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軍事大国のおっとり姫  作者: 江馬 百合子
第六章 美しき世界
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第百三十七話 美しき世界


 その日は、レイラの初の登校日だった。


 小さな村の真新しい駅舎に向かいながら、少女はスキップをする。

 ずっと、この日を待ちわびていたのだ。


 ぴかぴかの改札で元気よく学生証を見せると、駅長が朗らかに話しかけてきた。


「やぁレイラ。今日から学校かい?」


 レイラは嬉しさを隠しきれない弾んだ声で答える。


「うん、そう。今日から毎日学校に通えるの」


 駅長は、そんなレイラの頭を撫で、ウエスト鞄から真新しいパスケースを取り出した。

 紫群青の生地に、金色の刺繍が入っている。


「それじゃあ、そんな君にプレゼントだ。学生証をこれに入れるといい。そのままだと汚れてしまうからね」


 レイラは、ぱぁっと瞳を輝かせ、両手でしっかりと受け取った。



* * *



 駅のホームは、石畳みと南国風のパーゴラが美しい空間だった。

 あちこちに咲く春の花々が優しい香りを運び、鳥のさえずりが木漏れ日に落ちる。

 朝の清々しさの中でレイラはそっと目を閉じた。


 それから、数分もしないうちに、ティルナノーグ号は音もなくホームにやって来た。

 金色の粉をまとい、太陽の光を受けてきらきらと輝く白い車体に瞳を奪われる。

 不思議なことに、レイラにはティルナノーグ号がまるで生きているかのように感じられた。


――やぁ、いらっしゃい。これからよろしく。どうかゆっくりくつろいでよ。


 そう話しかけられているような気がした。

 レイラは外装にそっと手を置き囁いた。


「こちらこそ、これからよろしくね」


 そして、うきうきと軽やかに車内へ乗り込んだ。



* * *



 そこからは楽しい探検だった。

 車両を移るごとに新しい発見がある。

 外からはそれほど大きく見えなかったのに、中を歩いてみると、まるで終わりがないようだ。


 最初の車両はクッションの部屋だった。

 レイラよりもっと小さな子どもたちが、朝の淡い陽の中ですやすやと眠ったり、座って絵本を読んだりしている。

 中にはうたた寝をしている大学の学生もいた。昨夜は遅くまで勉強していたのかもしれない。

 レイラは彼らを起こさないよう、抜き足差し足で移動した。



* * *



 次の車両は、野菜畑だった。


――ご自由にお採りください。


 そんな立て看板の向こうには、つやつやに実った茄子やトマト、きゅうり、とうもろこしが。


――今が旬。


 そう書かれていたのはじゃがいも畑と玉ねぎ畑。それから、野草のような草花の生えている畑だった。


 傍の方にはさつまいも畑まである。

 どうやら全ての季節の実りがそこにはあるらしい。


 畑仕事の好きな乗客は、雑草を抜いたり、水を撒いたりしながら、土の香りの中で菜園を楽しんでいた。


 レイラは一つトマトを採るとそのままかじった。

 たくさんの人の手によって育てられたトマトは、まるで果物のように甘かった。



* * *



 それから、たくさんの車両を見て回った。

 喫茶店カフェ、水族館、足湯、図書館、果ては猫屋敷、釣り堀、音楽室まで――とても一日では見て回れそうにない。

 その中で人々は自分の居場所を見つけ、各々好きな時間を過ごしていた。

 これから自分にも、お気に入りの車両ができるに違いない。

 そう思うと、この先の毎日がさらに楽しみになった。


 ふとある車両で細い階段を見つけた。


「どこに繋がってるんだろう?」


 不思議に思い、迷わずその階段を登っていく。

 ほどなく、レイラは展望室へ出た。


 壁も天井もないそこは、ティルナノーグ号の上から全方位が見渡せた。空は青く、路線沿いには色とりどりの花々が咲き乱れている。

 そよ風のような優しい風が額を撫でた。

 開放感と心地の良い香りに、レイラは大きく伸びをした。


(囲いはないけれど、ここはとても安全だわ)


 実際、「ごゆっくりお過ごしください」というプレートが置かれたベンチに貼ってある。

 このティルナノーグ号が魔法で守られていることを、改めて感じた瞬間だった。


 レイラはもう一段高いところに上がり、辺りを見渡した。

 それは特別な景色だった。


 遠くに連なる青々とした稜線。その向こうには雲一つない春の空が広がっている。

 牧場では、牛や馬、羊やヤギがのんびりと草を食み、家々からは朝食の香りが漂ってくる。

 ティルナノーグ号が進むごとに、沿線の花々が揺れ、鮮やかな花びらを舞わせた。


 そのとき、展望台の隅の方から控えめな声が聞こえてきた。


「誰?」


 振り向くと、そこには同じくらいの年頃の女の子が座っていた。

 ひらひらと薄い服を着た、褐色の肌に美しい黒髪の女の子だ。

 レイラと同じようにショルダーバッグを提げている。


「私、ハーニ村のレイラ。今からマニュラ校に行くの。今日から学校なのよ」


 レイラが答えると、女の子は少し驚いたように言った。


「私はザラ。ハーニ村の一つ前の駅から乗ってるの。それから、私もマニュラ校に行くところ。今日が初登校よ」


 ハーニ村はフレイローズ国の最南端だ。

 ということは、ザラはエメラルド国の子なのだ。

 レイラは、エメラルドの人に出会うのは初めてだった。

 しかし、ザラがどこの生まれかなんて、レイラは大して気にしていなかった。

 二人は互いを一目で好きになっていた。


「じゃあ、これから毎日会えるのね」

「えぇ、そうね。これからどうぞよろしくね」

「こちらこそ、よろしくね」


 二人は隣り合って座り、美しい稜線を眺めながらたくさんおしゃべりをした。


「すてきな服ね。初めて見たわ」

「これからの季節は日差しが強くなるから、肌を隠すために着るの。といっても、いくら覆ってても赤く日焼けしちゃうんだけど」


 レイラははっとして、ショルダーバッグの中をごそごそとあさった。

 それから、「あった!」と小さな小瓶を取り出す。


「これ使ってみて!」

「これは?」


 小さな可愛らしい瓶に、麻リボンが巻かれている。

 そこには、茶色い字で「花麦水」と書かれていた。


「肌が綺麗になる水よ。フレイローズだとあちこちに売ってるの。この国で持ってない女の人はいないくらい。ここよりもっともっと北の方で作られてるんだって」


 レイラにとっても、初めて自分でお小遣いを貯めて買ったものだったが、それは黙っておいた。

 強い日差しで肌を傷めてしまうザラの方が、より必要だと思ったからだ。

 お守りのように持ち歩いていた甲斐があったというものだ。


「……嬉しい。ありがとう。お母さんにも塗ってあげよう」


 はにかみながら嬉しそうに笑うザラを見ていると、レイラの胸の中まで陽だまりのように温かくなった。


「今度、うちに遊びに来て。家族もきっと喜ぶから。エメラルド中を案内するわ」

「うわぁ、行きたい! すごく楽しみ。ねぇ、エメラルドってどんなところなの?」


 話したいことは尽きなかった。

 お互い知らないことばかりで、未知の世界にどきどきした。

 国が違うだけでこうも違うものかと驚いた。

 それなのに、こうして話していると、心は確かに通じ合っている。


(何もかも違うようで、心の中は同じなんだわ)


 レイラは何となくそんなふうに感じた。


 そのとき、二人の頭上を二つの影が横切った。

 鳥だろうか。いや、それにしては大きい。

 何だろうと空を見上げた二人は、同時に叫んだ。


「ルコットさんとホルガーさんだ!」


 遥か上の方、水色の空の中に、彼らはいた。

 若草色のドレスを着たルコットと軍服姿のホルガー。

 二人は手を繋ぎ、楽しそうに会話をしながら、南東の方角へ向かっている。

 ホルガーの手に大きな革のアタッシュケースが握られているところを見ると、今日は泊りがけなのかもしれない。


「ホルガーさーん!」

「ルコットさーん!」


 呼びかけると、気づいた二人も大きく手を振り返してくれた。


「これから学校?」


 ルコットのよく通る声が空から降ってくる。


「そうでーす!」


 二人がはしゃいで返事をすると、ベルツ夫妻は嬉しそうに顔を見合わせ、二人にお祝いの言葉を贈った。


「おめでとう!」

「毎日を楽しんでね」


 同時に、ティルナノーグ号は、背の高いさくらんぼ畑に突入し、二人の姿は見えなくなった。

 満開の花トンネルの中、列車は走る。

 淡い花吹雪に包まれ、二人は歓声を上げた。


 二人だけではない。

 食堂で朝食をとっていた人も、図書室で新聞を読んでいた人も、クッションの部屋でうたた寝をしていた人も、皆、窓から同じ景色を眺めていた。


「……綺麗ね」


 老婦人がささやくと、正面でコーヒーを飲んでいた紳士も「あぁ」と応える。


「本当に、とても綺麗だ」



* * *



 夢を運ぶ列車、ティルナノーグ号。

 遠ざかっていくその姿を、ルコットとホルガーは空の上から見送っていた。


 さくらんぼ畑を抜けた列車は、広大な花畑の中を走り始める。

 花畑で作業をしていた人々は顔を上げ、列車に向かって手を振っていた。


――良い一日を!


 そう言わんばかりに。


 花畑の向こうには、一級河川スエドラ川が広がり、その橋を渡る先にあるのが、マニュラ校のある街、トステヌだ。


 歴史ある石畳の街道に、石造りの家が立ち並ぶ南部の静かな都市。

 既に朝の支度が始まっているのか、パン屋や煮炊きする家庭の煙が、あちこちから上がっていた。


「新しい一日が始まりますね」


 ルコットの呟きに、ホルガーも「はい」と目を細める。

 装飾写本で有名なウィスト院の尖塔に、黄金色の朝陽がかかった。


「ルコットさん」


 ホルガーに呼ばれ、ルコットは振り向く。

 金色の光がルコットの髪や肌を染め、瞳はまるで琥珀のようにきらめく。

 オーガンジーのドレスは薄葉のように光を透かし、まるで彼女自身が輝いているかのようだった。


「……世界は、こんなにも美しい」


 思わず溢れた呟きに、ルコットは明るい微笑みを返した。


「本当に。とても、とても美しいですわ」









以上をもちまして『軍事大国のおっとり姫』は一旦完結となります。


長らくのお付き合い誠にありがとうございました。

心から感謝申し上げます。


今後の投稿につきましてお知らせがございますので、よろしければ活動報告をご一読いただけましたら幸いです。


これから続いていく皆様の日々がいっそう自由で豊かなものとなりますよう、心からお祈りいたしております。

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