終末の日曜日
『皆さんおはようございます。本日は世界滅亡当日となります。悔いのない幸せな良い日曜日を。それではさようなら』
狭間進歩は夢を見た気がする。中止になったはずの社会科見学のバスに乗った記憶だ。
自分の視点で見ているはずなのに、自分の顔が鏡合わせのように確認できた。確か隣には花山静香が座っていた。
その花山静香の後ろ頭も視認して、それでは一体この夢の視点は誰のものなのだろうかと疑問が襲う前に、目が覚めた。
最後の日曜日。来週の予定はぎゅうぎゅう詰めで、夏休みも残り僅かなのに宿題も終わっていない。
それら全ては今日の終末を迎えたら意味がなくなる。失ってしまう。狭間進歩は宿題以外は失いたくなかった。
花山静香とゆびきりげんまんまでした約束、海林厚樹の救済、流川綺羅と実畑八雲のデート成功、ニャルカさん最新刊読破。
ずっと幸せな日々が続けばいい。続けるには終末を覆すしかない。
どこかの漫画の主人公のような、無謀な逆転劇に狭間進歩は挑むことにした。
指定されたバスの中で一番後ろの五人座席で狭間進歩はいつもの面子と顔を合わせていた。
左から流川綺羅、花山静香、狭間進歩、海林厚樹、実畑八雲という順だ。
どこかで見た覚えのある座席順だと思いつつ、予定通りの位置に座って、中央エリアの宇宙エレベーターへとバスが動き出す。
空を超えて宇宙まで届いてしまった塔は神様に壊されることなく伸びきっていた。
見上げていた実畑八雲があまりの高さに首を痛めてしまうほどだ。これだけの高さならNYRONのどこにいても見えてしまうだろう。
前の時計塔では鐘の音を街中に届けられても、その姿を誰かに見られることはなかっただろう。
バスガイドの案内に付き従って狭間進歩はビルのような構造の建物に足を踏み入れる。
海林厚樹は青い顔をしていて、花山静香が心配そうに何度も声をかけている。流川綺羅は土産物屋に既に目を輝かせていた。
観光用エレベーターで十階まで一気に浮き上がって、眼下に広がる街の景色に感嘆の声を上げようとして、狭間進歩は絶句した。
NYRONの街、それ以外の部分が黒く消失していた。そして黒は少しずつ街を呑み込み始めていた。
バスガイドの女性はにこやかな笑顔で赤い唇で弧を描きつつ、無線マイクで綺麗な声を大きくして説明を始めた。
『あちらに見えますが終末の証明です。本日は世界の終末、それを最後まで眺められる幸せに皆さん、拍手を』
そしてバスガイドの女性一人が乾いた拍手を打つ。しかし次第に拍手は広がっていく。
異様な事態に狭間進歩は信じられなかった。なんで誰も絶望しないのだろうか、全てを呑み込む黒を見て、誰も動揺しない。
むしろ幸せなまま終末を迎えることに、最後に死ぬことが幸せのように受け入れていた。
海林厚樹の顔を見てみれば、明らかに怯えて、それでも見飽きていたのかまっすぐと終末が具現化したような黒を眺めている。
花山静香や実畑八雲はバスガイドと同調するように拍手をしていた。そして違和感に気付く。
流川綺羅の姿がどこにもない。いつの間にか五人は四人になっていた。
拍手と笑顔で埋め尽くされる十階の円形フロアで、狭間進歩は首を左右に動かして探す。
なんでこのタイミングで流川綺羅はいなくなるのか。なぜ宇宙エレベーターで主人公が必要になるのか。
沸き上がる予感、覚えのある席順、今日見た夢の視点を思い出して、狭間進歩は吐き出しそうになる。
あの夢の視点は、流川綺羅の物だった。なんで最後の最後に気付くしかなかったのか。
海林厚樹の手を無理やり引っ張って、実畑八雲と花山静香を置いて流川綺羅を探し始める。
今は西洋人形のアンドールや青い西洋竜のアンドールも、その持ち主である少年少女も気にならなかった。
自分が主人公として、終末を覆す。新しい月曜日じゃない、今日の延長である来週の月曜日を迎えるために。
無意識にスタッフだけが使えるエレベーターに乗り込んで、十三階のボタンを押す。
何故かこうしなければいけなかった気がしたからだ。だが海林厚樹は怪訝な目で狭間進歩を見ている。
億単位と一週間を繰り返した海林厚樹は、それとほぼ同じ回数宇宙エレベーターに来た。
何度も幸せのまま拍手して終末に呑み込まれていく人々を見た。もう諦めるしかないのかと俯いてきた。
だから知らない。スタッフ用のエレベーター、その十三階に何があるのか。前に主人公が必要と教えてくれた人物は知っていたのだろうか。
その人物を思い出して海林厚樹は背筋を凍らせた。この一週間、狭間進歩と出会った一週間。
主人公の存在を教えてくれた人物に、一度も会っていない。
億単位の繰り返し、その最中で知らず知らずに消えていく人達。その法則性を海林厚樹は掴めなかった。
だからずっと不安に怯えて、同時になんで自分は消えなかったのだろうと疑問を抱えたまま、解決しないまま走り続けていた。
その答えが狭間進歩と向かう先の十三階にある気がして、海林厚樹は逃げ出したくなった。
でも、逃げられる場所はない。もう終末は目に見える範囲で迫ってきているのだから。
十三階。暗い、近未来のような電子の光が壁を走る構造の黒い部屋。
中央には太い円柱の形したマザーコンピュータらしき機械が玉座のように鎮座している。
その頂点には保存溶液が満たされたガラスケース、内部には一個の人間一人分の平均的な大きさの脳味噌。
緑色の溶液に光を当てているせいか、生々しく脳味噌の皺の一つ一つが鮮明に見えた。
海林厚樹は思わず手で口許を押さえていた。しかし狭間進歩は覚束ない足取りで機械に近づく。
「……綺羅?」
脳味噌に向かって、狭間進歩はそう呼びかけた。確信はなかった、でも頭の全てがそれを流川綺羅だと指差している。
返事するように壁を走る光が集まり、YESと形作る。海林厚樹は首を左右に振って、信じられないと一歩二歩と下がっていく。
もちろん狭間進歩だって信じられなかった。いや、信じたくなかった。つまり狭間進歩が主人公として救うヒロインは脳味噌の流川綺羅ということなのだ。
どうやって救うのか想像もつかない、というより可愛い女の子らしい服を着た流川綺羅はどこにいったのだ。
来週の水曜日には実畑八雲とデートする約束をして、花山静香と女の子らしい会話をする、どこにでもいる少女の姿がこの部屋にはない。
頭が混乱する。なにもわからない、なにもわかっていない。なにも、知りたくなかった。
ただ敵がいて、それを倒せば終わりだと狭間進歩は思い込んでいた。ゲームだったらそれが正解だ。
しかし狭間進歩の立っている世界はゲームによく似た、だがゲームではない世界だ。
都合のいいコンティニューもリスタートもない。スタートボタンを押した先はエンディングかゲームオーバーか。
そもそもゲームオーバー以前の問題かもしれない。世界自体が終わりを迎えてしまうのだから。
壁に走る光が次々と文字を浮かび上がらせていく。
筆談するような、でもどこか独り言めいた聞かせるだけの言葉。
今回は進歩と厚樹が助けに来てくれたんだね。
でも助けないで。アタシはこの世界で幸せなまま終われたらそれでいいの。
誰だって明日世界が終わるとしたら、大切な人の傍にいて幸せなまま終わりたいって思うでしょう。
そういうことなの。来週なんていらない、この幸せな一週間を繰り返そうよ。
大丈夫、二人の記憶は次の一週間が来た時に綺麗にリセットしておくから。
厚樹ももう苦しまなくていいよ。システム上、どうしてもお助けキャラが必要だからと言われたけど、それが厚樹じゃなくてもいいの。
だから、今日は終わり。今日で終わり。また来週新しい気持ちで遊ぼうね。予定通りで幸せしかない一週間を。
「……いやだ。絶対に嫌だ!!!」
進歩?どうして?不幸なこと一つないよ。
誰も死なないし、誰も不幸じゃない、戦争だって終わるんだよ?
確かに来週がないかもしれないけど、進歩は宿題終わらせなくていいんだよ?
「そうだな。優しい仕組みかもしれない、でも俺は静香と約束したんだ!!南エリアよりも大きな海に行くって!!」
……無理だよ。守れない。
それに優しい仕組みだって進歩もわかっているなら、なんで嫌がるのかよくわからない。
だって不幸よりも幸せな方がいいでしょう?苦しくない方がいいでしょう?不安定な未来に進むよりも、安定した今を繰り返した方が素敵でしょう?
停滞は罪じゃないの。罰でもないの。進化だっていいことばかりじゃないでしょう。
例えばサーベルタイガーは発達しすぎた牙のせいで絶滅したって話、というか噂もあるでしょう。
そんな風に一歩踏み出したところで、死んでしまったら勇気も無駄だって言えるじゃない。
一歩踏み出す勇気よりも、立ち止まったまま安寧を受け入れる方が楽でしょう。
だって別にもう無理して進むほど人間は文明が遅れているわけじゃないでしょう。
不便がない生活が当たり前の科学が安定して供給される。むしろ進んだ方が環境汚染とか事故問題が起こるんじゃないかな。
大きな地震が来たらどこかの施設から危ない物が溢れるかもしれない。そんな未来に進みたいの?
ね、今が幸せなんだよ。ずっと今を現状維持、それが一番なんだよ。車が空飛ぶ未来を夢見てる時が幸せなんだよ。
だって夢が現実になったら事故とか見ちゃうわけでしょう。問題を目の当たりにしてがっかりするわけでしょう。
それができる世界でずっと終わらない夏休みを遊んでいようよ。
明日は月曜日で昆虫採集。火曜日は南エリアの海に。水曜日は雨の中で図書館で宿題。
木曜日は北エリアで雪合戦、金曜日は流星群、土曜日は地底遊園地ではしゃぐの。
そして日曜日で全部リセット。拍手しながら幸せを受け入れて、笑顔のまま消えていくの。
どうせ死ぬなら笑顔で死にたいでしょう。進歩ならわかるはずなの、わかってくれなきゃ嫌。
「俺なら…わかる?」
だってだってだってだっていやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいや!!!
死し死し死し死し死し、いやいやいやいやいやいやいや、なんでなんでなんでなんでなんでなんで!!!
幸せならいいじゃない!!幸せじゃなきゃ嫌!!死ぬなんて嫌!!それ以上にあんな死に顔を見るのが嫌!!
わかるはず、わからなきゃダメ、わかってくれなきゃおかしいの、わかるはずなんだから!!
進歩なら、静香なら、厚樹なら、八雲なら、皆なら、誰もが、全員が、全人類が!!
逆転なんて嫌!!終わりなんて嫌!!明日は必ずあるはずなの!五人全員で遊べる未来がなきゃ駄目なの!!
そこから先は光は文字にならず、0と1で壁を埋め尽くしていき、最後には光も消えてしまった。
何も言えないまま狭間進歩と海林厚樹は真っ暗になった部屋で這い寄る終末の気配を感じていた。
同時に流川綺羅を救うという意思が壁の光と同じように消えていた。
圧倒的に何かが足りない。億単位で繰り返した海林厚樹もそれを痛感していた。
違和感が広がっていく。この世界はなんだ、どうして流川綺羅がこの世界を繰り返すことができる。
予定通りの幸せも、用意されたような一週間も、当たり前のように一緒にいる五人の友達。
その答えを突きつける悪意が、真っ暗な部屋の空中に現れた立体画面の向こう側に現れる。
『こんにちは。データ諸君』
それは一週間、嫌っていうほど終末を伝え続けたニュースキャスターの声と同じだった。
だけど画面向こうの顔はニュースキャスターの顔ではない。青白すぎる、不自然な肌色の男。
嫌な笑いを浮かべて、つまらない映画に干渉して盛り上げようとする無粋な観客のように、口出ししてくる。
『今回は結構いい線までいったんだがなぁ。竜宮健斗のデータを参考に少しシステムを変えてみたものの……脳に大きな負担がかかってしまったか』
「な、なんだよ、おっさん……」
『ジョージ・ブルース。どこぞの赤い血のガキと同じ呼び方は止めろ。虫唾が走る』
自分のことを棚に上げて狭間進歩を叱るジョージ・ブルースと名乗った男は青い血の人外。
それを狭間進歩は知らない。海林厚樹も知らない。この世界の誰も青い血のことを知らない。
なぜなら青い血が関われば完璧な幸せは成立しない。それだけの影響力を持っている存在なのだから。
『さてさてどこぞのエンタメ番組みたいなネタばらしでCM挿入や、アニメのクライマックスを次回に引き延ばす手法は好きじゃない。あっさりすっきり進めて行こうじゃないか』
「そんな、俺達をアニメキャラクターみたいな……」
『みたいな、じゃなくて実際に君達はそうなんだよ。流川綺羅の理想世界を実現させるための登場人物、データの塊』
頭の隅で狭間進歩はすんなりとその言葉に納得していた。でも意地で当たり前のようにあり得ないと叫ぶ。
温度は感じる、朝昼夜の感覚がある、匂いや触感、聴覚に視覚、心や感情もあるし、魂だって目に見えないけどあるはず。
アニマルデータがあるなら、魂をデータ化した存在がいるのだから、魂はあるはず。肉体もあって精神もある。
だから自分はこの世界で生きている、紛れもない人間で、叫べば届くはずだと信じている。
魂の声が、心の慟哭が、感情の震えが、全てが届くはずだと信じて画面を見上げる。
しかしジョージ・ブルースは自分に語り掛けてくるアニメキャラを見下すような視線だ。
『データに魂?心?感情?そんなの記憶データを構築している最中で必要になったシステムで、一秒前に出来上がったばかりの赤ん坊以下のものだ』
「あか、いちびょう……嘘だ。嘘だろう?俺は一週間生きてきた!たった七日間かもしれないけど、過去の記憶だってある!不確かで曖昧だけど、俺にはこれしか……」
『だからそれ全てが嘘なんだって。前提がおかしいんだよ。お前達の世界は偽物、本物の世界の一秒にも満たない電脳世界の台本通りに動くお芝居世界なんだって』
なにも、信じられない。信じたくない。狭間進歩は男の言葉全てが真実だと理解、できてしまっていた。
否定しようとすれば否定することできる。でも頭の中ではそれが真実だと高笑いしていて、否定することが馬鹿のように思えてくる。
海林厚樹も同じようで床を見つめたまま動かない。否定の言葉すらも出てこないようだ。
『今は私が干渉しているから一秒以上は本物の世界でも生存しているよ。おめでとう、良かったね。一秒後には終わる世界の君達へ一応拍手を送ろう』
「う、そ、だ……嘘だ嘘だ嘘だ!!!信じない!!信じてたまるもんか!!」
『そう叫んでいても、お前の頭の中では真実が駆け巡っているだろうね』
言葉通り、狭間進歩の頭の中では今まで知ることができなかった情報が駆け巡る。
この世界は病院で寝ている流川綺羅が見ている、夢の世界のようなもので、機械やネットを使って電脳世界として形成している。
この世界にある全ては機械から流川綺羅の脳に送った情報から構築されており、全てがデータ上の想像の産物である。
この世界で主人公というのはデータ上の産物、流川綺羅が作ったキャラクターが自分の意思で動いて終末を覆す者だということ。
少しずつこれは十年以上かけて繰り返されているが、世界の期限は一週間でも、寝ている流川綺羅の世界では一秒にも満たない。
高速で処理され続けているシステム世界で、海林厚樹のように記憶を引き継ぐのはランダムで選出されるお助けキャラ。
お助けキャラの手助けで主人公候補、いわゆる代行が生まれる。それが狭間進歩で、代行達は流川綺羅を救うために奮闘することになる。
しかしいまだに成功していない、つまり誰一人主人公になれないまま消えていった。
主人公代行とお助けキャラはこの十三階に辿り着いて、試され、救えなかった場合システムの都合上消えることになる。
終末ではなく消失。狭間進歩は自分の置かれた立ち位置に、崖っぷちどころではない状況に絶句する。
流川綺羅との交渉は断ち切られた。救う手段は見つかっていない。終末は近づいている。
海林厚樹の顔は見えない、見れない。二人は十三階に辿り着いてしまった。もう消えるしかない。
ここからの逆転劇など、狭間進歩は望めなかった。主人公代行、主人公になれなかった、代用品。
『感情や心はあるかもしれないけど、魂はない。つまりお前達は仏教などで信仰されている輪廻思想からも外れる』
「そ、んな……じゃあ俺はどうして、今、こんなに……悔しくて、辛いんだ?」
『データのシステムでこういった状況に合わせた感情データが起動しているだけだろう?簡単なことさ、データくん』
「億単位……繰り返してきて、どうして……」
『本当にねぇ。でも良かったよ、君は中々消えない代わりにデータ量が膨大すぎて脳の圧迫が増していたからね。丁度良かった』
「……なんで、こんな世界を作ったんだ!?綺羅の幸せのためか!?誰かの発展のためか!?世界のためか!?なんでもいい、納得できる悪行でもなんでも言ってみろよ!!」
『私が青い血の一番に勝つためという個人的な理由だが何か?そのために君達が消えても、彼女の脳が潰れても、構わない』
もし大切な人間を救うためという理由だったら海林厚樹は悔しくても、仕方ないと諦められた。
世界を救うための犠牲なのだと言われたら納得してみようと努力したかもしれない。
大きな政府組織を潰すための思考実験だと言われたら外道と罵ることができただろうに。
ジョージ・ブルースはどれにも当てはまらない。単純な、究極の、個人的理由。
そのためだけに狭間進歩と海林厚樹は道具として消される。流川綺羅もいつか使い潰される。
納得なんて、できるはずがなかった。やりきれない憤りだけが体の中を暴れまわって狂いそうになるほどの、悔しさ。
心臓を締め付けるような痛みさえデータ上で再現された感情で、それが本物ではないことに打ちのめされていく。
『さてそろそろこんな会話も終わりにして、次の一週間を構築しよう。一秒にも満たない完璧な七日間の幸せを』
「ま、て……」
『そんな世界に君達はいないけどね。さよなら、主人公代行』
「待ってくれよぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!」
狭間進歩の叫びは蚊の飛び回る音以下の扱いで、空中に浮かんでいた画面はあっさりと消えた。
救いはない、逆転はない、主人公はいない、最後の日曜日、希望はどこにもなかった。
狭間進歩は走った。あの暗い部屋に海林厚樹一人置いて、ただただ会いたい相手に向かって走っていた。
エレベーターのボタンを何度も押して、転がるように入り込んで、それでも足りなくて途中で降りて階段を跳ぶ勢いで走っていく。
何度もこけて、顔面についた浅い傷口から血が零れても、視界の端に映る真っ黒な世界を無視して、走り続けた。
終末の黒はすでに宇宙エレベーターの五階まで呑み込んでいた。それでも全員が幸せなまま消えていった。
家族と抱き合って、恋人と手を繋いで、友達と笑い合いながら、街の全ては綺麗に呑み込まれてデータとして処理されていた。
平和で幸せな終末、それを滲む視界で狭間進歩は眺めるしかなかった。
失敗した、失敗した、失敗した。それしか頭にはなかった。
来週はもうやってこない。南エリアより大きな海に行く約束は守れそうにない。
そんな頭の片隅で、今更になって大事なことを思い出す。それもデータ構築の際に提供された情報で、本当の記憶ではないけど。
小さい頃、大きくなったら花山静香と結婚するって。流川綺羅の目の前で顔を真っ赤にしながら約束していた。
ゆびきりげんまん、うそついたらはりせんぼん。
今となっては針千本飲んだ方が良かったと思う。自分が死んでも、花山静香は生きているのだから。
自分が死んでも幸せな世界が続くなら、針千本、万本、億単位だっていい。全部全部飲み込むのに。
それなのに世界はあっさり終末を迎えて、新しい世界では自分は花山静香に会えない。
やっと十階に辿り着いた頃には、終末の黒は九階まで侵食していた。
だけど誰も慌てずに大好きな相手と一緒に微笑んで目を閉じている。もう終わりなのだと、嫌というほど思い知らされる。
人を手で掻き分けて、目的の相手の名前を呼ぶ。きっともう二度と呼べないから、最後の最後で手を伸ばして悲鳴のように叫ぶ。
「静香ぁっ!!!」
「あ、進歩」
花山静香は穏やかな笑みでいつも通りの調子で、伸ばされた狭間進歩の手を掴もうとした。
手が組み合ったら、大切なことを告げよう。照れくさくて、本当は意識してたのにずっと言えなかった言葉を。
好きだ、と告げようと狭間進歩は決意していた。これが最後だから。
指先が触れると思った矢先。
狭間進歩の世界は全て終末の黒で塗り潰された。