1 愛する人からの婚約破棄(前編)
◇◇◇
「エルザ・クリステル。今日をもって、君との婚約を破棄したい」
貴族学園の卒業を祝い、ゴードン公爵邸で行われた華やかな夜会の最中。パートナーとして最初のダンスを終えたあと。私の目を見つめ、静かに、しかし、はっきりとそう宣言したのは、ゴードン公爵家嫡男であり、私の婚約者であるリハルト様だった。
薔薇の貴公子と呼ばれるほど知的で美しい顔に、ありありと浮かぶ苦悩の色。そのお姿は、先月公爵邸で開かれたお茶会で会ったときよりも、明らかにやつれていた。私を絶望に叩き落とす今日この日のことを、彼なりに思い悩んでいたのだろうか。
傍目にも、仲の良い婚約者同士と思われていた私達。それゆえに、周囲から上がる驚きの声は大きく、周りの人達は私達の様子を、固唾を飲んで見守っていた。
私は今にも止まりそうな心臓を落ち着かせるために、小さくひとつ深呼吸をすると、緊張で震える手をそっと握りしめた。
「突然、そのようなことを仰られても……返事のしようもございませんわ。……わたくしの何が不服なのですか?せめて、理由を伺っても、よろしくて?」
取り乱すことなく、落ち着いて話したいのに、どうしようもなく声が震える。
リハルト様のゴードン公爵家と、我がクリステル侯爵家の婚約は、両家の利益のために、まだ私たちが幼い頃取り交わされたもの。流行りの恋愛小説のように、愛されていたから婚約者に選ばれた訳では無い。それでも、大貴族同士の婚約。生半可な理由で、解消できるものではないはずだ。自分にそう言い聞かせ、一縷の希望に縋る。
──けれど、リハルト様は私からそっと視線を外すと、こう告げた。
「君には何の落ち度もない。私個人の問題だ。クリステル侯爵家には十分な額の賠償金を支払う」
その言葉に、カッとなった。
「お金なんていりません!リハルト様は、本当に、それでよろしいのですか?このような場所でわたくしを切り捨てて、本当に後悔は、なさいませんか!」
見苦しいことをしていることは分かっていた。夜会の席での突然の婚約破棄。何よりも誇りを重視する貴族にとって、これ以上無いほどの侮辱。けれど私は、ここまでされてもなお、そこに一瞬でも躊躇いはないのか。後悔する様子はないかと、リハルト様の深く澄んだ瞳を見つめずにはいられなかった。
「君を傷つけたことを、私はきっと、ずっと後悔し続けるだろうな……許してくれなどと、言えるわけもない。これは、私のエゴだ」
その瞬間、私は彼が本気なのだと悟った。
彼が言わなくても、婚約破棄の原因は分かっていた。
──真実、愛する人ができたのだ。地位も、名誉も、婚約者である私でさえ、捨ててしまえるほどに。
ある日貴族学院に現れた、異国の女、マリー。豊満で魅力的な肢体。エキゾチックな顔立ち。心を蕩かす、ハスキーで魅惑的な声。誰もが彼女に魅了された。
彼女が現れてからというもの、少しずつ、リハルト様の様子がおかしくなっていった。
マリーはリハルト様の亡くなった母君の遠縁の娘で、公爵邸で暮らしているらしい。
そのことを知ったのも、人づてのこと。婚約者の家に年頃の女性がいる。それも、素晴らしく魅力的な。その事実は、酷く私の心をざわめかしたが、他の人の手前、何でもない振りをしていた。
──大丈夫。私はリハルト様の婚約者なのだから。誰も、私の立場を脅かすことなんてできない、はずよ。
けれど、さり気なく彼女の話題を持ち出したとき、リハルト様の表情が曇った。
──何かある。はっきりと、そう思わせるほどに。
リハルト様は学園でマリーと二人きりで過ごすことが増え、それに比例するかのように、徐々に私との時間は削られていった。
周囲から隠れるように逢引を重ねる二人の姿を見て、やきもきする毎日。
そんなある日、偶然二人が言い争っているのを聞いてしまった。
「一刻も早く──私と共に──。──貴方しか、いないのです」
「しかし……」
途切れ途切れに聞こえる声。けれど、次の瞬間、泣きながら彼に縋り付くマリーを見て、思わず身体が動いた。
私はつかつかと二人に近付くと、泣いているマリーを突き飛ばし、泣きながら彼と別れてと叫んだのだ。何も言わずに黙り込んだままの二人。いたたまれなくなって、すぐに逃げ出してしまった私。
きっと、あの日の出来事が、決定打になったのだろう。
優しくて、優雅で、大好きだったリハルト様。子どもの頃から、彼の花嫁になるのは私だと信じて疑いもしなかった。
彼にとっては、重荷でしかない婚約を、心から喜んでいたのは私だけ。きっと、そうなのだ。
涙が頬を伝う。別れの寂しさなのか。捨てられた悔しさなのか。あるいはその両方かもしれないけれど。彼はあの人を選び、私は選ばれなかった。ただ、それだけのことなんだろう。
私はすっと背筋を伸ばすと、最後にリハルト様の目を見つめ、精一杯の虚勢を張って微笑んだ。
「その言葉、確かに承りましたわ。──貴方は本当に、この婚約破棄を、お望みなのですね」
ざわめく会場。
たった今、長年連れ添った婚約者に捨てられた惨めな女に、同情的な視線が降り注ぐ。
その一方で、
「悪いわよ」「だって……ねぇ?」
面白いものを見たと言わんばかりに、くすくすと笑う、毒を含んだご令嬢方。
そして、たった今婚活市場に投げ出された令嬢を、面白そうに値踏みする令息たち。
「リハルト殿はどうかしてるな。彼女は美しいだけじゃなく、帝国一の資産家、クリステル侯爵家のご令嬢だぞ?」
「やれやれ。政略結婚とはいえ、あんな素敵な婚約者の何が不満なのだか」
「おや、知らないのか?リハルト殿には他に想い人がいるらしいぞ……」
この場にはいないマリーの話題が、耐えられない。溢れそうな涙を、ぐっと堪える。
私はドレスを翻すと、まっすぐ出口の扉に向かって歩き出した。
「さようなら、リハルト様……それでも私は、あなたを愛しているわ」
ポツリと呟いた言葉は、彼に届いただろうか。
※続きは本日22時に更新します。




