武宗の華北統一 ③
後魏を降した武宗にとって、華北で残る大国は西秦のみとなった。西秦の高宗は後魏への援軍は断ったが、大興の侵攻に対しては警戒を怠らず、着々と軍備を増強し、国境を固めていた。
そもそも西秦の拠る関中は、四方を山に囲まれた天然の要害である。関中に入るためには、どうしても東西南北に築かれた四つの関を破らねばならない。関中と呼ばれる所以である。高宗は大興に接する二関、すなわち東の望谷関、北の臨梓関を補強して敵襲に備えた。また南の後蜀、西の吐戎族とは同盟して、後顧の憂いをなからしめた。
一方、寧京にも江南諸国からの朝貢が相次ぎ、後背を脅かされる心配がなくなったので、914年、いよいよ西秦攻略に着手することにした。耶律拓拓が征秦大将軍となり、三十万の軍勢が寧京を発った。拓拓は軍を三手に分けた。本隊は自ら二十万の兵をもって望谷関に迫り、孔廉は八万の兵で臨梓関を襲い、残りの二万は拓羅覚里が率いて後蜀を牽制した。
ちなみに常に前線で軍を統べていた大将軍拓羅勁は、卞梁に蔓延した悪疫に罹ってこの年の初めに死去していた。
対する西秦は総兵力十二万のうち八万を望谷関に、二万を臨梓関に、そして二万を首都陝陽に配して防衛に当たった。攻防は熾烈を極めた。双方おびただしい死者を出し、戦は終わる気配とてなかった。宿将孔廉すら攻城を指揮するうちに流れ矢に中たって陣没した。武宗はこれを聞くと天を仰いで慟哭し、代わりに陳余穣を派遣した。
耶律拓拓は陳余穣を迎えると、彼に望谷関を委せて、自らは密かに数万の兵を率いて臨梓関に赴いた。攻城を続けさせる一方で、付近を入念に調査する。そして在郷の猟師から間道の存在を知った。間道と云ってもおよそ兵馬の越えられる道ではなく、地理に熟達した在郷のものしか通ることのできぬような険阻な道であった。だが拓拓は諸将を集めると、この間道越えを強硬に主張した。諸将は驚いてこれを諫めたが、
「主上の命を奉じて大軍を擁しながら、いたずらに時を費やし、人馬を消耗しているのだ。己の非才を恥じこそすれ、どうしてこの取るに足らぬ命を惜しむことがあろうか」
諸将は返す言葉もない。拓拓は決然として間道越えに挑む壮士を選抜した。たちまち万を超える兵が集まったが、さらに慎重に選んで五千を得ると、自らこれを率いていくことにした。拓羅玄郁が、
「大将軍が危険を冒す必要はありません。この私に命じてください」
と言ったが、やはり首を振って、
「かかる危険に余人を晒すわけにはいかぬ」
とて猟師に先導を命じて間道に挑んだ。行軍は難所の連続であった。道が途切れれば道を拓き、橋がなければ橋を架け、断崖に面した狭い足場を行き、岩肌を登攀して進む。転落したり負傷したりして脱落する兵士も多々あった。それでも拓拓は兵衆を叱咤激励しながら、とうとう臨梓関の裏側に出ることに成功した。
拓拓を先頭に数千の兵士が斬り込めば、西秦軍はおおいにあわてて瞬く間に浮足立った。兵は西秦軍が多く、かつ疲労の度合においても差はなかっただろうが、臨梓関を越えられた衝撃でほとんど戦わずに潰走したのである。逃げ遅れたものは一斉に得物を棄てて降伏した。門を開いて友軍を迎え入れた拓拓は、これに命じて西秦軍を追撃させる。
臨梓関陥落の報を受けた陝陽は大混乱に陥り、明日にも大興軍が至るのではないかと、住民は争って城外に逃亡した。高宗もうろたえて、望谷関を守る兵に速やかに退却するよう命じた。望谷関の守将李維庸は、驚愕してあわてて兵を退く。関内の異変はすぐに外にいる陳余穣の察するところとなり、一挙に関を破って追撃に転じる。李維庸は易々と撃ち破られ、陝陽に達したものは十に二、三という有様であった。
東と北から迫った大興軍は、陝陽を二重、三重に囲んだ。絶望した高宗は宮城に火を放って、自刎して果てた。耶律拓拓はただちに入城して消火に努め、寧京に捷報を送った。916年、武宗はついに華北統一の事業を成し遂げたのである。