第五章 逡巡の自省
風が変わっていた。
南から北へ向かって吹く、秋の終わりの風だ。草が倒れて、また立つ。その繰り返しを、彼は歩きながら見ていた。
街道を、どのくらい歩いたか。
日が傾いて、また上がった。雨が降って、上がった。町を二つ過ぎた。一つ目の町では荷運びをして、二つ目の町では何もしなかった。何もしなくても、次の朝は来た。
今日も歩いている。
小さな村があった。
街道から少し外れた場所に、十軒ほどの家が集まっている。彼は村の端の、石垣の脇に座った。
空が広かった。木がない場所だから、空だけがある。雲が遠くにある。風が通っていく。
彼は何も考えなかった。
正確には、考えようとしなかった。考えようとすると、何かが来る気がした。何かが来る前に、少し待ちたかった。
村の中から、子供の声がした。遊んでいる声だ。何を言っているかは聞き取れなかった。声だけが来て、また遠くなった。
彼は石垣に背を預けた。
住人たちのことを、ぼんやりと考えた。
マリア。水場の列に並ぶ人々。老いた女。桶を持って、石畳のでこぼこを避けながら、毎日水を運んでいる。
彼らは戦っていない。
水が遠いことに、怒っていない——少なくとも、表に出ていない。ただ、毎日そこにいる。そこにいることに、理由がない。理由が必要だとも、思っていない。
その事実が、石垣の脇に座っている今になって、妙に静かに響いた。
冬が来ていた。
草原が枯れて、街道の脇に霜が降りていた。
ある朝、小さな丘の上に立っていた。どこで曲がったのか、記憶にない。ただ気がつくと、丘の上にいた。
見晴らしがよかった。遠くに山脈がある。この世界に来た最初の日に見た山脈と、同じかどうかわからない。似た形をしていた。
彼はその景色を、しばらく見た。
なぜ動くのか、という問いが、また来た。
この世界に来てから、ずっとその問いを立てていた。なぜ動くのか。何のために動くのか。それが正しいのか。図書館でガレスに記録を見せてもらいながら。石を動かしながら。プロセスが動き始めたと知りながら。
前期転生者も同じだった、と思った。
手記の言葉が来た。「怒りが足を動かした、としか言えない。」「これで合ってるかどうか、正直わからない。でも、動かさないよりマシだと思う。」
常に何かと戦い、何かを変えることで次を作ってきた人間の、筆跡だった。その姿勢を、自分も丸ごと引き受けていた。
引き受けていた——気がついてみれば、そうだった。
気づいた瞬間があったわけではない。ただ、丘の上に立って景色を見ていたら、気がついてみれば、気づいていた。
冬の終わりに、彼は小さな川のそばで、熱を出した。
川べりに倒れて、そのまま動けなくなった。誰も来なかった。川の音だけがあった。
彼は川の水を飲んだ。飲んでは横になり、また飲んだ。夜が来て、朝が来た。その繰り返しをいくつかやった。
二日目の朝か、三日目の朝か——気がつくと、川べりの地面に何かがあった。
木の器だった。水が入っていた。まだ冷たかった。
誰かが、最近置いていった水だった。
見回しても、人の気配はなかった。川べりに足跡がいくつかあったが、すでに乾いていた。名前もわからない。顔もわからない。ただ、水だけがそこにあった。
彼はその器を手に取った。
冷たかった。
水を飲んだ。
熱の中で、いくつかのことが浮かんだ。浮かんでは消えた。
老婆の顔。「変えた」という言葉の後の、沈黙。
手記の余白。「これで合ってるかどうか、正直わからない。でも、動かさないよりマシだと思う。」
子供の声。「水、まだ来てないぞ。」
マリアの背中。角を曲がって、見えなくなった。
それから——転生前の自分の部屋が来た。
カーテンが少し開いていた。夜中の街灯の光が入っていた。ホワイト企業だった。残業がなかった。上司との軋轢がなかった。ノルマもなかった。
それでも何かと戦っていた気がする。
何と戦っていたのか。
思い出せなかった。戦う対象ではなく、戦わなければという感覚だけがあった。何かをしなければという感覚がぼんやりと続いていた。何かをしなければと思いながら、何もしないまま朝になる夜が、いくつかあった。
この世界に来ても、同じだった。
銅像を見たとき。老婆の話を聞いたとき。手記を読んだとき。石を動かしたとき。プロセスが動き始めたとき。
ずっと問い続けていた。これは意味があるのか。自分はここに立てるのか。何かを残せるのか。
その問いは——転生前から、ずっとあったものだった。
異世界に来ても消えなかった。消えないまま、前期転生者の痕跡を辿った。戦う対象がなかったから、対象を探した。
水路が、その対象になった。
では、水路に関わったのは、対象を探した結果だったのか。
違う、と思った。
水路に関わったのは、子供の桶が頭から離れなかったからだ。
それは本当だった。対象を探していたからではなかった。子供の桶が、頭から離れなかった。それだけだった。怒りでも、使命感でも、誰かに認められたいという欲求でもなかった。ただ、頭から離れなかった。
その動機は、戦うための動機ではなかった。
戦うための動機ではないのに、動いた。
だから、小さかった。最初から、小さくて当然だった。
熱が下がったのは、川の音が変わった日だった。
水量が増えていた。遠くで雪が溶け始めているのかもしれない。春が来ていた。
彼は川べりに座って、流れを見た。澄んでいた。冷たかった。水に手を入れると、指が痛くなった。それでも、きれいな水だった。
あの町でも今ごろ、同じように春の水が増えているかもしれない。水場に列ができているかもしれない。子供が桶を持って並んでいるかもしれない。
知る方法はなかった。
木の器は、まだそこにあった。誰が置いていったのか、わからなかった。わからないまま、器はそこにある。
彼はその器を手に取って、川べりに戻した。
次に誰かがここに来たとき、使えるように。
それだけのことだった。大きな理由はなかった。ただ、そうした。
彼は立ち上がった。体がまだ少し重かったが、立てた。
荷物をまとめた。大した荷物ではなかった。
街道の方向を確認した。どちらに行くかを、少し考えた。
考えながら、手のひらを見た。
荒れていた。荷運びをして、石を動かして、川べりで濡れていた。それだけのことが、手に残っていた。
残る、ということがある。
名前は残らない。記録には旅人とだけ書かれるかもしれない。しかし、手の荒れは残る。子供の桶の重さを知っている、ということが残る。夜明けに四人で息をしていたことを、知っている。
それは取り消せなかった。
戦うためではなかったから、小さかった。小さかったが、取り消せなかった。
その二つが、今はじめて、同じことのように思えた。
春の光が、街道に当たっていた。
草が芽吹き始めていた。冬の間は枯れていた草が、また緑になろうとしている。まだなりきれていない。中途半端な緑が、街道の両脇に続いていた。
彼はその中を歩いた。
ある村の手前で、子供が道端に座っていた。膝を抱えて、街道の先を見ている。旅人を待っているのではない。ただ、座っている。
彼は通り過ぎようとした。
子供が顔を上げた。目が合った。
子供は特に何も言わなかった。彼も何も言わなかった。
通り過ぎた。
通り過ぎてから、少しだけ振り返った。
子供はまた街道の先を見ていた。何を見ているのか、わからなかった。ただ、座っていた。そこにいることに理由がない座り方で。
彼は前に向き直って、また歩いた。
夕方、街道の脇の木の根元に座った。
空が赤くなっていた。遠くの山の頂が、その赤の中に溶けていた。
手のひらを見た。
荒れたままだった。
空が暗くなっていった。赤が消えて、青くなって、黒に近づいていった。その変化を、彼は見ていた。
星が出た。
この世界の星座は、転生前の世界とは違う形をしていた。最初の夜から、違う形をしていた。違う形のまま、ずっとそこにあった。
夜中に目が覚めた。
木の根元の土が冷たかった。春だったが、夜はまだ冷える。
川の音が遠くに聞こえた。どこかに川がある。
彼は空を見た。
問いが来なかった。
なぜ動くのか、という問いが来なかった。何のために動くのか、という問いも来なかった。
ただ、空があった。星があった。どこかに川があった。
木の器のことを思い出した。
誰が置いていったのかわからない器を、誰かのためにそこに戻した。それだけのことだった。そのことの意味を、問わなかった。
問わなかった、と気づいたのは、今だった。
朝が来た。
霧が出ていた。街道が霧の中に消えていた。どこまで続くのか、見えなかった。
彼は立ち上がった。荷物をまとめた。
霧の中に入った。五歩先が見えなかった。しかし足元の道は確かだったから、歩けた。
霧の中を、歩いた。




