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走り去っていったナディアの背中をネロは呆然と見つめた。その顔は若干赤くなっている。何か言いたい筈なのに言葉が見つからなくて、口がパクパクと動いていた。そんなネロを見てブランテは笑い、ロドルフォもニヤつき、クリムだけが無表情でボーッとしている。
「ネロが女と暮らしてるって軽く噂になっててな」
沈黙を破りロドルフォはナディアがそこにいた理由を説明し始めた。ネロの首がぎこちなくロドルフォの方へ向く。まるでロボットだ、とブランテは更に笑った。ネロを見ているだけで大分腹筋が鍛えられていそうである。楽しそうで何よりだ。
「実際、今日女連れできたから、これは春が来たのかと期待したんだがな……チッ、賭けてたのに」
ナディアに負けちまったと、悔しそうにロドルフォは笑った。賭けるなよと突っ込みたいネロだったが、結局何も言えず大きなため息をついた。
「幸せが逃げるぞ」
「やかましいわ」
そう言って更にネロはため息をついた。これでどのくらい幸せが逃げたのだろうか。
◇
草木も寝静まるような時間に、一階から光が漏れていることにクリムは気付いた。店は明日から営業を再開する予定だから今は開いていないはず、消し忘れだろうかと、クリムは下へ降りていった。
クリムの予想に反して、店舗スペースには人がいた。近付いてみると、ネロがカウンターで何やら頭を悩ませているのがわかる。彼の前には紐で閉じられた何かの表が書かれているノートが二冊と、細長い何かの紙の束があった。勿論クリムにはこれがなんなのかは分からない。
「……何、やってるの?」
声をかけようか少し悩んでからクリムは尋ねた。声をかけられて初めてクリムがそこにいることに気付いたのか、驚いたような顔を見せてからネロは答えた。
「ちょっと、帳簿をつけてたんだ」
「チョウボ……」
「何でカタコトなのさ? ……帳簿って言っても凄く簡略化してるんだけどね。これで店の経営状況とかを見てるんだ。売上とか、利益とかね」
ネロの手元に、色々と文字がびっしりと殴り書きされた紙があるのをクリムは見つけた。仕入値などの言葉は無縁であるためスルーしたが、その下に書いてあった単価の二文字はスルーすることが出来なかった。因みに、単価の横にはいくつもの数字が書かれては線で消されていた。
「これは……カクテルの、値段?」
「……そうなる、かな。戦争が始まって、今度はすぐ隣の国だからさ、客足は確実に減ると思うんだ」
「……そうね」
色々と書いた紙をぐちゃぐちゃに丸めてしまいながら、ネロは続けた。半ば愚痴になっていることに本人は気付いていない。
「この町自体の収入が減るだろうからさ、町の人もきっと来ない。売り上げは戦争が終わるまでは落ち込むと考えなきゃいけないんだ。……更に、材料の原産国はシャンテシャルムだ。しばらくは貿易なんかできるはずもない。高くて質も良くない国内産で、今までと同じ味を考えると、どうしても原価が…………ごめん」
ここまで勢いよく喋って初めてネロはクリムがポカンとしていることに気付いた。恐らく、途中から話を聞いていなかった筈だ。
「難しく考えすぎだと思うの」
思考が回復すると、クリムは一言だけ言って部屋に戻っていった。
「なんだかなぁ……」
深いため息をつきながら、ネロはカウンターに突っ伏した。数日間彼女と過ごして分かったのは彼女はかなりマイペースだということだけである。そして、ネロはそんな彼女の為に何が必要だとか、どうしてあげればいいのかとか、余計なことを必要以上に考えこんでいた。今まで特に売り上げを気にしていなかったのに、今になって急に焦り出したのはそのせいである。苦しさでいえば、貿易が一番盛んな、パラネージェとの戦争の時のほうが大変だった筈だ。そんな状況を気にせず、ただ淡々と帳簿をつけていられたのは、彼の生活があまりにも質素だからなのである。
「スフォリアテッレさえあればいいとか、わかんねえよ……」
頭を抱えながら、店の奥にある生活スペースに飛び込む。客用のベッドがあったからいいものの、ネロはその他の家具をあまり所有していなかった。シンプルだと言えばそこまでだが、これでは少し不便ではないのかと頭を捻られるだろう(実際クリムが捻った。その後、『寝泊まり出来ればいいけど』と、付け足したが)。
「……いや、家具が無い分、自由な金があったはず…………」
何よりもネロの頭を悩ませていたもの。それは、花が好きな彼女のために、一式揃えられるかどうか。そもそも、何を買えばいいのかということである。




