★【第29話】静寂と揺らぎの階段★
士官学校の空気は、ただ冷たい。
貴族と平民、そして“未覚醒”という烙印を背負ったジェイドの存在は、教員たちの議論の種となる。
一方、休日の学園探索で見えてきたのは、平穏の裏に潜む閉ざされた塔――。
冷たい会議と、束の間の穏やかな時間。そして、微かに揺らぐ不穏な気配。
静寂の中で揺れ動く階段の物語が、いま始まる。
★【第29話】教師たちの評価会議★
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厚い石壁が、外界の喧騒を完全に遮断していた。
高窓から差し込む光は冷たく、円卓の上に落ちる影はまるでこの場に集う者たちの心象を映し出すようだった。
カミラ=シュトレームは、中央席に静かに座り、鋭い眼差しを周囲に向ける。
赤茶の髪がわずかに揺れ、その瞳には一切の感情が宿っていないように見えた。
「――レオンハルト候補生について、議題に上げます」
カミラの低い声が室内に響いた。
張り詰めた空気がさらに冷たくなるのを、誰もが感じ取っていた。
「実戦演習での動きは、どう評価しますか」
「潜在魔力量は“中等”ながら、即応力は異常です」
一人の男性教官が書類をめくり、淡々とした口調で答えた。
「しかし、未覚醒のままでは暴走の危険性が常に付きまといます」
別の教師が鼻を鳴らした。
「適応力などどうでもいい。
暴走する可能性を秘めた者を育成するなど、正気の沙汰ではない」
「ならば、封印処置を進言しますか」
カミラの問いかけに、場が静まる。
教師たちは視線を交わしつつも、決断を下すことをためらっていた。
ペン先が書類の上を滑る音だけが、重苦しい沈黙を切り裂く。
──カツ、カツ。
規則正しい靴音が、廊下の奥から近づいてきた。
その音は、会議室の空気をさらに張り詰めさせていく。
黒革の靴が音を止め、重い扉がゆっくりと開いた。
黒衣の少女が入室する。
記録官ヴィオラ。
その無表情な顔と、氷のように冷たい瞳が、教師たちの視線を一身に集めた。
「審問庁より、補足のため同席いたします」
「……ヴィオラ殿」
カミラ=シュトレームが僅かに眉をひそめ、無言で席を促した。
ヴィオラは会議室中央まで歩を進め、黒革の記録帳を開き、淡々とした声で報告を始めた。
「レオンハルト候補生は、未覚醒ながら異例の魔力安定を示しています」
「……異例?」
一人の教官が険しい表情で問い返す。
「はい。彼の使用人であるアイリス=アルトゥナの“封印核”が影響していると推測されます」
ざわめきが、会議室を走った。
教師の一人が低い声で呟く。
「封印核……使用人が鍵だと?」
「その通りです」
ヴィオラの瞳は微動だにせず、冷たい光を放ち続けていた。
「しかし、この均衡は極めて不安定です」
別の教官が机を叩く。
「ならば、封印処置を講じるべきではないか」
ヴィオラは即座に遮るように言い放った。
「現段階での封印は不要です。
ロータス公より“観察優先”との通達が出ています」
「観察優先……」
カミラがゆっくりと息を吐き、深く考え込む。
ヴィオラの冷たい声が、会議室に重く響いた。
「……以上が現状の分析です」
教師たちはそれぞれ書類に目を落とし、誰一人として口を開こうとしなかった。
ペン先が紙を擦る微かな音だけが、室内に残る。
カミラ=シュトレームは椅子の背に体を預け、視線を窓の外に向ける。
灰色の空が、遠くで低く唸っていた。
「……あの少年は、果たして階段を登り切れるのか」
誰ともなく呟かれた言葉が、場に漂った。
だが、その問いに答える者はいなかった。
重い沈黙が支配し、教師たちはそれぞれの胸に異なる思惑を抱え続けていた。
──ジェイド・レオンハルト。
その名は、会議室に集った者たちの中で重く刻まれた。
彼が何者になるのか。
それは、まだ誰にも分からない。
ヴィオラは黒革の記録帳を閉じ、無言で立ち上がると、ゆっくりと会議室を後にした。
黒革の靴音が遠ざかり、重い扉が閉じる音が、微かに残響する。
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冷たい会議室の空気とは対照的に、朝の学園は柔らかな光に包まれていた。
高く澄んだ空に白い雲が漂い、遠くで鳥のさえずりが聞こえる。
「ジェイド様、今日はお休み…なんですよね」
アイリスが少し不安げに問いかける。
白銀の長髪が朝の光を受けてきらめき、紫の瞳が控えめに揺れていた。
「そうだ。今日は講義も演習も無い」
ジェイドは短く答え、ゆっくりと歩き出した。
学園の広い中庭は、休日のためか人影がまばらだ。
二人は並んで歩きながら、校舎の奥へと足を進める。
石畳の上でアイリスの小さな靴音がコツコツと響き、その音にジェイドの歩調が自然と合わせられる。
「ここが…士官学校の中庭なんですね」
「普段は貴族生や上級生がたむろしている場所だ。平民が入れるのは休日ぐらいだ」
ジェイドはそう言いながら、遠くにそびえる古びた“塔”に視線を送った。
灰色の石造りのその塔は、周囲を囲う鉄柵によって封鎖され、近寄ることすら許されないように見える。
「……あれは?」
アイリスが小さな声で問いかける。
「あれは“立入禁止区域”だ。
教師たちは“古い記録庫”だと言っているが、詳しく知る者は少ない」
微かに吹いた風が、二人の間の沈黙を撫でていった。
───
「ジェイド様…この先は?」
アイリスが小さく首をかしげた。
視線の先には、小さな花壇と噴水が広がっている。
「休憩所だ。貴族生が集うことが多い場所だが、今日は静かだな」
ジェイドはそう言い、噴水の縁に腰を下ろした。
アイリスも少し躊躇いがちに、隣に座る。
風が吹き、アイリスの白銀の髪がふわりと舞った。
「……いい風ですね」
「お前がそう言うなら、たぶんいい風なんだろう」
ジェイドの口元に微かな笑みが浮かぶ。
アイリスは一瞬、驚いたように彼を見たが、すぐに表情を緩めた。
「ジェイド様が笑うと…少し安心します」
「そうか」
ジェイドは視線を遠くに送りながら、ふと呟いた。
「……だが、この平穏も長くは続かない気がする」
「ジェイド様…?」
アイリスが不安そうに彼を見つめる。
「いや、何でもない」
ジェイドは小さく首を振り、立ち上がった。
「行こう。まだ見ていない場所がある」
「はい!」
アイリスがぱっと笑顔を見せる。
その笑みは、どこか無邪気で、どこか痛々しいものだった。
───
二人は再び歩き出した。
中庭から離れ、静まり返った学園の奥へと足を進める。
「……ジェイド様」
アイリスが、ふと立ち止まった。
視線の先には、灰色の石造りの塔がそびえている。
その姿は、まるで空に突き刺さる杭のように重苦しかった。
「近づくな」
ジェイドは低く制するように言った。
「ここは“立入禁止区域”だ。教師たちが厳重に封鎖している」
「……何があるんですか」
アイリスの声がかすかに震えていた。
「誰も詳しくは知らない。ただ――」
ジェイドは一瞬、塔の最上部を見上げる。
どこからともなく冷たい風が吹き、彼の茶髪を揺らした。
「この塔の中で何かが…眠っていると噂されている」
その瞬間、微かな物音がした。
塔の影から、小さな黒い影が走り去ったように見えた。
「……ジェイド様、今のは…」
「見間違いかもしれない」
ジェイドはそう言いながらも、視線を塔から離さない。
やがて風が止み、重苦しい空気だけが二人を包んだ。
「行こう。ここに長居は無用だ」
「はい…」
アイリスはジェイドの袖をそっと掴み、その指先がかすかに震えていた。
二人は塔を背にして歩き出す。
だが、その背後の高みから、何かが彼らを見下ろしているような気配があった。
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教師たちの議論の中で“観察対象”とされたジェイド。
彼を取り巻く状況は、平穏に見えてその実、かすかな揺らぎを孕んでいた。
閉ざされた塔に漂う不穏な影と、ジェイドの内に眠る力。
次回、束の間の平和が崩れ始める。
ジェイドの階段は、まだ始まったばかりだ。




