1 雨のカフェにて、失恋した僕は恋をする
失恋をした。
雨音。
大きなガラス窓に、雨粒があたっては砕けて滑り落ちていく。
通りでは、馬車が泥を跳ねさせながら通り過ぎていった。
傘を差して歩く紳士。
彼のブーツの先が、濡れて黒く染まっている。
等間隔に並んだガス灯のガラスが、ぼんやりと橙に滲んでいた。
重そうな雲。
いっそ雷でも落ちてくれた方が、気も紛れるかもしれない。
給仕の青年が、注文していた紅茶とレモンケーキを運んできた。
琥珀の水面。
立ち上る香り。
そして、ため息。
ため息をついたのは、もちろん僕。
あぁ、珈琲にすれば良かった。
彼女の琥珀の瞳を思い出してしまうから。
カップを持ち上げて一口含む。
香りが鼻に抜け、
熱が、喉を通り過ぎていく。
「……美味しい」
喉元に手をやって、クラヴァットを少しだけ緩めた。
ため息。
雨音。
澄んだベルの音がして、扉が閉まる軋む音が重なる。
こんな雨の日に、僕以外のお客さんか。
若い女性の二人連れ。
彼女たちは僕の近くの席についた。
「ねぇ、ケーキでも食べて元気出して」
「……そうね」
何かあったのかな。
……いけないいけない。
紳士たるもの、女性の話に聞き耳立てるなんて。
「素敵な男性なんてたくさんいるわ。
あんな男忘れてしまいなさいな」
「……そうよね」
お、奇遇ですね。
失恋? 僕もだよ。
「大商会の跡継ぎなんて目立つもの。仕方ないわよ」
「……でも、婚約までしていたのに、別の女性に乗り換えるなんて……」
おやおや。僕もいわゆる“大商会の跡継ぎ”なのに、振られたよ。
“大商会の跡継ぎだからもっと派手かと思っていたのに、あなたって質素でつまらないわ”って言われた。
ひどい。質素で何が悪い。
「でも、いいの。あの人の派手な遊びにはついていけなかったから……。
もう少し。落ち着いた人がいいわ」
「あなた、夜会に参加したり舞台を観たりするよりも、王立自然公園を歩くのが好きだものね」
「花が好きなの」
花か。
僕も花は好きだな。
エルダーフラワーが一番好き。
見た目も良し、シロップにしても良し。
「エルダーフラワーが好きなの。ちょうど今の季節だわ」
「白い小花が可愛らしいわよね」
「それに、シロップにしても美味しいもの」
「……あなた、そういうところで振られたのかもしれないわね」
え!? なぜ?
「え?」
「あの派手男からしたら、あなたの可憐なところは“地味”にしか見えなかったのよ」
……見る目のない奴。
ため息。
……これは僕じゃなくて彼女。
ガラス窓に当たる雨粒が、少し大きくなってきた。
「……もう彼の話はいいわ。
楽しい話しましょ。
そう、新作が出たのよ」
「なんの?」
「エリック探偵シリーズの新作よ」
あぁ、僕も昨日買って一気に読んだ。
あのシリーズ好き。わかる。
「ごめんなさい。私、恋愛小説しか読まないの。どんな話?」
「エリックという黒髪の探偵がいてね。
彼が謎を解き明かしていく話。
とても理知的で素敵な人なの。トリックを暴くというより、話をして矛盾を探していくのよ」
エリックは見た目もいいけど、言葉の選び方も丁寧でかっこいいんだよね。
僕は、あぁいう紳士になりたい。
レモンケーキを一口。
――美味しい。
彼女たちのもとにも、紅茶とケーキが届く。
「ここのレモンケーキ、大好きなの」
「あら、そうなの?」
しっとりしていて、それでいて後味がしつこくないんだよね。
僕も好き。
「口当たりがしっとりしてるの。
だけど後味はさっぱりしているのよ」
……彼女と味覚が似てるのかな。
ここらへんのカフェのケーキなら、僕はこの店のレモンケーキが一番好きだな。
「私、この店のレモンケーキが一番好きかもしれないわ」
窓ガラスを見る。
……花も、本も、ケーキも。
趣味が一緒なんだ。
顔を見てみたいけど、女性の顔をじろじろ見るのは、紳士のやることではないな。
雨音。
雨粒が絶え間なくガラスを伝って落ちていく。
石畳の上には、雨がつくる霞。
通りの向こうが、滲んでいる。
馬車が一台、近くに停まった。
ベルの音。
「……ごめんなさい。迎えが来てしまったわ。
とにかく、派手男のことは忘れて元気出して」
「ありがとう。話せてよかったわ」
「ごきげんよう」
「えぇ、ごきげんよう」
木床を踏む靴音。
ベルの音。
小さく食器の音が鳴る。
僕も、紅茶を飲む。
エリックだったら、こんなとき、どうするのかな。
膝に置いていた帽子が、滑り落ちる。
「あ」
慌てて席を立った。
白い指先が、僕の帽子を拾いあげる。
ゆっくり持ち上がる、空色の瞳。
白い花がよく似合いそうな、可憐な女性。
――あ、好きかも。
エルダーフラワーが好きで、
エリック探偵シリーズが好きで、
レモンケーキが好きな――彼女。
キャラメル色の緩やかな髪。
女性の白い頬はわずかに赤らんでいる。
その空色の瞳に映る僕は、見た目だけなら探偵エリックに似てたりするかな。
僕は思わず片膝をついて、帽子を受け取った。
「……拾ってくださって……ありがとう」
「いえ……」
指先が、ほんのわずか、触れた。
「もし……」
勇気を出せ。
「もし良かったら、
今度、僕とお茶でも……」
彼女の頬が、さらに赤くなる。
緊張で、僕の心臓がこぼれ落ちそうだ。
女性は少しだけ顔を伏せると、
「……はい」
小さく、そう言った。
――……やった!
僕が笑うと、彼女も顔を上げて柔らかく笑ってくれた。
雨の音。
淡いガス灯の明かり。
ガラス窓を伝う、雨粒。
こんな雨の日も、悪くない。




