【第35話】★デイジアの微笑み★
「その笑顔は、すべてを包み込む──ように見えた。」
転校生デイジアの登場。そして彼女の“仮面”。
仮面の笑顔、視線の交錯、静かなる違和感……
本日は、その前編です。
──朝。士官学校の寮区、東棟第三階。
まだ空は白み始めたばかりだった。
鉄と石で構成されたこの校舎は、冷たい空気をよく伝える。窓の向こうに広がるのは、整然とした中庭と、塔の影。
その塔は、今やジェイド・レオンハルトにとって**“出発点”とも“呪いの証”**とも思える存在だった。
彼はベッドの上で静かに目を開けていた。
天井の木組みの梁は、まだ見慣れぬ形だ。
数日前までとはまったく異なる世界に、自分は今いる。
けれど、あの日の試験の感触だけは、鮮明に残っていた。
『……魔力量、中等。安定値……異常なし。』
(──ありえない)
心の奥で、否定の声が渦巻いていた。
ジェイド自身が、そんな“平凡な数値”であるはずがないと信じていたわけではない。
けれど、あの瞬間──測定水晶が放ったあの微かな軋み、
周囲の大人たちが交わした、ほんのわずかな視線──
そして、あの観察官──ヴィオラという少女の、冷たい紫の瞳。
(俺の“何か”を、彼女は見たんじゃないか)
だが、何も言われなかった。
記録には“中等、安定”とだけ。
それ以上でも、それ以下でもない。
事実だけを突きつけられた感覚。
まるで、何かを“隠蔽された”ような……あるいは──封じられたような。
ジェイドは静かに上半身を起こす。
寝汗はなく、体調も悪くない。ただ、心の奥に棘が刺さったままだった。
「……おーい、起きてるかジェイド」
扉の向こうから聞こえたのは、落ち着いた少年の声だった。
同室のフィーネ──物静かで、冷静な観察眼を持つ少年だ。
「うん。いま行く」
返事をしながら、ジェイドは立ち上がった。
窓の外から差し込む淡い光が、彼の茶色の髪をやさしく照らす。
制服のシャツに袖を通しながら、彼は、鏡に映る自分の姿をぼんやりと見つめた。
(──本当に、“安定値”の俺なのか)
問いかけは、鏡の中の自分に向けられたものだった。
だが返事はない。ただ、まっすぐな眼差しだけがそこにあった。
ふと、ベッドの脇に置いてあった**“試験参加証”**に目がいく。
そこには、確かに刻まれている──「第114期士官候補生・合格者 レオンハルト」。
試験に合格した。
それは事実だ。
しかし、それがこの国、メリトクラシアにおいて“どんな意味”を持つのか──まだ理解しきれていない。
この国では、力こそが正義。
だが、力には「見える力」と「見せる力」がある。
そして時に──「見せない力」こそが最も危険視される。
「……アイリス、まだ寝てるかな」
ふと思いついて隣の部屋を見やる。
ジェイドの目に映ったのは、そっと開かれた扉と、廊下に落ちる小さな足音。
どうやら先に起きていたらしい。
(……あの子は敏い。何かに気づいてるのかもな)
そう思った時だった。
角を曲がった先から、小さな足音が戻ってきた。
「ジェイド様……おはようございます」
──アイリス。
白銀の長い髪をリボンで束ね、少し眠たげな目をして彼を見上げていた。
薄緑のマントを羽織った姿は、今でもどこか異国めいている。
「おはよう、アイリス。先に食堂行ってると思ってた」
「……なんとなく。ジェイド様のところ、覗いてみたくなって……」
小さな声に、何かを隠している気配を感じた。
「……どうした?」
「……あの、昨日の試験……いえ。気のせい……かもしれません」
アイリスは少しだけうつむいた。
けれど、目はしっかりと彼を見ている。
その視線が言っていた。
──“ジェイド様も、何か感じていませんか?”と。
ジェイドは、その問いに答えるようにうなずいた。
「うん、気づいたよ。俺たちは……何かを見られてる。いや──試されてる」
アイリスの手が、そっとジェイドの袖に触れる。
その指先は、ほんの少しだけ震えていた。
ジェイドはゆっくりと、その手を握り返した。
そして思った。
この手の温もりだけは、信じていたいと。
──午前七時三〇分。士官学校 食堂棟。
朝の食堂は、まるでひとつの小さな舞台だった。
テーブルが整然と並べられ、候補生たちは各自のグループに散らばって談笑している。
上級士官候補生という肩書を得たばかりの少年少女たち。誰もが新しい制服に身を包み、互いの情報を探るように話していた。
その中央に──**一際目を引く“光”**があった。
デイジア・ノクターン。
昨日、転入生として現れた少女。
その容姿は、誰もが見とれるほどに整っていた。
──金と紅が交錯したオッドアイ。
──淡く輝く金髪は朝陽に透け、まるで神話から抜け出たかのよう。
──制服の左胸には、貴族推薦者にのみ許される“銀のバッジ”。
まさに、“絵に描いたような貴族の令嬢”。
だが、その表情に高慢さはなく、むしろ“無垢でやわらかな微笑”が浮かんでいた。
「ねぇ、君は武術系? それとも魔術系?」
明るい声で、彼女は隣の少年に話しかける。
緊張した様子の少年は、どもりながら答える。
「え、えっと……まだ実技選択してなくて……」
「そっか。でも雰囲気からして、魔術も得意そうだよね」
──自然だ。
まるで、昔からここにいたかのような馴染み方。
デイジアは誰とでも分け隔てなく話し、笑う。
食堂にいた候補生たちは皆、少しずつ彼女の輪に引き寄せられていく。
だが。
ジェイドは、その“違和感”に気づいていた。
斜め後方の席に座り、食事に手を付けるふりをしながら──視線だけは、彼女を監視していた。
(……なめらかすぎる)
会話の切り返し、声のトーン、表情の作り方。
全てが“計算されている”。
しかも、それを一切“感じさせない”高度な自然さ。
それはジェイドにとって、誰かを思い出させる。
──あの貴族たち。
“支配するための演技”を身につけた連中の中でも、特に優れた者たちの“術”だった。
(……この子、ただの転校生じゃない)
隣に座るアイリスもまた、彼女から目を離せずにいた。
その瞬間──。
「…………」
デイジアが、ふと笑顔を崩さずに首をかしげた。
話し相手ではなく──食堂の壁の一点を、じっと見つめていた。
誰もいない空間。
何の変哲もない、ただの石壁。
けれど、その瞳の奥に浮かんだのは、明らかに“感情”だった。
──冷たい。
──刺すような、敵意すら孕んだ視線。
ジェイドの心臓が、一瞬だけ強く跳ねた。
(見えてる……? いや、“何か”を探してる?)
そのまま、デイジアはにこやかに会話を続けた。
まるで、さっきまでの“異常”など存在しなかったかのように。
けれどジェイドは確信した。
あれは偶然じゃない。
「……アイリス。あの子、気づいてる」
小さく呟くと、アイリスは即座に反応した。
「ジェイド様……はい、わたしも……なんとなく、ですけど……怖いです」
その言葉に、ジェイドは静かにうなずく。
「おそらく、俺たちの中で、彼女の“仮面”に気づいてるのは──まだ、俺たちだけだ」
アイリスの小さな手が、ジェイドの袖をぎゅっと掴んだ。
「……あの笑顔、笑ってるのに……目が、全然……笑ってないです」
それは、アイリスの“種族的直感”に近いものだった。
差別の中で生きてきた彼女は、“見られる側”として、人の“視線”にとても敏感だった。
ジェイドはそっと彼女の手を包み込む。
「大丈夫。……今はまだ、動くときじゃない。観察しよう。あの子が何者なのか──」
言葉の先を言い切る前に、デイジアがこちらを振り返った。
一瞬だけ、目が合う。
そして──にっこりと、笑った。
まるで最初から、こちらの会話を知っていたかのように。
まるで、それすら“演技に取り込む”余裕があるかのように。
アイリスの背中が、ぴくりと震えた。
ジェイドはその表情を崩さず、ゆっくりと目を細めた。
(……仮面の下を、暴いてやる)
その静かな宣言が、彼の内に灯った。
──場所:士官学校西棟・屋上通路。
時刻は八時一五分。最初の講義が始まる直前。
風が吹き抜ける高所。
ここは公式には“立ち入り制限区域”に指定されているが、訓練生たちの間では“抜け道”として知られていた。
だが──この時間、ここにいるのはただ一人。
少女──デイジア・ノクターン。
その手には、まだ口もつけられていない朝の紅茶入りカップが揺れている。
彼女の金髪が風に乗ってゆるやかに舞う。
視線の先には、校庭を見下ろす風景──ではない。
彼女は、屋上のさらに先、
見張り塔の上に立つ“監視兵”の影を、はっきりと見ていた。
(……配置が変わった。昨日はいなかった兵が一人。ノウス所属)
ごく自然な立ち姿。
だが兵士の腰元にあるのは、近衛隊専用の短剣。
それは“選ばれた目”であることを意味していた。
(──見られてる)
紅茶を一口。
カップ越しに視線を外しながら、デイジアは静かに笑った。
「懐かしい顔……ずっと見張るつもりかしら」
笑顔のままのその言葉は、誰にも聞かれない。
彼女の左手には、小さな銀の指輪がはめられていた。
表向きはただの装飾品。
だが、光の角度によって一瞬だけ、“赤”が揺らめく。
それは、血の色にも似た輝き。
(エンドスターの“残響”──また呼び起こされるの?)
胸の奥に、ざらつくような痛みが走る。
彼女は、かつてその光に焼かれた。
過去に、全てを失った。
だから、今度は──
「舞台に立つなら、役を演じないとね」
指輪に唇を触れながら、彼女は仮面の笑顔をもう一度取り戻した。
──その頃、校舎内部。
ジェイド・レオンハルトは、一階通路を歩いていた。
朝の講義へ向かう足取り。
アイリスと並んで歩く彼は、ふとつぶやく。
「……なぁ、アイリス。昨日の“あの子の目”って──」
「え?」
ジェイドは立ち止まり、窓から差し込む陽光を見つめる。
その光を思い出に重ねながら、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「昨日、あの子の瞳は……赤だった。確かに、深い赤で、俺のことを睨んでいた」
アイリスは目を見開く。
「はい……わたしも、そう……思いました」
「でも今朝──オッドアイだった。金と紅の混ざった瞳。まるで……」
(まるで、人が変わったように)
そうは言わなかった。
言ってしまえば、確信になってしまう気がしたからだ。
「……気のせいだったのかな」
ジェイドはごまかすように笑う。
だが、胸の奥に残る“違和感”は、もはや消える気配すらなかった。
アイリスは黙ったまま、そっと彼の袖を握る。
「……ジェイド様、わたし……こわいです。あの子、笑ってるけど……違うんです。ぜったいに」
ジェイドは、彼女のその手をしっかりと包み込んだ。
「大丈夫。……今は、見抜くだけでいい。下手に動いたら、逆に足を取られる」
その言葉の意味を、アイリスは完全には理解していなかった。
けれどその声が、どこか冷たく、鋭いものであったことだけは──確かに記憶された。
本日は第35話前編でした。
デイジアの“異質さ”に気づいたジェイドとアイリス。
しかし、それはまだ“始まり”に過ぎません。
次回、後編ではノウス近衛からの任務、そして“彼女自身の独白”が描かれます。
どうか、お楽しみに
。
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