は裂ける。だが裂けた端から新たな影が迫る。

 液体のように再生し、壁から次々と手が伸びてくる。

 尽きることのない悪意の連鎖のように。


「どうした? もっと“舞台映え”する立ち回りを見せてみろよ」


 カールの声に、視界の揺らぎがさらに強まった。

 影に絡まれながらも、ジェイドは必死に剣を振り抜く。

 だが切った瞬間に再生する影の群れに、焦燥が募るばかりだった。





床に叩きつけられ、肺の空気が一気に吐き出された。

 視界が揺らぎ、握る剣の感覚さえ遠のいていく。

 痺れた手から柄が滑り落ちそうになり、ジェイドは必死に指を食い込ませた。


 カールは悠然と立ち止まり、影の糸を編み広げる。

 蜘蛛の巣のような黒い網が空間を覆い、四方からじりじりと迫ってきた。


「ここからが本当の遊びだ、少年」


 糸が一斉に震え、刃のように四肢を狙う。

 ジェイドは剣を振り回し、迫る糸を次々と切り払った。

 だが、切れた途端に別の糸が現れ、尽きることなく押し寄せる。


 首元に冷たい感触が走る。

 影が首輪のように締まり、喉を圧迫した。

 息が詰まり、世界が暗く沈んでいく。


「ジェイド様っ!」

 アイリスの叫びが響く。縛られた体勢のまま、必死に声を絞り出していた。

 その声は、暗闇にわずかな光を差すように届いた。


 ジェイドは歯を食いしばり、胸に抱えた紙袋を強く引き寄せる。

 琥珀葉と蜂蜜菓子――日常の象徴が、戦う意志をつなぎ止めた。


(……まだ、折れない)


 剣を握り直し、首を締めつける影を必死に斬り払う。

 だが切った途端に別の糸が走り、網は狭まっていく。


 広間の奥で、重機のような機構音が鳴り始めた。

 床下が脈動し、空気がさらに重さを増す。


 影の糸が収縮し、ジェイドを捕らえようと狭まった。

 その瞬間、視線が石柱のアイリスと交わる。

 彼女は声を失っていたが、瞳が「負けないで」と訴えていた。


 ジェイドは必死に息を吸い込む。


「俺は……ここで終わらない!」


 カールが口元を歪めた。

「ふふ……幕が下りるのは、まだ先だよ」


 直後、広間の光が一気に落ちた。

 闇の中で、機構音だけが低く響き続ける。


――つづく




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