第二十二章 利用された防壁
深夜の長泉総合病院。静まり返った部屋で、モニターの青白い光だけが天見託次の疲労が滲む顔を照らし出していた。画面の向こうで居丈高に振る舞う権力者の顔を見据え、託次は重く、深いため息をついた。
「米崎さん、何度も言いますがあの子は駄目です。HEHRは目を通されていますよね?」
託次は手元のキーボードを素早く叩き、チャットツールにサクラのHEHR番号を入力する。送信の電子音が部屋に響いた。
モニター越しの米崎――国家の最高権力に連なる総理秘書官――が、送られたカルテの数値を食い入るように覗き込む。特権階級特有の貪欲な期待が、たちまちのうちに失望と苛立ちに染まり、血の気が引いたような灰色の表情に変わったのが手にとるように分かった。
「ご覧の通りヘブン適合率が著しく低い。あの子はヘブンでは暮らせないのですよ。どうか諦めてください」
託次は淡々とした口調で告げた。あの子を権力の魔の手から絶対に守り抜くという強固な意志を、あくまで臨床工学技士としての冷徹な医学的事実として突きつける。
「チッ。再利用不可のポンコツが」
米崎は、一人の少女の命をただの代替部品としか見ていない醜悪さを隠そうともせず、忌々しげに吐き捨てた。その言葉に託次の奥歯がギリッと鳴ったが、彼は表情筋に微かな波風すら立てなかった。怒りを見せれば、彼らの盾としての役割に綻びが生じるからだ。
「ご要望にお応えできず申し訳ありません。では失礼します」
事務的な定型句を口にするや否や、託次は相手の怒声が飛んでくる前に通信を一方的に遮断した。
プツン、という音と共にモニターが暗転し、米崎の醜い顔が消え去る。黒く沈んだ画面に映り込んだ自分の顔を見つめながら、託次はようやく、安堵の息を吐き出し、強張った筋肉を解きほぐそうとしたその瞬間だった。
突如として、託次の構築した強固なローカルネットワークが、外部からの不可視の力によって物理的に捻じ伏せられた。
警告音が鳴るはずだった。だが、端末のセキュリティ・アラートが真っ赤に点滅するよりも早く、画面は強制的に黒く塗り潰される。技術者として彼が命を削って組み上げたはずの防壁は、アラートを上げる暇すら与えられないほどの圧倒的な権限によって、音もなく完全制圧されていた。
漆黒に沈んだモニターの中央に、一つの映像がゆっくりと浮かび上がる。
『無能な秘書官を騙せたからといって、安堵するのはまだ早いですよ。天見託次くん』
ノイズ一つないクリアな音声。画面の向こうで、最高級のテーラードスーツに身を包み、薄暗い執務室の革張りチェアに深く腰掛けている男。
モニターに映し出されていたのは、テレビで見せるような国民向けの仮面ではない、底知れぬ狂気を孕んだ慈愛に満ちた笑みを浮かべる現総理――柿枝改二その人だった。
「か、柿枝総理!? なぜ、あなたが直接……」
信じられないものを見るかのように、託次の声がひっくり返った。一国の最高権力者が、一介の臨床工学技士のプライベート回線を直接ハッキングしてくるなど、常軌を逸している。
『君は、その生真面目さと歪んだ親愛の情で、サクラを不良品として守り通したつもりだろう? だが、長泉総合病院の元院長が私の主治医である時点で、君の必死の工作は、最初から私への進捗報告書に過ぎなかったんだ』
「なっ……!」
託次の顔から、完全に血の気が引いた。
全身の毛穴が一気に開き、心臓が冷たい手で鷲掴みにされたような悪寒が走る。
長泉良朗――かつて里村から自分を託され、人間として育ててくれた恩人であり、この病院の元院長。サクラを悪意から遠ざけるための最強の防壁だと思っていたこの場所そのものが、最初から総理の掌の上にある鳥籠だったのだ。
絶句する託次を眺めながら、柿枝はモニター越しに冷酷な美しさを湛えた笑みを深めた。その瞳には、彼らが必死に守り抜いてきた命への敬意など微塵もない。
『不老不死のドキュメントという、世界を滅ぼしうる毒を、政府の不細工なデータベースに置くわけにはいかない。君という、この上なく誠実で執念深い父親の愛が、あの子を世界で最も安全な、そして無料の金庫に変えていた。感謝しているよ』
その言葉は、託次の魂を根底から叩き割るには十分すぎるほどの破壊力を持っていた。
彼が血を吐くような思いで構築してきた絶対防壁。サクラを愛し、守りたいと願った親としての痛切なまでの愛情。そのすべてが、この男にとっては、最悪のデータを隠すための都合の良い金庫として利用されていたのだ。愛すれば愛するほど、守れば守るほど、柿枝の目論見通りに金庫の扉は分厚くなっていたという残酷な事実。
「き、貴様ぁっ!」
託次は血を吐くような怒声を上げ、モニターに向かって手を伸ばした。だが、彼にできることなど何一つ残されてはいなかった。
『さあ、宴の準備だ。豚どもを招くための、最後のご馳走を伊豆へ運ぼう』
柿枝が愉悦に満ちた声でそう告げると同時に、プツン、と通信が一方的に切断された。
再び黒く沈んだモニターに、己の無力な顔が映り込む。
自分が命を削って構築してきた防壁が、最初から権力者の足元で踊らされていた泥遊びに過ぎなかったという圧倒的な絶望。
「あ、あぁ……」
託次は糸が切れたようにデスクチェアの背もたれに体を預け、空気を求めて浅く、乾いた息を呑んだ。柿枝からの通信が切れ、死に絶えたような重苦しい静寂が部屋に降り積もった直後だった。その絶望の余韻を物理的に叩き割るように、バンッ! と部屋のドアが乱暴に開かれた。
「天見さん! サクラさんが見当たりませんが、こちらに来られていますか!?」
血相を変えた夜勤の看護師が、激しく息を乱しながら駆け込んでくる。普段の静謐な深夜の病院には絶対に響くはずのない、切羽詰まった悲鳴のような声だった。
「なんだと!? くそっ、柿枝の奴、もう手を……!」
先ほどまで絶望にへたり込んでいた託次の体に、強制的なアドレナリンが沸き上がる。
彼はデスクチェアを後方へ激しく蹴り倒すような勢いで立ち上がった。ガシャン、とキャスターが床を擦り、倒れた椅子が鈍い音を立てる。
「急いで守衛室に行って、すべての監視カメラをチェックして貰ってくれ! 外部の車両の出入りもだ、早く!」
「は、はいっ!」
託次の鬼気迫る怒号に、看護師は弾かれたように踵を返し、白っ茶けた廊下へと飛び出していった。バタバタと遠ざかっていくパニックの足音を聞きながら、託次はギリッと血が滲むほど奥歯を噛み締めた。
十年間。ただの一秒も欠かさずHEHRの数値を偽装し、己の神経をすり減らし、泥を這うようにして築き上げてきた彼女を守るための防壁。世間の悪意から彼女を隠し通すための、透明で完璧な檻。
それが、あまりにもあっけなく、一国の総理という絶対的な権力によって暴力的にこじ開けられたのだ。安全圏だと思っていたこの病院そのものが、最初から敵の掌の上だったという残酷な事実。
(サクラ!)
あの子を奪われた。その取り返しのつかない事態と己の無力さを前に、託次の理知的な精神は、足元から這い上がってくる底なしの深い泥のような絶望へと急激に沈み込む。しかし、意識を無理やり繋ぎ止め、デスクの上に放り出されていた自身のスマートフォンへと震える手を伸ばした。
警察に通報すべきか、それとも別のツテを頼るべきか。思考がまとまらないまま、とにかく画面に触れようとした、その瞬間だった。
指先が触れてもいないスマートフォンの画面が、先ほどのPCと同様に不気味な漆黒に染め上げられた。
だが、今回は違う。着信音すら鳴る隙を与えず、システム権限を外側から強引に叩き割るような、荒々しく暴力的な挙動。それは柿枝が使った洗練された政府のスマートな制圧とは対極にある、泥臭くも強烈な割り込み処理だった。
強制的にスピーカー状態となった端末から、息を切らしたような声が響き渡る。
『親父さんだな? あんたの娘が攫われたぞ!』
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