拳聖の死、そして異国の器
――無念、であった。
白一色の病室。微かに響く心電図の電子音だけが、己の命の残り時間を告げている。
岡山九朗、享年九十。
かつて裏社会で恐れられ、大正から令和の世まで歴史の影を這い続けた古流柔術『裏天神真楊流』の元師範。それだけに留まらず、中国武術の極意たる『八極拳』『陳家太極拳』をも修め、武の深淵に達したと謳われた男の最期がこれだ。
(一度でいい……ただの一度でいいから、五体満足な絶頂期の肉体で、互いの命をチップにした『死合』がしたかった……)
法が支配する平和な現代日本。どれだけ拳を研ぎ澄まそうとも、それを全力で振るう実戦の機会など訪れはしない。
命のやり取りを知らぬまま、老衰という病に負けて畳の上で死ぬ。武に全てを捧げた九朗にとって、これ以上の退屈で、耐え難い屈辱はなかった。
(もし……もしも来世というものがあるならば。神仏でも悪魔でも構わん。我が全力を受け止める不埒な強者どもがひしめく、狂った戦場へ、この魂を導くれ――)
最後の呼吸。
九朗の意識は、底の無い暗闇へと急速に沈んでいった。
◇◇◇◇◇
「――ハァッ!?」
突如、肺を激しい拒絶反応が襲った。
ごぼりと口から溢れたのは、生ぬるい粘性のある液体だ。反射的に目が開く。視界を遮るのは、緑色に濁った液体と、それを閉じ込める分厚いガラスの壁。
(……生きている? いや、ここはどこだ)
九朗は驚異的な精神力で即座に混乱を抑え込み、己の状況を把握しにかかった。
管に繋がれ、液体に満たされた透明なカプセルの中に立たされている。驚うべきは己の肉体だ。老いさらばえ、骨と皮ばかりだった体は消え去り、驚くほどしなやかで力強い、十代半ばの若々しい四肢へと変貌していた。
長い銀色の髪が、液体の中でゆらゆらと揺れている。
「……チッ、実験番号101、102ともに完全な不合格だな。やはり東洋の『気』の概念を混ぜたのが間違いだったか。純粋な魔力回路が一切開通していない。自発的な行動すらできんとはな」
ガラスの向こう。傲慢そうな口調の白人男性が、金の刺繍に縁どられた豪奢なローブを羽織り、忌々しげに手元の端末を操作していた。その背後には、同じカプセルがもう一基並んでいる。
「魔術戦闘用として期待していたが、魔力無きホムンクルスなどただの木偶だ。緊急の教授会から戻り次第、二体同時に廃棄処分にする。溶液の濃度を上げて内臓から溶かしておけ」
男は冷酷に端末に向かって言い放つと、乱暴に研究室の鉄扉を開けて去っていった。
静寂が戻る。九朗の灰色に澄んだ瞳が、不敵に細められた。
今の男の言葉、なぜか見知らぬ言語であるはずの「英語」だったが、脳に直接意味が流れ込んで理解できた。そして――。
(魔力はない、か。だが……)
九朗は自身の内に意識を向け、歓喜に震えた。
男は失敗作と言った。しかし、この肉体は狂っている。西洋の『魔力』とやらは通じずとも、東洋の武術家が命を削って練り上げるエネルギー――『気』、すなわちその力の通り道である経絡が、生まれながらに限界まで開通しているのだ。
それだけではない。大気の中に満ちる、奇妙なエネルギーの「気配」が肌を刺すように伝ってくる。魔術の感知能力だ。
(老衰の病床から一転、限界無き人造の武術体か。廃棄処分? 面白い。やってみせよ)
フッ、と九朗は呼吸を整えた。
裏天神真楊流が極意――真の呼吸法により、全身の経絡へ爆発的な『気』を巡らせる。若い肉体が、九朗の意志に応じて最高効率の戦闘駆動を始めた。
「――八極拳、寸勁!」
構えなどいらない。ガラスの壁にそっと右の拳を添える。
全身のバネ、足裏から伝わる力を一寸の狂いもなく拳の先の一点へと集中させ、筋肉を微振動させる。
ドォンッ!!
凄まじい衝撃音が室内に響き渡った。
次の瞬間、分厚い強化ガラスが文字通り「木っ端微塵」に爆散する。緑色の溶液とともに、九朗の体はしなやかに研究室の床へと着地した。
「ふぅ……。素晴らしいな。前の体では、骨が軋んでここまでの威力は出せなかった」
九朗は室内の視線を走らせ、近くの端末の表示と、机の上に投げ出されていたパスポートを確認した。
どうやら、今後、ホムンクルスを社会で活動させるために用意されていたもののようだ。
「俺たちを廃棄した後にでも、使い回すつもりだったか」
端末には、この肉体の製造名が『α(アルファ)』であると表示されていた。そして、パスポートの名義には――『クロウ・ラングリー』。
「奇しくも、同じ響きの『クロウ』か。いい名前だ」
クロウは濡れた銀色の長髪を、床に落ちていた適当な紐で雑に後ろへ結わえた。
ふと、隣のカプセルに目を向ける。
そこには、自分と全く同じ銀色の髪を持つ、美しい少女が溶液の中で目を閉じていた。二体同時に作られた、双子のような魔導人形。
彼女もまた、命令がなければ自発的な行動ができない「廃棄物」として、内臓から溶かされるのを待つだけの存在。
「指示がなければ動けない、か。なら、俺が命じよう」
クロウは一歩踏込み、彼女のカプセルのガラスへ、再び掌を当てた。
バキンッ! と鋭い音を立ててガラスにヒビが走り、溶液が勢いよく噴き出す。カプセルが機能を停止し、強制排出された少女の体が、前のめりに倒れ込んできた。
クロウはその華奢な体を、優しく両腕で受け止める。
背中の中ほどまで達する濡れた銀髪。ゆっくりと開かれた彼女の双眸は、深いヘイゼル(淡褐色)の色をしていた。
感情の欠落した、虚ろなガラス玉のような瞳。それが、じっと自分を抱きとめるクロウの姿を映し出す。
「……個体名β(ベータ)、認識を変更。あなたを『マイ・マスター』に設定。指示を乞う。――オーバー」
感情の起伏が一切ない、鈴の鳴るような細い声。英国の冷たい空気に、カタコトの英語調の響きが溶ける。
だが、その瞳の奥で、微かに何かが爆発したような気配をクロウの鋭い感知能力は捉えていた。それは、魂の刷り込み(インプリンティング)。
「β(ベータ)か。少し味気ないな。……用意されていたパスポートの通り、これからは『レイラ』と名乗るといい」
「レイラ……。――イエス、マイマスター」
「よし。最初の命令だ、レイラ。俺の背後から遅れるな。ここを脱出する」
「イエス、マイマスター」
少女は感情の薄い顔のまま、しかし一切の迷いなく、クロウの斜め後ろへとステップを踏んで影のように寄り添った。
クロウは不敵に唇を吊り上げた。
見渡す限りの見知らぬ機械、そして満ち溢れる魔術の気配。ここは間違いなく、かつて彼が退屈を託した日本ではない。命のやり取りが、剥き出しの暴力が許される『世界の裏側』。
「待っていろよ、現代の魔術師ども。日本の古武術が理合、その身にたっぷりと刻んでやる」
拳聖の魂を宿した銀髪の少年と、感情なき人造人間の少女。
世界を揺るがす最凶のバディが、ロンドンの深く昏い闇の中へと、最初の一歩を踏み出した。
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
クロウとレイラの英国奇譚、本格的にスタートします。
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