第二十三章 焼かれる心
強制的にスピーカー状態となった端末から、息を切らしたような声が響き渡る。
『親父さんだな? あんたの娘が攫われたぞ!』
鼓膜を打ったのは、冷徹な権力者の声ではない。不遜で、ぶっきらぼうで、しかしひどく痛切な焦燥を含んだ若い少年の声だった。その荒削りな響きを聞いた瞬間、底知れぬ絶望の淵に突き落とされていた託次の脳裏に、一つの記憶が鮮烈にフラッシュバックする。
いつだったか、サクラが頬を綻ばせながら嬉しそうに語っていた少年の存在。彼女の傍で、いつも不器用に、けれど誰よりも真っ直ぐに彼女を守ろうとしていた若者の姿。
「君は……そうか、君がタケル君だな!?」
オンラインの向こう側にいるただの男子高校生。彼がどこの誰であれ、現実世界を生きる普通の人間である以上、人工的に作られた命であるホムンクルスの娘とは住む世界が違う。人間とホムンクルスでは、決して未来を共にすることはできない。いつかサクラが傷つくことになると分かりながらも、託次は父親として、娘のささやかな初恋を哀しく見守るしかなかった。
だが今、自分の端末の強固なセキュリティを一瞬でバイパスし、強引に通信を繋いできたこの少年の異常なスキルと熱量はどうだ。決して交わるはずのなかった人間の少年が。どこの馬の骨とも知れないただの高校生が今、あの子のために国家という巨大なシステムを敵に回し、血を吐くような怒りをぶつけてきている。
(……この少年は、あの子のために、現実の扉をこじ開けようとしているのか)
「駄目だ、タケル君。気持ちは嬉しいが、君が関わっていい事態じゃない」
画面の向こうにいる少年に見えないと分かっていながら、託次は力なくゆっくりと首を振った。そのかすれた声には、十年の血を吐くような努力を水泡に帰した自分自身への深い失望と、同時に、娘が慕うただの高校生を、国家という絶対的な死地へ巻き込むまいとする大人としての責任感が滲んでいた。
「相手は柿枝総理直属の諜報部だ。……ただの誘拐犯じゃないんだよ。俺が十年間、一秒も気を抜かずに守り続けてきたデータも、あの子の存在も、最初から筒抜けだった。俺の嘘は、最初からあいつらの掌の上で踊らされていただけだったんだ」
十年間、サクラに平穏な日常を与えるために積み上げてきた全ての防壁が、無残な瓦礫と化して足元に転がっている。冷たい無力感が毒のように全身を巡り、託次の反撃の意志を完全に麻痺させていた。
『掌の上? だったらその掌を、指ごとへし折ってやればいいだけだろ!』
だが、スピーカーから叩きつけられた少年の声は、大人の理屈や諦観など一蹴するほどに獰猛だった。
『あんた、サクラの父親なんだろ!? だったら、あいつに教えたはずだ。「お父さんがいれば大丈夫だ」ってな!』
「……っ」
『あんたが十年かけて守ったのは、ただのデータじゃない。サクラの心だ! あいつは言っていたぞ。病室のネットワーク越しに、あんたがどれだけ必死に自分を守ろうとしているか、ちゃんと分かってたって。だからあいつも、ずっと笑ってられたんだ!』
その言葉は、暗闇に沈みかけていた託次の脳髄を、物理的な衝撃となって殴りつけた。
自分が築き上げたものは無駄ではなかった。柿枝を騙すことはできなかったかもしれないが、サクラの心だけは、十年間、確かにあの温かい嘘と愛情の中で守り抜かれていたのだ。
『あいつを今、本当の意味で絶望させてんのは、連れ去った連中じゃない。諦めかけている、あんたのその声だ!』
スピーカーから響く少年の声は、大人の不甲斐なさへの苛立ちと、それを上回る激しい焦燥に震えていた。通信のノイズ越しでも伝わってくる、血を吐くような本気の叫び。
『親父さん、いつまで黙っているつもりだ。一秒ごとに、あいつは遠ざかっているんだぞ!』
「……っ」
ハッキングされたスマートフォンの画面が切り替わり、タケルが交通網から強引に引っこ抜いてきたであろう監視カメラの映像が浮かび上がった。車にサクラが押し込まれ、闇の中へ走り去っていく無残な光景。託次は、端末に明滅するその誘拐映像を凝視し、言葉を失った。
それは絶望による沈黙ではなかった。己の不甲斐なさを恥じ、そして、凍りついていた技術者としての魂を死の淵から引きずり起こしてくれた見知らぬ少年への、震えるほどの共鳴に声が詰まったのだ。
『サクラを救い出す方法は、俺の頭の中に全部組んである。あとは、あんたがその一歩を踏み出すかどうかだ。どうする? そこで嘘と一緒に腐るか、俺と一緒に神様をハックしに行くか!』
託次はゆっくりと顔を上げた。
託次の胸の奥で、凍りつい託次の胸の奥で、凍りついていた何かが、タケルの熱量に焼かれてパチリと音を立てた。
(なんだ、この感覚は。まるで、十年前のあの狂った研究所で、俺の手を強引に引いたあの男と同じじゃないか)
姿も声も違う。だが、絶対に諦めないというその魂の熱さが、里村先生が死の間際に言った「生きろ」という呪いを、希望へと変えていく。
『親父さん、あんたにしかできないことがあるはずだ。臨床工学技士としての知識、病院のバックドア……全部、俺に貸せ。俺が最強の武器に変えてやる』
画面上のコンソールが激しく明滅し、タケルの意志がバイナリとなって託次の端末を侵食していく。その圧倒的で暴力的なパケットの奔流は、絶望で冷え切っていた託次の血を、かつて狂気のラボで絶対防壁を組み上げたエンジニアの温度へと急激に沸騰させていった。
「生意気な少年だ」
無力感に沈んでいた託次の口角が、微かに吊り上がった。
「だが、その提案、悪くない。いいだろう。俺の知識も、権限も、この命さえも好きに使え。ただし――サクラに怪我一つさせたら、俺が直々に君のシステムを解体してやるからな」
『はっ、言ってろ。交渉成立だ』
スピーカーの向こうから、不敵な笑い声と、凄まじい速度でキーを叩く打鍵音が響く。
『病院の裏口で落ち合おう。時間は一分もやれないぞ!』
「いや待て」
託次は咄嗟に、冷静な大人のロジックで思考を巡らせる。
「新幹線も止まっているこの状況で、横浜からではどうあがいても二時間はかかる。その間にあの子は、柿枝の待つ伊豆の深淵へ運ばれてしまうぞ……」
『二時間? 冗談じゃねえ、そんなに待たせるつもりはない。今すぐ横浜を出る』
少年の声の裏で、重厚なモーターの駆動音が甲高く唸りを上げた。
『俺が着くまでに、病院の地下倉庫にある予備のサーバーユニットと、今送ったリストの機材を裏口に揃えておけ。いいか、サクラを助けるにはネットワークからの干渉だけじゃ足りない。物理的な鍵も必要なんだ!』
「しかし、どうやってこの距離を……」
物理法則と交通網の限界すらも無視しようとする少年の無謀さに、託次は思わず声を漏らす。
『なる早の限界を、俺が書き換えてやる』
タケルは言い放った。それは常識も、距離も、権力をもねじ伏せるという、世界への強烈な宣戦布告だった。
『あんたは、父親としての仕事をしろ。諦めるのは、俺たちが死んでからにしろよ!』
プツン、と通信が切断された。
あとに残されたのは、静まり返った部屋と、次々と託次の端末へ弾き出されてくる膨大な機材リストのデータだけだ。
託次は一瞬だけ目を閉じ、深く、熱い息を吸い込んだ。そして目を開いた瞬間――彼は己に課していた十年の枷である白衣を、無造作に脱ぎ捨てた。
彼はもはや、政府の顔色を伺う臆病な臨床工学技士ではない。愛する娘を救い出すため、世界という名の巨大な檻を内側から食い破りに行く、一人の反逆者だった。
「待ってろ、サクラ。お父さんが、今行く」
託次は整備バッグを力強く掴むと、静まり返った特別病棟の廊下を、疾風のような足取りで走り出した。
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