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スライム亡き後の異世界で  作者: 深海周二


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第四章 吸収される

 数日後、ガレスから人を呼ばれた。

 図書館に行くと、老人の向かいに見知らぬ男が座っていた。四十代、体格がよく、服の質が良い。町の行政か、あるいは商業組合の人間に見えた。

 「水路の件だ」とガレスは言った。

 「この人が話を聞きたいと言っている」

 男は彼を見た。値踏みする目ではなかった。ただ、確認する目だった。

 「先日、城壁外縁の構造物に手を入れたそうですね」

 「はい」

 「許可なく」

 「行政窓口に行きました。担当者が奥に入ったまま、戻ってこなかったので、そのまま出ました」

 男はそれを聞いて、少し間を置いた。

 「管理台帳を確認しました。あの構造物は、百年前の議会で否決された延伸工事の残件として、未処理のまま記録されていた。正確には、記録されていたが、誰も担当していなかった」

 「はい」

 「今回、あなたが石を取り除いたことで、存在が確認された。それ自体は問題ない。ただ——」

 男は書類を一枚取り出した。

 「水路への接続については、行政の許可と工事が必要です。接続口が生きていることは確認できた。次のステップとして、正式な調査と費用試算を行います」

 「いつ頃になりますか」

 「調査の申請を出して、委員会が設置されます。費用試算を含む報告書が作られる。そこから議会の審議に入ります。早ければ、来年の春には結論が出るかもしれない」

 「来年の春」

 「早ければ、です。優先度の問題がありますので」

 彼はその言葉を聞いた。来年の春。今は秋の入り口だ。

 「その間、何かできることはありますか」

 「あなたが?」

 「はい」

 男はまた間を置いた。

 「特にはありません。プロセスが動いている間は、個人が手を出すと混乱の原因になります」

 それだけ言って、男は書類をまとめた。

 「ただ」と男は言った。

 「先日の行動には感謝しています。あの構造物の存在が確認されたことで、調査を始められた。それはよかった」


 その日の夕方、水路の脇に行った。

 マリアはいなかった。

 彼は水路の脇に座って、水の流れを見た。変わらず流れていた。澄んでいた。設計通りに機能している水が、設計通りの経路を、設計通りの速度で流れていた。

 南の区画には、今日も届いていない。

 プロセスが動いている。来年の春には結論が出るかもしれない。早ければ。

 その言葉が、どこかに引っかかった。引っかかったが、どこに引っかかっているのかわからなかった。

 翌日、南の区画に行った。

 水場に子供はいなかった。朝ではなかったからかもしれない。

 水場の脇に、老いた女が桶を持って立っていた。水を汲み終えて、桶を持ち上げようとしているところだった。桶は重そうだった。老いた手で持つには、重すぎるかもしれなかった。

 「持ちましょうか」と彼は言った。

 女は彼を見た。旅人だとわかると、少し考えてから頷いた。

 彼は桶を持って、女の後を歩いた。

 「水路の話は聞きましたか」と彼は言った。

 「延伸の調査が始まるかもしれない、という話を」

 「マリアから聞いた」と女は言った。

 「よかったと思いますか」

 女はしばらく黙って歩いた。

 「どうだろうね。前にも似たような話があった。わたしが若い頃」

 「調査が行われたんですか」

 「話が出た、という程度だ。結局、何も動かなかった。費用の問題だとか、優先度の問題だとか。気がついたら、誰も話していなかった」

 彼は桶を持ったまま歩いた。

 「今回は違うかもしれません。構造物の存在が確認されているので」

 「そうでないかもしれない。どちらでも、わたしはこうして水を汲む」

 家の前まで来た。彼は桶を地面に下ろした。

 「ありがとう」と女は言った。

 「旅人が親切にしてくれることは、滅多にない」

 それだけだった。


 夜、宿に戻って、天井を見た。

 プロセスが動いている。感謝している。来年の春には結論が出るかもしれない。

 そういうこともある、として制度に組み込まれ、消えていく——設計書の余白の言葉ではなく、ガレスの言葉だった。いや、ガレスの言葉でもなかった。彼自身がどこかで読んだか、聞いたか。どこだったかもわからない。

 ただ、その形が今、自分に起きていた。

 妨害されたわけではない。否定されたわけでもない。感謝された。プロセスが動き始めた。それは本当のことだ。

 しかし——。

 石は外にある。接続口は開いている。水はまだ来ていない。

 来年の春。早ければ。

 彼は目を閉じた。眠れなかった。眠れないまま、朝になった。


 数日が経った。

 彼は荷運びを続けた。町の外縁を歩いた。図書館に寄った。ガレスは昨日と同じ場所に昨日と同じ姿勢で座っていた。それだけが変わらなかった。

 ある朝、南の区画に向かうと、あの子供が水場にいた。

 いつもと同じように、桶を持って並んでいた。いつもと同じように、桶に水を汲んで、歩き始めた。

 彼は少し距離を置いて、後を歩いた。

 子供は途中で止まって、振り返った。

 「また来たのか」

 「はい」

 「何しに」

 「特にないです」

 子供は少し彼を見て、また歩き始めた。

 家の前で桶を置いて、中に向かって何か言った。それから彼を振り返った。

 「水路の話、聞いた。調査が入るって」

 「はい」

 「来年になるって言ってた。お前がやったのに、お前には関係ないのか」

 「関係なくはない、と思います。ただ、俺にできることは、もうあまりないかもしれない」

 子供は桶を持ったまま、少し考えた。

 「ふうん」

 それだけ言って、家の中に入った。

 彼はその場に立っていた。

 関係なくはない、と言った。それは本当だった。しかし、できることがあまりない、というのも本当だった。

 両方が本当だった。


 その翌日、ガレスのところに行った。

 老人は本を読んでいた。顔を上げた。

 「行政の件は、進んでいますか」

 「プロセスが動いている」とガレスは言った。

 「調査の申請が受理された。春には報告書が上がるはずだ」

 「春に報告書が上がって、それから」

 「議会の審議が入る。予算が確保されれば、工事の入札になる。工事が終わって、接続が完了する。水が流れる」

 「どのくらいかかりますか、全部で」

 ガレスは少し考えた。

 「順調に進めば、三年か四年」

 「三年か四年」

 「それが制度というものだ」とガレスは静かに言った。

 「早くはない。しかし、動いている」

 彼は老人を見た。

 「ガレスさんは、これでいいと思いますか」

 老人は本を閉じた。

 「いい、というのは、どういう意味で聞いているのか」

 「俺がやったことが、意味があったかどうか」

 ガレスはしばらく黙った。

 「あの構造物を発見したのはあなただ。調査が始まったのは、あなたが石を動かしたからだ。三年か四年後に水が流れるとすれば、その始まりはあなただ」

 「でも、俺はいない」

 「そうだな」とガレスは言った。

 「旅人だから」

 「違います」と彼は言った。

 ガレスは彼を見た。

 「違う、というのは」

 「いるかいないか、ではなく——俺がやったことが、俺のやったこととして残るかどうか」

 老人はしばらく彼を見た。眼鏡を直した。それから言った。

 「残らない」

 静かに、しかし明確に言った。

 「記録には、調査の申請者として行政担当者の名前が残る。報告書には、構造物発見の経緯として旅人が石を取り除いた、と書かれるかもしれない。しかし名前はない。三年か四年後に水が流れるとき、住人はその旅人のことを覚えていないかもしれない。覚えていたとしても、名前を知らない」

 彼は何も言わなかった。

 「あなたは、それが嫌ですか」

 考えた。

 「わかりません」と彼は言った。

 「嫌かどうか、まだわからない。ただ——何かが、違う気がします」

 「何が違うのか」

 「自分でも、わかりません」

 ガレスは本を開いた。それから、本を開いたまま言った。

 「前期転生者も、同じことを書いていた」

 「手記にですか」

 「そうだ。制度を作った後、その制度が自分のものではなくなっていく感覚を書いていた。作ったのは自分だが、動かすのは制度だ。制度は作った人間を必要としない。それが少し寂しい、と書いていた。寂しいと書くことが弱く見えるかもしれないが、事実だから書く、と」

 彼はその言葉を聞いた。

 「その感覚は、どうしましたか。前期転生者は」

 「手記には続きがない。ただ、次の記録では別の制度を作り始めていた。寂しいまま、また動いていた」

 それだけだった。


 次の日の朝、南の区画に行った。

 マリアが水場にいた。桶を持って帰るところだった。

 彼は横に並んだ。

 「調査が始まった、と聞きました」

 「聞いた」とマリアは言った。

 「三年か四年かかるかもしれない、と」

 「そう言っていた」

 「よかったですか」

 マリアは少し歩いてから、止まった。彼も止まった。

 「正直に言う」とマリアは言った。

 「よかったかどうか、まだわからない。前に話が出たとき、何も動かなかった。今回は動いている。それはわかる。でも——」

 マリアは桶を持ち直した。

 「あなたが来る前と、あなたが来た後で、わたしたちの朝は変わっていない。今日も水を汲みに来た。明日も来る。三年か四年後に水が来れば、それは変わるかもしれない。でも今は変わっていない」

 「はい」

 「あなたは何かを変えようとした」とマリアは言った。

 「それはわかる。ただ——変わるかどうかは、あなたが決めることじゃない。制度が決める。時間が決める」

 それだけ言って、マリアは歩き始めた。

 彼はその背中を見た。

 マリアは振り返らなかった。角を曲がって、見えなくなった。


 その夜、宿の窓から星を見た。

 あの夜と同じ星座だ。変わらず出ていた。

 何かが変わった、という感触はなかった。

 何かを変えた、という感触も、薄れていた。

 石は外にある。それは事実だ。接続口は開いている。調査が始まった。プロセスが動いている。

 しかし——。

 プロセスが動いている間、自分は何をするのか。

 答えがなかった。答えを探す気力も、少し薄れていた。薄れていた、というのが正確かどうかわからない。ただ、以前よりも問いが小さくなっていた。

 いや、問いが小さくなったのではない。

 問いが、どこか遠くなった。自分の問いだったはずのものが、制度のプロセスに渡った後、自分のものではない何かになっていた。

 前期転生者の手記の言葉が来た。

 「制度は作った人間を必要としない」

 そういうことか、と思った。

 思ったが、それが正しいのかどうかわからなかった。

 なぜなら——制度を作ったのは彼ではない。石を取り除いただけだ。それだけだった。それだけのことが、今、プロセスに組み込まれて、動いている。

 感謝された。記録された。動き始めた。

 それは良いことのはずだった。良いことだと思った。思いながら、なぜか、薄暗い部屋の中で、窓の外の星を見ていた。


 翌朝、子供に会った。

 路地の角で、子供は立っていた。桶は持っていなかった。

 「水路の話、進んでるってマリアさんが言ってた」

 「はい」

 「お前は、まだここにいるのか」

 「まだいます」

 子供は少し考えた。

 「なんで」

 「わかりません」と彼は言った。

 「行くところがないのか」

 「そういうわけでもないです。ただ——まだここにいる気がする」

 子供はまた少し考えた。

 「ふうん」

 それだけ言って、路地の奥に走っていった。

 彼はその後を見た。

 なんで、と子供は聞いた。

 わからない、と答えた。それは本当だった。行くべき場所が決まっていないわけではなかった。ただ、ここを離れることが、まだできなかった。

 できなかった、というより——離れていいかどうか、判断がついていなかった。

 何かをしたかどうか、まだわかっていないのに、去るのは早い気がした。

 しかし、何かをしたかどうかは、三年か四年経たないとわからない。

 その間、ここにいるのか。

 答えが出なかった。


 数日後の夕方、水路の脇に行くと、マリアがいた。今日は縫い物を持っていなかった。ただ座って、水を見ていた。

 彼は向かいに座った。

 しばらく、水の音だけがあった。

 「あなたは、いつまでここにいるつもりですか」とマリアが言った。

 「わかりません」

 「旅人は、行くものだ」

 「そうです」

 「引き止めているわけじゃない」とマリアは言った。

 「ただ——あなたがここにいる理由が、もうなくなっている気がする」

 彼は水路を見た。

 「水路のことは、制度が動いている。あなたがここにいなくても、プロセスは進む。南の区画の人間は、三年か四年、今まで通り水を汲む。あなたがいても、いなくても、それは変わらない」

 「はい」

 「だから——」とマリアは言いかけて、止まった。

 「言いにくいことですか」と彼は言った。

 マリアはしばらく水を見た。

 「言いにくいわけじゃない。ただ、正確に言いたいと思って」

 少し間があった。

 マリアは立ち上がった。

 「旅人は、行くものだ」

 それだけ言って、歩き始めた。

 彼はマリアの背中を見た。

 今度は、すぐに見えなくなった。


 その夜、荷物を整えた。

 大した荷物ではなかった。この町に来たときと、ほとんど変わらなかった。増えたものも、減ったものも、ほとんどなかった。

 翌朝、宿を出た。

 宿の主人は何も言わなかった。旅人が去るのは、いつものことだからだ。

 町の外縁を通った。水路の脇を通った。マリアはいなかった。まだ朝が早いからかもしれなかった。

 城壁の外縁に向かった。

 あの構造物の前に来た。

 扉は閉まっていた。錆びた扉のままだった。外には、あの日取り除いた石が積まれていた。風雨にさらされて、少し動いていたが、ほとんどそのままだった。

 彼は積まれた石を見た。

 雨が降れば濡れる。晴れれば乾く。誰かが片付けるかもしれない。誰も片付けないかもしれない。三年か四年後に工事が入れば、その時に片付けられる。それまでは、ここにある。

 石は外にある。

 それだけが、確かだった。

 彼は城壁に沿って歩き始めた。城門に向かって。城門を抜ければ、街道がある。街道を進めば、別の町がある。別の町に、何があるかはわからない。

 ただ、歩いた。

 城門を出る前に、一度振り返った。

 町の輪郭が見えた。石造りの建物が並んでいる。整然としている。前期転生者が設計した制度が、今日も機能している。南の区画では、今ごろ水場に列ができているかもしれなかった。子供が桶を持って並んでいるかもしれなかった。

 彼はそれを見た。

 それから、城門を抜けた。

 街道に出た。

 風が来た。草の匂いがした。この世界に来た最初の日と、同じ匂いだった。

 彼は歩いた。振り返らなかった。

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