第一話 書記官見習いの朝
星冠と呼ばれる戴冠式の日。
王国の記録は、静かに動き始める。
【星暦三二七年、
灰風月二十八日。
アステリア王国第四十三代国王、
ステラ・ゼフィール陛下の戴冠式が執り行われた。
当時陛下は十歳。
歴代最年少の戴冠であった。
アステリアにおいて王冠とは、
単なる統治の証ではない。
建国の折、初代国王は北天に留まり続ける星へ導かれ、吹雪の果てにこの地へ辿り着いたと伝えられている。
以来、歴代国王の即位は“星冠”と呼ばれた。
それは星を模した冠を戴く儀式であり、
同時に、星の責を背負うことを意味する。
民は王を、“星を戴する者”と呼んだ。
夜を行く旅人が、遠い星へ道を求めるように。
―――星冠記録官ノア・フェルディン著『星風の国物語』より】
王都の通りには乾いた風が吹き、石畳は夜の冷気を残している。
市場では既に冬備え用の干し肉や保存麦が並び始めていた。
薪商人たちは値上がり前の在庫確保に追われ、貧民街では「今年は寒くなる」という噂が広がっている。
アステリアの冬は、人を選ばない。
貴族も平民も、備えを誤れば死ぬ。
人々は、もうすぐ訪れる長く厳しい冬を警戒していた。
この頃、城内はどこもかしこも慌ただしかった。
廊下では侍女たちが裾を翻し、書記官は紙束を抱えて走り、近衛兵たちは幾度も式次第の確認を繰り返している。
無理もない。
今日は第四十三代国王、ステラ・ゼフィール陛下の戴冠式当日なのである。
星冠を戴くこの儀式は、王家のみならず、国そのものの節目であった。
先春から王室記録局に入局したばかりのノア・フェルディンも、書記官補佐としての雑事に追われていた。
「冬灯前は、紙まで冷える……」
ノアは徹夜明けて重くなる瞼を抑えて呟く。
すでに多くの書類が積まれた机の上に、上級書記官が新たな書類を置いた。
「ノア!宣誓原稿の追加修正だ!」
「また書き直すんですか!?もう当日の朝ですよ!?」
「しゃーねぇだろ!今回ばかりは宰相閣下だけじゃなくて、評議会やら星祈教のお偉いさん方もチェックしてるんだから!早く書き直せ!」
語尾を強くしながら足早にと自身の机へ戻っていく上司の背中に、なんでこんな時代に書記官になったんだ、というノアの嘆きの言葉は届かなかった。
半刻後、ノアは今日の主役であるステラ陛下の控え室へ向かっていた。
修正して無事にお偉いさん方のチェックも通った正式な宣誓原稿を渡すためだ。
城内の空気は妙に張り詰めている。
廊下を進む途中、使用人たちの囁きが何度もノアの耳に入った。
「本当にあのお歳で……」
「まだ十歳でしょう?」
「レオニス殿下が残っていれば……」
「しっ、聞かれたらどうする」
皆、声を潜めてはいた。
だが不安までは隠しきれていない。
先王アルトゥス陛下の崩御。
第一王女セレナ殿下の失脚。
第一王子レオニス殿下の離宮。
第二王子シリウス殿下の醜聞。
短い期間に王家は立て続けに揺らいでいた。
その果てに王座へ座ることになったのが、末子であるステラ陛下だが、彼女は十歳だった。
兄姉たちとは一回り近く歳が離れた幼子。
幼少より表へ出ることも少なく、王宮内ですらまともに顔を見たことのない者も多い。
そもそもアステリアでは、貴族や王族の子女が幼いうちから社交へ出ることは稀である。
男子は十四歳頃まで、女子は十六歳頃までを“家の内にある時代”とされ、多くは屋敷や領地の中で教育を受けながら育つ。
礼儀作法、歴史、星祈教義、舞踏、政治、領地経営。
子供たちはまず家名を背負う者として育てられ、その後にようやく社交界へ姿を現すのだ。
ステラ陛下も本来であれば、王宮奥で家庭教師や侍女たちに囲まれながら静かに成長しているはずの年齢だ。
それが今や、星冠を戴き、国そのものを背負おうとしている。
歴代最年少の戴冠。
城内に漂う落ち着かなさは、単なる式典前の慌ただしさだけではなかった。
突然王座へ押し上げられた幼い王について、人々はあまりにも知らなさすぎたのである。
曰く、ほとんど喋らない。
曰く、滅多に笑わない。
曰く、何を考えているのか分からない。
――人形のようなお姫様。
そんな噂が出回っているが、ノア自身もステラ陛下と面識がないため真偽は分からない。
自然と控室に向かう足取りも硬くなる。
宣誓原稿を抱え直しながら、ノアは小さく息を吐いた。
ステラ陛下はどんな声で話すのだろう。
どんな顔で冠を受けるのだろう。
あるいは噂通り、何を考えているのか分からないような子なのか。
もし宣誓原稿に不備があれば。
もし粗相でもすれば。
ただでさえ神経を尖らせている貴族たちから、記録局へ苦情が飛ぶのは目に見えている。
ノアは無意識に背筋を伸ばした。
廊下の先。
重厚な扉の前には、近衛騎士が二人立っている。
その向こうに、今日の主役である幼い新王がいるのだと思うと 、喉の奥が妙に乾いた。
ノアは一度呼吸を整えると、扉前の近衛騎士へ声を掛けた。
「王室記録局所属、書記官補ノア・フェルディンです。宣誓原稿をお持ちしました」
騎士は無言で頷き、重厚な扉を開く。
途端、部屋の内側から慌ただしい空気が溢れ出した。
「髪飾りはこちらです!」
「マントを汚さないでくださいませ!」
「式典まで半刻もありません!」
侍女たちが目まぐるしく行き交っている。
磨かれた銀盆。
刺繍入りの白手袋。
香油。
王家紋章入りの外套。
誰もが切羽詰まった顔をしていた。
戴冠式で身に纏うものは、ただの衣装ではない。
王家の威厳そのものだ。
その中心で、ステラ陛下は静かに椅子へ座っていた。
ノアは思わず足を止める。
白銀の髪は丁寧に梳かれ、薄青の宝石を編み込んだ細い髪紐で緩くまとめられている。
雪のように白い礼装は、まだ幼い身体には少し大きく、重たそうだった。
肩へ掛けられた濃紺の式典用マントには、銀糸で星々の刺繍が施されている。
その意匠は夜空のように美しかったが、小柄な身体には不釣り合いなほど厳かなものに見えた。
膝の上で揃えられた手は細く、小さい。
なのにその指先には既に、王族のみが身につける星冠の指輪が嵌められていた。
まるで子供へ無理やり“王”を着せているようだ――。
不敬と知りつつ、ノアはそんなことを思ってしまう。
その時だった。
ステラ陛下がふと顔を上げる。
淡い青灰色の瞳が、真っ直ぐこちらを見た。
静かな目だった。
人形と噂されるような冷たさとも違う。
ただ、妙に音の少ない目だった。
「……宣誓原稿?」
先に口を開いたのはステラ陛下だった。
年齢相応に高い、まだ幼さの残る声。
けれど妙に静かで、部屋の慌ただしさから切り離されているようにも聞こえる。
ノアは慌てて一礼した。
「は、はい。修正版となります。評議会および宰相閣下の確認も完了しておりますので、本番ではこちらを――」
言いながら、ノアは原稿を差し出した。
ステラ陛下は小さく頷き、両手でそれを受け取る。
その動作は丁寧だった。
妙に丁寧すぎるほどに。
侍女たちはなおも周囲を動き回っている。
「裾を踏まれませんよう!」
「冠布はこちらへ!」
「誰か湯を――」
騒がしく、張り詰めていた。
誰も失敗を許されない空気。
まるで部屋全体が、薄い氷の上へ乗っているようだった。
原稿へ視線を落としていたステラ陛下が、不意に顔を上げる。
「……寝てませんか?」
「え?」
間の抜けた声が出た。
予想もしていなかった言葉だった。
ステラ陛下はノアの顔をじっと見ている。
「目、赤いです」
「あ、いや、その……少し作業が立て込んでおりまして……」
実際、ここ数日はほとんど徹夜だった。
戴冠関連の修正は多く、評議会の横槍も絶えない。
書記局など猫の手でも足りない有様である。
するとステラ陛下は、ほんの少しだけ眉を下げた。
「……倒れないでくださいね」
ノアは完全に言葉を失った。
まさか戴冠直前の国王から、そんなことを言われるとは思わなかったのだ。
普通なら逆だろう。
周囲が王を気遣い、支えるべきなのに。
「は、はい……ありがとうございます……?」
困惑したまま返事をすると、ステラ陛下はまた原稿へ視線を戻した。
その時、ノアは気付く。
原稿を持つ細い指先が、僅かに震えていることに。
寒さではない。
緊張。
あるいは不安。
当然だ、とノアは遅れて思う。
十歳の子供が、これから数え切れない人間の前へ立たされるのだ。
それなのに部屋の誰も、その震えには触れない。
侍女たちは衣装を整え続け、騎士は直立したまま動かず、式典係は時間ばかり気にしている。
誰もが“戴冠式”を見ていて、“十歳の少女”を見ていない。
その異様さに気付いた瞬間、ノアは喉の奥が妙に重くなるのを感じた。
しばらくの間、部屋には紙を捲る小さな音だけが響いていた。
ステラ陛下は原稿へ視線を落としたまま、ゆっくり文字を追っている。
やがて、不意にぽつりと言った。
「……字、きれいですね」
「え?」
また間の抜けた声が出る。
今日はどうにも調子が狂う。
ステラ陛下は原稿から顔を上げないまま続けた。
「読みやすいです」
どうやら社交辞令ではないらしい。
本当にそう思ったから口にした、という平坦な声音だった。
ノアは思わず少し笑ってしまう。
「ありがとうございます。書記官ですので、そこだけは褒められることが多いんです」
するとステラ陛下は小さく頷いた。
「……大事です」
静かな声だった。
だがその言葉だけは、妙に真っ直ぐ耳へ残る。
その時、侍女の一人が慌てた様子で近付いてきた。
「陛下、お時間です。そろそろ大聖堂へのご移動を」
空気が一気に張り詰める。
周囲の侍女たちも動きを早め、近衛騎士が扉前へ並ぶ。
いよいよ戴冠式が始まるのだ。
ノアは慌てて一礼した。
「では、失礼いたします」
踵を返し、部屋を出ようとしたその時だった。
「……ノア」
呼び止められ、ノアは驚いて振り返った。
ステラ陛下は椅子へ座ったまま、こちらを見ている。
淡い青灰色の瞳。
その静かな視線のまま、彼女は言った。
「文字、忘れないでください」
一瞬、意味が分からなかった。
「……文字、ですか?」
問い返すと、ステラ陛下は少しだけ視線を落とす。
「ちゃんと書ける人、少ないから」
それだけ言って、彼女は再び原稿へ目を戻した。
侍女たちが慌ただしく周囲を整え始める。
だがノアだけは、しばらくその場を動けなかった。
――文字を、忘れないで。
それは激励だったのか。
願いだったのか。
この時のノアには、まだ分からなかった。
連載スタートしました。
『星風の国物語』というのは、後に書記官の最高位まで出世したノアが書いた、ステラ陛下の王政を記した王室史書です。
王と書記官。
歴史になる者とそれを記録する者。
そういう、何かしらの線引きがありながら関わっていく関係性が好きです。
注釈:
①灰風月・・・10月頃。冷たい秋風が吹く頃。
②冬灯・・・冬灯月。11月頃。冬支度の灯がつく頃。




