【第48話】★突入、影の檻★(本編)
錆びた鉄扉が、心臓の鼓動と同じ間隔で軋んでいた。
赤黒い光が霧を断続的に染め上げ、視界を不規則に切り裂く。
その残光の中で、琥珀葉の茶と蜂蜜菓子の甘い香りが 意識を激しく揺さぶった。
つい先ほどまで、あの小さな街角でアイリスと並んで味わった日常――。その記憶が、皮肉のようにここに引き寄せられる。
紙袋を強く抱き直す。皺の感触が掌に食い込み、彼女の存在を証明する最後の拠り所になる。
(ここにアイリスがいるんだな……)
胸の鼓動がいつにも増して早い。
ここに、あの子がいる。
いつも自分のために、慣れない勉強と、使用人としての嗜みを懸命に覚えつつある彼女が――。
「無事でいてくれ……!」
そう祈るように、ジェイドは重い鉄の扉を押し開けた。
軋む音が周囲の空気を裂き、闇の向こう側へと身体を呑み込む。
その瞬間、世界は変わる。
音が途端に遠ざかり、足音すら自分のものか疑わしい。
空気は重く密度を増し、喉の奥に冷えた水を流し込まれたような圧迫感が走る。
背後の光はたちまち失われ、扉の縁さえも闇に溶けた。
戻る道はもう、存在しない。
通路は狭く、足を踏み出すたびに赤黒い光が点滅し、壁の表面が膨らんだり縮んだりして見えた。
黒い染みが鼓動のように震え、視線を外すとたちまち平らに戻る。まるで意志を持つ生物が、こちらをからかっているかのようだ。
――空間そのものが敵だ。
ジェイドは背筋を強張らせながら、慎重に歩を進めた。
喉の奥で空気が詰まり、吐息が自分のものでないように錯覚する。
冷たい金属のきしみが奥から絶え間なく響いていた。
不規則なリズムが耳を叩き、心臓の鼓動と重なり合う。
そのたびに視界の端が暗く反転し、足元の影が長く伸びて絡みつこうとする。
ふと天井を仰ぐ。
そこには鉄仮面がいくつも吊るされ、揺れていた。
歯の欠けた口は嘲笑を形作り、瞳孔の空洞がこちらを覗き込む。
揺れるたびに光が反射し、空間全体が不気味に脈動する。
剣を握る手が汗で滑りそうになる。
ジェイドは柄を強く握り直し、自らの存在を確かめるように指先へ力を込めた。
この先に――アイリスがいる。
そう心に言い聞かせなければ、一歩を進めることすらできなかった。
広間の中央に、それはあった。
石柱に縛られた影――いや、少女の姿。
銀白の髪は乱れて肩にかかり、艶を失って絡まり合っている。
唇は青ざめ、閉じた瞼は震えることさえなく、まるで蝋細工のように冷たい。
けれど、その身体から漂う甘い残り香が、ジェイドの胸を締め付けた。
琥珀葉の茶、蜂蜜菓子。つい数刻前まで隣にあった穏やかな時間の名残が、こんな異形の空間にまで連れてきてしまう。
「……アイリス!」
声が広間に響いた瞬間、彼女の名が呪文のように重さを持ち、ジェイドの足を前へと押した。
駆け寄ろうと踏み出した、その刹那――。
床の影が脈動した。
黒い液体のように盛り上がり、腕の形を取りながら伸び上がる。
冷たい手がジェイドの手首を掴んだ。
その感触は、氷よりもなお深い冷気だった。
骨の中にまで侵入するかのように冷たさが走り、脳裏の色彩を奪っていく。
視界が一瞬、白と黒の二値だけに変わり、世界が塗り替えられた。
足が止まり、呼吸が凍る。
握り締めていた紙袋がわずかに落ちかけ、彼は慌てて抱え直した。
その行為ひとつさえ、彼女を守るための意志の表れだった。
「離せ……っ!」
ジェイドは力を振り絞り、影の腕を振り払おうとする。
だが影は吸盤のように貼り付き、脈動を強めるばかりだった。
「おやおや、ようやくこの物語の主人公さんのお出ましかな?」
芝居がかった声が広間に響いた。
影の柱の向こうから現れたのは、カール=ベレヒト。
彼は歩み寄ることなく、影が糸のように形を編み出し、自らの姿を舞台の幕のように押し出させていた。
指先には黒い糸。
それを弄びながら、空中に模様を描き、蜘蛛の巣のように赤黒い照明の中に広げていく。
口元には笑みが浮かんでいるが、その瞳は照明を反射して濁り、深淵のような暗さを湛えていた。
「……っ、ジェイド様……」
縛られた石柱の陰から、かすかな呻きが漏れた。
アイリスの唇がわずかに震え、視線は必死にこちらを探していた。
「――アイツが、目障りなのは、お前の方だろ」
「お前には……アイツが人に見えないのかよ!」
ジェイドの叫びに、カールは小さく笑った。
「関係ねぇよ。通りすがりの“試験帰り”だ」
その言葉に、カールはにやりと首を傾げる。
「キミさ、確か前にこんな臭いセリフ言ってたよね?」
「通りすがりの試験帰りくん、だっけ? ハハハ」
「……逃げて……ジェイド様……!」
アイリスの震える声が広間に溶けた。
その一言が、ジェイドの胸を焼く。
影の糸がぴんと張られ、空間全体にじわじわと侵食を広げていく。
天井に吊られた鉄仮面が影に揺らされ、不気味に笑った。
「目障りなのはキミだよ、ジェイド。オレにとって、ただの商売道具に過ぎないんだ」
その声は、舞台の観客が芝居を楽しむような調子だった。
だが同時に、縛られたアイリスの心を冷たく抉る刃となって突き刺さる。
「――てめぇ、ふざけてんのかよ!」
ジェイドは叫びとともに踏み込んだ。
剣閃が空気を裂き、まっすぐカールへと伸びる。
「いやだなぁ」
影の中で、カールが肩をすくめて笑った。
「俺の名を知らないとは無礼だな。身の程を弁えろよ、平民が」
影が真横から鞭のように振り下ろされる。
金属が裂けるような音とともに衝撃が走り、ジェイドの体勢は崩れた。
剣筋は逸れ、刃先はカールへ届かない。
「――っ、ジェイド様……!」
石柱に縛られたアイリスが、震える声で名を呼んだ。
その一言が胸を突き、視界の揺らぎを押し戻す。
だが隙を逃さず、影の腕が喉元を撫でる。
冷たい感触に息が詰まり、思わず身を沈めた。
剣で切り返すと確かに裂けるが、次の瞬間には液体のように繋がっていた。
「ほら、予想通りにはいかないだろう?」
カールの声が、頭蓋の奥に直接響いてきた。
ぞわりと背骨が震える。
壁の影が膨らみ、手の形を取って伸びる。
足首を掴まれた瞬間、視界が反転した。
天井が床に、床が天井に――。
重力が逆さに流れ、身体が引きずられるように宙を舞う。
「……逃げて……」
耳鳴りの中、アイリスのか細い声が届いた。
その声が、影の冷たさに抗う力をわずかに戻す。
剣を振るえば影は裂ける。だが裂けた端から新たな影が迫る。
液体のように再生し、壁から次々と手が伸びてくる。
尽きることのない悪意の連鎖のように。
「どうした? もっと“舞台映え”する立ち回りを見せてみろよ」
カールの声に、視界の揺らぎがさらに強まった。
影に絡まれながらも、ジェイドは必死に剣を振り抜く。
だが切った瞬間に再生する影の群れに、焦燥が募るばかりだった。
床に叩きつけられ、肺の空気が一気に吐き出された。
視界が揺らぎ、握る剣の感覚さえ遠のいていく。
痺れた手から柄が滑り落ちそうになり、ジェイドは必死に指を食い込ませた。
カールは悠然と立ち止まり、影の糸を編み広げる。
蜘蛛の巣のような黒い網が空間を覆い、四方からじりじりと迫ってきた。
「ここからが本当の遊びだ、少年」
糸が一斉に震え、刃のように四肢を狙う。
ジェイドは剣を振り回し、迫る糸を次々と切り払った。
だが、切れた途端に別の糸が現れ、尽きることなく押し寄せる。
首元に冷たい感触が走る。
影が首輪のように締まり、喉を圧迫した。
息が詰まり、世界が暗く沈んでいく。
「ジェイド様っ!」
アイリスの叫びが響く。縛られた体勢のまま、必死に声を絞り出していた。
その声は、暗闇にわずかな光を差すように届いた。
ジェイドは歯を食いしばり、胸に抱えた紙袋を強く引き寄せる。
琥珀葉と蜂蜜菓子――日常の象徴が、戦う意志をつなぎ止めた。
(……まだ、折れない)
剣を握り直し、首を締めつける影を必死に斬り払う。
だが切った途端に別の糸が走り、網は狭まっていく。
広間の奥で、重機のような機構音が鳴り始めた。
床下が脈動し、空気がさらに重さを増す。
影の糸が収縮し、ジェイドを捕らえようと狭まった。
その瞬間、視線が石柱のアイリスと交わる。
彼女は声を失っていたが、瞳が「負けないで」と訴えていた。
ジェイドは必死に息を吸い込む。
「俺は……ここで終わらない!」
カールが口元を歪めた。
「ふふ……幕が下りるのは、まだ先だよ」
直後、広間の光が一気に落ちた。
闇の中で、機構音だけが低く響き続ける。
――つづく




