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71話 RHYTHM COMMUNICATION

 赤城さんのお母さん。

 俺は、彼女の名前をすでに聞き及んでいた。

 なんなら、簡単なプロフィールまで存じ上げている。


 赤城あかぎ桜花(おうか)、三十九歳。現在、独身。

 役職は、株式会社セイレーンの執行役員。以前は個人のコンサルタントとして同社の顧問を務めていたが、四年前に一年間の専属期間を経たのち、要職に就任。

 たぐいまれな商機の勘と卓越した市場予測の能力を有しており、もとは外部の人間でありながら、現在は多数の"赤城派閥"の社員たちを擁しているという。


 つまるところ――彼女は、すさまじく敏腕なキャリアウーマンということだ。


 長い廊下で、桜花さんについていきながら、俺はそのバリバリなオーラを強く感じ取っていた。

 背中に「わたしは有能です」という一文が書かれているようにさえ思える。

 そこまで緊張していないはずだったが、ここにきて少々、プレッシャーにひるんでしまうほどだった。

 俺は果たして、こんな優秀そうなひとを相手にうまく立ち回ることができるのか――。


「んっ――と」


 などと考えながら歩いていると、桜花さんがぐらりとよろめいた。

 さきほどから、どことなくおぼつかない足取りだとは思っていたが、ひょっとして具合でも悪いのだろうか。


「だいじょうぶですか!」


 と、反射的に彼女のからだを支えた俺の手に、赤い液体が付着した。

 なんだ?

 まさか、血か――!?


 焦って桜花さんの様子をみてみると――そのふところに、ワイングラスを隠し持っていた。ちゃぽりと揺れているのは、赤い液体。

 もちろん、その正体は赤ワインなのであろう。


 ……いったい、どういうことなのか。

 赤城さんと造形は似ているが、ずっと険しい印象の瞳で、彼女は俺の顔をじっとにらんだ。


「……ふしぎに思っているでしょう。なぜ、このひとは陽も落ちていないうちからワインを持っているのだろうと」

「え、ええ、まあ……」

「答えは単純――昼から飲んでいたからよ。ただ、いざ玄関に向かったとき、よそのお子さんをお酒片手に出迎えるのはどうなのだろうと思って、とっさに隠したの。そしてそれが今、バレてしまった……つまり、これは気まずい状況だわ。ちがう?」


 桜花さんは、言われてみればほんのり蒸気している頬を、手の甲で冷やすようにした。

 これは、なんとも答えづらい問いかけだ……。


「…………。」

「………………。」


「…………気まずいわ。きっと、帰りたくなったことでしょう。ええと……」

「亜熊、といいます」

「そうだったわ。めずらしい苗字ね」

「よく言われます」


 ワインに濡れた手をハンカチで拭くと、こほんと、俺はわざと咳をはさんだ。


「とにかく、お気になさらず。俺は祖母とふたり暮らしなのですが、その祖母は地元でバーを経営しておりまして、毎日のようにお客さんのお酒に付き合っています。なのでお酒を飲むひとのことは、人並み以上に慣れていますし、特別になにか思うこともありませんので」


 これは真実だ。

 俺の言葉に、桜花さんは意外そうに、二度ほどゆっくりまばたきをした。


「……そうなの。なら、とりあえずいいわ。こちらへどうぞ」


 想定外の第二関門を、なんとか乗り越える。

 ほっとして、俺はあとをついていった。

 ……これは俺の早合点かもしれないが、赤城さんの事務所の運営会社のひとたち、ひょっとして全員がひと筋縄ではいかない人物なのではないだろうか。




 通されたのは、リビングだった。

 かなり広々としている。いかにも高性能らしいオープンキッチンが併設されていた。中央には、まったく飾り気のないダイニングテーブルがある。

 桜花さんは、放ってあったタブレットと紙の資料をどかすと、椅子の背を引いた。


 そのときノックがして、向かい側にある扉が開いた。

 顔を出したのは、ふたりの若い男性だった。Yシャツにスラックスという姿で、髪もびっしり整えてある。

 彼らは俺の姿を認めると、意外そうな表情を浮かべた。


「せ、専務。もうしわけありません、来客がいらっしゃっていたとは」

「いいわ。それより、どうしたの」

「はい。午前にお伝えした例の提携の案件ですが、ご指示のとおりに資料を更新したので、チェックをいただければと……」


 桜花さんは、手渡された数枚の紙をぱらぱらめくると、


「ここと、ここ。いらないわ。余計な数字は出さないように。聞かれたときにだけ迅速に答えられるようにして」

「は、はっ」


 ごく短い指示を受けると、男たちはぺこりと頭を下げて――ついでに俺にも軽く下げて――戻っていった。


「今の方々は……」

「気にしないで。向こうの空間は、わたしのリモート用のオフィスにしているの。来週はちょっと仕事が立て込んでいるのだけれど、そういうときは部下たちに来てもらっているのよ」


 そう説明して、グラスをひとくち煽る桜花さん。

 つまり、彼女は一応仕事ちゅうということになるのだろうか。

 めちゃくちゃワインを飲んでいるが……。


「とにかく、かけて。なにかお出しするわ……オランジーナでいい?」

「ええ。なんでも、おかまいなく」


 名前は聞いたことあるが飲んだことはない飲み物が、俺の前に置かれた。

 めずらしい、瓶の飲み物だ。

 しかし、栓抜きが添えられていない。

 つまり俺は、これを飲むことができない。

 桜花さんは、それに気づいているのかいないのかもわからなかった。


「じーー…………」


 オランジーナのことなどどうでもいいのだろうか、桜花さんは、俺のことを斜め上の角度からガン見していた。

 この身に覚えのある視線力……。

 たしかに、赤城さんと同じ血を感じる。


「あの、なんでしょうか」

「……あなた、とてもまじめそうね。それに、利発そうだわ。きっと、ものすごく優等生なのでしょうね。……そう、こういう男がいいのよ、こういう男が」


 なにやらぼそぼそつぶやくと、桜花さんは俺の対面にするっと腰掛けた。ようやくワイングラスを置いたかと思いきや、すぐにまた手に取って口にした。

 それから、ちからなく首を振った。


「弁明させてほしいわ。このワインは、もうバレてしまったからしかたなく飲むけれど、わたしのことを昼間からお酒を浴びているだめなアル中だとは思ってほしくないの」

「いえ、そんなことは……」

「仕事のためなのよ。こうしているほうが、よけいなことを考えずに済んで、結果的に捗るの。でも、安心して。依存はしていないのよ、依存は」


 そう言いながらも、ごくごくと口にし続ける桜花さん。

 依存性は、どうやらありそうだ。

 そんなことより――と、俺は軽く室内を見渡した。ここに赤城さんのすがたがないことはわかっていても、つい探してしまった。


「ひとつ、質問してもよろしいでしょうか」

「言ってみて」

「愛莉さんとは、どうして連絡が取れなかったのでしょうか。どうやら二日か三日、クラスのだれも返信がもらえなかったらしく、ひょっとしたらなにかあったのかと心配していまして」


 桜花さんは、いかにも気怠げに息をつくと、


「心配はいらないわ。わたしが、あの子の携帯を取り上げたの。インターネットの回線も切って、上の部屋で反省してもらっているの。いわゆる謹慎処分というやつよ」

「謹慎……ですか。しかし、なぜ」

「あの子が、約束を破ったからよ。母親として、反省を促すのは当然のことだわ」


 しかたのないことなの、と桜花さんは自分に言い聞かせるように言った。

 けして飲まれることのないオランジーナが、その身の結露を涙のように流していくサマを視界に入れながら、俺は考えた。


 謹慎――つまりは、自室軟禁ということか。


 それは、今回の事件の裏側として、かなり納得のいく話だ。

 なおかつ、俺と翠の想定していた状況と、ほとんど相違がない。


「ルールを守らなかったあの子が悪いのよ。だって、ルールは大切だわ。あなたも、そう思うでしょう」

「ええ、もちろん。ルールほど大切なものはありません」


 勤務時間中にアルコールを飲んでいる人間にそう説かれても、委員長としてにこやかに笑い、同意する。


「それで、赤城さんはいつまでご自宅に?」

「わたしも鬼ではないわ。一週間もしたら出してあげるつもりよ。つまり、あと四日くらいかしら」


 にこやかな顔のまま、俺は内心で愕然とする。

 ――電甲杯の本番は、もう三日後だ。

 それまでには解放するという話だったら、致命的ではなかったのだが……。


 ともあれ、もう少し探りを入れるべきだろう。


「あと四日、ですか。それなら、勉強合宿には問題なく行かれそうですね。あれは、夏休みの後半ですので。個人的には、もう少し前のほうがよかったのですが、うちの学園には、今週来週あたりに用事のある生徒が多いようで」


 俺は言葉を選びながら話す。

 この時点で明確にわかっていることは、ひとつ。桜花さんが、俺が赤城さんの電甲杯のチームメイトだと把握していないことだ。

 だから、この話題も問題なく振ることができる。


「ほら、なんといいましたか――そう、電甲杯。ゲームの大型大会があるとかで。そういえば、愛莉さんも出場するという話を聞いていましたが」


 電甲杯の名を出したとき、桜花さんが動揺したのを、俺は見逃さなかった。


「……そうだったかもしれないけれど、出られないでしょうね。でも、それもしかたのないことだわ。だって、約束を破ったあの子が――」


 そこで、おおきめにグラスを煽る。


「――悪いのだもの。そうじゃない?」

「ええ。そう《《かも》》しれません」


 彼女がどれくらい酔っているのか、俺には判断がつかなかった。少々赤くみえる頬も、化粧だといわれたらそうかもしれないと納得できるくらいだ。

 今のところは、呂律もまわっている。

 それでも、足取りがあやしかったのは事実だ。

 ……もう少しなら、踏み込めるだろうか?


「その約束というのは、どういうものだったのでしょうか? あ、いえ、俺の印象では、愛莉さんは約束ごとを大切にするひとだというイメージだったので、少し気になってしまい」


 桜花さんが長めに黙ったから、一瞬、やりすぎたかと思った。

 だが、地雷を踏んだような雰囲気ではなかった。

 単純に、桜花さんはどう答えたらいいのか、悩んでいるようだった。

 ちらりと、こちらの顔色を窺うような目線をひとつ。


 それから――予想外の質問を、俺によこした。


「亜熊くん。あの子のこと、かわいいと思わない?」

「……あの子、というと、愛莉さんのことでしょうか」

「そう、愛莉のことよ。あなたは、どう思う?」


 どうやら、答えないわけにはいかないようだった。


「……大変、見目麗しい方だと思います」

「そうよね。わたしも、そう思うわ。ほんとうに、いつもそう思っているのよ。この子は、かわいらしいと。愛嬌があって、溌溂としていて、ひとから愛されそうだと。でもあの子はね、そのかわり――…………頭が、よくないの…………」

「………………。」


 心底がっかりした様子の桜花さん。

 このひと、一生俺に答えづらい話をするつもりなのだろうか……。


「ごめんなさい。もう一杯だけ、飲んでもいいかしら……あと一杯だけだから」

「ええ、もちろん。どうぞご自由に」


 なんとなく止めたほうがいいとは思っていたが、うなずくほかなかった俺を責められる者はいないだろう。

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