【第44話 本編】★静寂の序曲★
学院の中庭に灯るランプは、十九時を過ぎてもなお柔らかい光を撒き散らしていた。
石畳の上で肩を寄せる生徒たちの笑い声は、まるで恋人同士のひそやかな囁きのように耳へ届く。
けれど、その輪の外側にいるアイリスの足取りは静かで、少しも混じらない。
彼女は長い裾をすくい上げ、
丁寧に一礼を返すと、笑顔も会釈も決して深くは踏み込まない。
――距離は一歩半。会話は三往復以内。笑みは歯を見せず、沈黙は十数えるまで。
訓練で叩き込まれた礼法は、まるで呪文のように身体に染みついている。
「使用人」とは、主の隣に立つのではなく、その背後で支える者。
自ら線を越えなければ、誰からも罰せられることはない。
そう信じ込むことで、彼女はここに居場所を得ていた。
ランプの火が風に揺れ、月明かりが芝生に白い縞模様を刻んでいた。
アイリスは胸元に手をあて、指先に残る紅茶の香りを確かめた。礼法の講師に褒められたばかり――「上手に淹れられるようになったわね」と。
その瞬間、心の奥底に灯った願いはただひとつ。
(ジェイド様に、いつか一杯を。温かさを届けたい)
けれど願いは、唇を開く前に自ら摘み取る。願えば距離を縮め、距離が縮まれば礼が崩れる。
礼が崩れれば、ここで生きる意味が失われる。
遠くで鐘が一打、冷たい夜気に溶けた。
笑い声が薄れていく中、アイリスは影の濃い石柱の下を歩き続ける。灯りの輪から外れたその横顔は、
まるで別の世界にいる少女のようだった。
回廊の先、石の壁に取り付けられたランプが等間隔で並び、光と影が交互に床に梯子を描いていた。
その梯子を数えながら歩いていたアイリスは、不意に足を止める。角を曲がった先――そこに、彼が立っていた。
「アイリス」
呼びかけられただけで胸がざわめく。ジェイドの声は夜気に混じって低く響き、まっすぐな瞳がこちらを射抜く。
「さっきまで中庭にいたのか? ……冷えてないか?」
「……いいえ。ありがとうございます」
一歩近づけば、梯子の段が一段減る。だがアイリスは、礼法どおりの角度で足を揃え、視線を少し落とした。心はもう一歩前へ出たがっているのに。
「ジェイド様……大丈夫です、私は使用人ですから」
その言葉は柔らかく敷かれた絨毯のようで、けれどそこから先を拒む境界線でもあった。
短い沈黙が、二人の間に細い氷の膜を張る。
ジェイドは否定も肯定もせず、ただ受け止める。けれど、その眼差しの奥で一瞬だけ、抑えきれない温かさが揺らいだ。
「……わかった。無理はするな。困ったことがあれば、俺に言え」
ありがたくて、苦しい種類の優しさだった。
「はい。お気遣い、痛み入ります」
ランプの火がまた揺れ、廊下に二人分の影が伸びる。重なりそうで、決して重ならない距離。
足音だけが、冷たい回廊に響いていた。
廊下を進むと、外に面した窓が並ぶ一角に差しかかった。
夜気がガラス越しに冷たく伝わり、ランプの光が反射して細い筋を幾重にも描く。
そのとき、耳の奥に――水滴が石に落ちるような、かすかな異音が混じった。
「……今の、音……?」
アイリスが立ち止まった刹那、すでに窓辺にはひとつの影があった。フィーネだ。彼女は背を伸ばし、月を仰ぐように外を見ていたが、声を落として告げる。
「……音、混じってる」
外の芝生に、風とは違う動きをする黒が見えた。
ランプの火に照らされたはずの影が、一枚だけ濃すぎる。草木のざわめきにも従わず、ひと呼吸遅れて揺れる。
アイリスは思わず胸に手を当てる。心臓が、冷たく指先を叩いた。
ジェイドは窓際へ歩み寄り、目を細める。
視線の先――ほんの一瞬、闇に赤が閃いた。
刹那の残光。それは前夜、彼らを震え上がらせた“赤瞳残響”と同じ色だった。
「……赤、か……?」
記憶の奥に焼きついた視線が、再び甦る。
見間違いと言うには、胸の奥の筋肉が硬くなる。
もし本当に“あの瞳”が近くにあるのなら――狙われているのは誰なのか。
アイリスは喉が乾き、呼吸が詰まる。影の奥に誰かがいる――そう思わせるには十分だった。
風が途切れ、廊下を満たす音は三人の息遣いだけになった。
その静寂を、遠くから近づく鐘の前触れが震わせる。
――もうすぐ、交流時間の終わりを告げる音が響く。
廊下を渡る風が止まり、代わりに重い鐘の音が響いた。
一打、二打、三打――やがて二十二時を告げる音が、壁を震わせながら夜空へ消えていく。交流可能時間の終わり。
中庭に散っていた生徒たちは、名残惜しそうな声を残して寮の方へ姿を消す。笑い声も、足音も、次第に遠ざかっていった。
ジェイドは窓際から視線を外し、静かに息を吐いた。
「……戻ろう。これ以上は、規則に触れる」
「はい」
アイリスは答えて背を向ける。自分の居場所を示す扉はすぐそこにあるはずなのに、足取りは少し重かった。
木製の扉に手をかけると、鉄の金具が冷たく掌を奪う。
振り返れば、ジェイドが三歩離れた場所に立っていた。光に背を受け、その瞳はやはり真っ直ぐだ。
彼は唇を動かしかけて、結局、短い言葉を選ぶ。
「おやすみ」
「……おやすみなさい、ジェイド様」
アイリスは扉を押す前、胸の奥でざわつく不安を覚えた。影の残像が視界の端に焼きついている。
(……違う。気のせい。そうでなければ、ここにいられない)
自分に言い聞かせるように、目を閉じる。
軋まぬように静かに押した扉の隙間から、回廊の光が細い帯となって差し込んだ。
その瞬間、床に落ちていた影が一度ふるりと揺れ、消えたかと思うと、再び濃さを増して輪郭を整えていく。
人の形とまでは言えない。ただ、何かがこちらを覗き込んでいる――そう錯覚させるには十分だった。
扉が閉じる音の後も、ジェイドはしばらくその場を離れなかった。
彼女を守りたい。けれど、今の自分には何もできない。
その悔しさだけを胸に、夜気を吸い込む。
室内に戻ったアイリスは、制服を整え、机の上に備品を並べる。
茶葉、茶器の布、少しの砂糖。明日の外出申請で買い足す品を頭の中に順に置き直す。
“使用人”としての務め。それは線を越えずに仕えること。
けれど、その奥にある願いを、今日だけは見ないふりをする。
(明日こそ……ジェイド様に、紅茶を)
窓の外、夜の帳は静かに流れ――間を置いてから、月明かりが白い縞模様を床に落とした。
扉の外側では、誰のものとも知れぬ影が、なおも形を整え続けていた。
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