【第45話 後編】★失踪★(本編)
翌朝の外出申請窓口には、早起きの生徒が数人並んでいた。石の床を渡る朝日が斜めの帯をつくり、木枠の硝子に薄い金の筋を走らせる。
アイリスは手帳と身分札を揃え、礼法どおりの角度で差し出した。
「使用人研修の備品購入のため、外出申請をお願いします」
「滞在先と目的、再確認」
「市場通り。茶器布と茶葉、軽菓の購入です」
乾いた判の音が一つ。許可札が返される。
「ありがとうございます」と小さく頭を下げ、窓口を離れた瞬間、胸の奥で灯がひとつ明るくなる。
(今日はきちんと選ぼう。香りのよい茶葉、甘さ控えめの菓子……ジェイド様に、温かい一杯を)
寮の前庭を抜けると、空気はひんやりしていて、吐く息だけが白い。制服の上から外套を重ね、巾着袋の紐を確かめる。
小銭の触れ合う音が、軽やかに鳴った。失礼にならない範囲で、けれど彼が喜ぶものを――その線を探るのは、彼女にとってささやかな楽しみだった。
学院門を出る道は、いつもより明るく見えた。焼きたてのパンの匂いが風に乗り、遠くから呼び込みの声がかすかに届く。
歩幅が自然と速くなるのを、自分でも可笑しく思う。
(茶葉は二種類。軽やかな香りと、少し深い余韻のもの。お菓子は……蜂蜜が強すぎないものにしよう)
石畳の端を踏まないように歩いて、街角を曲がる。店先の屋根布がぱさりと跳ね、露店の棚に色とりどりの品が並び始めていた。
朝日が瓶の硝子に反射し、小さな光を幾つも作る。
その光の粒を辿るように、アイリスは市場通りへ足を踏み入れた。
市場はもう人の波で埋まっていた。屋台の布が翻り、果物の赤や香草の緑が並び、焼きたてのパンの白い湯気が漂ってくる。
アイリスは茶葉屋の前で足を止めた。木箱の中に積まれた葉は形も色も様々。指先で軽くすくうと、店主が笑みを浮かべて蓋を開けてくれる。
「今朝の入荷、“琥珀葉”だよ。香りは柔らかく、後口はすっきりしてる」
ふわりと鼻をかすめた香気に、胸が温かくなった。
(これなら……ジェイド様に、きっと喜んでもらえる)
小袋を二つ選び、隣の菓子屋では蜂蜜を薄く染み込ませた焼き菓子を包んでもらう。紙袋の温もりが掌に伝わり、思わず頬が緩んだ。
――こんなにも普通の少女のように、誰かのために選ぶ時間があるなんて。
だが、足を進めるたびに小さな違和感が重なる。
背後にふと刺さる気配。視線のようなものが離れない。
振り返れば、通りの人々は誰も彼女に関心を払ってはいない。ただ歩き、笑い、品を選んでいる。
(……気のせい。市場は音が多いから)
そう自分に言い聞かせ、歩調を合わせる。
けれど紙袋を握る指先に、じんわりと冷えが残った。
呼び込みの声がひときわ大きく響いたかと思えば、不意に掻き消えた。
雑踏のざわめきが一瞬、底を抜かれたように静かになる。
胸の奥で、嫌なざわつきが広がった。
袋の口を握り直しながら、アイリスはもう一度だけ小さく首を振った。
(大丈夫……。今日こそ、紅茶を淹れるんだから)
市場の喧噪がふと薄れた。
肩をすり抜ける人の流れが、不自然に彼女の前だけを割っていく。
空いた道は、そのまま薄暗い路地の口へと続いていた。
アイリスの足が止まる。
そこに、見覚えのある男が立っていた。
「……カール様」
低い笑いが返る。
「久しぶりだな。逃げ足は早かったが――やっと見つけた」
元主人、カール=ベレヒト。
色の薄い瞳が、相手を測るように冷たく光る。
通りの明るさから一歩離れた彼の足元で、影がじわりと濃さを増していた。
「学院に拾われたところで、お前の立場は変わらん。あのガキに仕える姿など許せん――お前は俺のものだ」
「……わたしは、もう学院に……」
「黙れ」
乾いた音とともに、指先が弾かれる。
影が路面を這い、黒い帯となってアイリスの足首に絡みついた。
冷たい締めつけ。反射的に紙袋を落とし、蜂蜜の香りが路地に散る。
さらに腕へ、腰へ、蛇のように影が巻きついていく。
呼吸が詰まり、膝が崩れる。
紅茶の小袋が裂け、乾いた葉がぱらぱらとこぼれた。
琥珀色の香気が、朝の空気にかすかに漂う。
「やめ……っ」
声は影に飲まれた。
けれど心だけは叫んでいた。
(ジェイド様――!)
その瞬間、胸の奥が熱を帯びた。
――防御魔法、緊急思念伝達。
授業で教わった“最後の護り”が、極限で発動していた。
*
学院の講義棟。
ジェイドは書類をめくっていた手を止め、胸を押さえた。
熱い。まるで誰かに強く呼ばれたように、心臓の奥を掴まれる。
耳の奥で、はっきりと声が響いた。
(ジェイド様――!)
「……アイリス!?」
椅子を蹴る音が教室に響き、次の瞬間には駆け出していた。
影は一気に濃さを増し、アイリスの身体をすっぽりと包み込んだ。
抵抗しようと腕を振っても、冷たい締めつけがさらに強まり、声は喉の奥で潰される。
「大人しくしろ。お前は俺の所有物だ」
カールの吐き捨てるような言葉が、路地に重く沈んだ。
紙袋が転がり、蜂蜜菓子が石畳に散らばる。
もう一つの袋からは茶葉がこぼれ、朝日に照らされて淡い琥珀色の香気が広がった。
――アイリスの小さな幸福が、無惨に地面へ落ちていく。
(ジェイド様……)
最後の願いを心で呼んだとき、影が跳ねるように揺れ、少女の姿を完全に呑み込んだ。
紅茶の香りだけが、路地にやさしく残る。
*
市場の喧噪が戻り、人々の流れは何事もなかったかのように続いていた。
けれど、ひとつの道だけは不自然に空白を残していた。
そこへ駆け込んできた少年がいた。
息を荒げぬまま、ただ直感に従って。
ジェイドは路地に差し込む光の中、白い紙袋を見つけて立ち止まる。
手に取ると、指先に伝わるのは冷たい石の感触と、確かにそこにいた少女の温もり。
袋の隙間から、琥珀葉の欠片が一枚、風に舞った。
「……アイリスが、攫われた」
呟きは誓いに変わる。
胸の奥でまだ熱を帯びる思念の余韻が、確信となって脈打っていた。
ジェイドは紙袋を大切に懐へしまうと、視線を暗い路地へと向けた。
人の影が行き交うたびに、そこには別の濃さが重なっている。
その先に彼女がいる――そう信じるには十分だった。
少年は踵を返し、駆け出した。
紅茶の香りだけが、市場の朝にやさしく漂い続ける。
――第45話「追跡」へ続く
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