開治の乱 ①
華北を統一した武宗は、寧京に功臣を召還して論功行賞を行なった。またこれを機にしばらくは内治に専念することを宣言したので、群臣はおおいに喜んだ。
武宗は新たに獲得した広大な領地を治めるために、多くの皇族を王に封じた。弟竇徳は先に封ぜられたとおり薊王として興京以下の旧大興領を治めた。長男愛迅は晋王として代原府に入り北晋領を、次男愛国は斉王として開方府に入り東斉領北部を、三男愛舎は呉王として新たに彰義府を開き東斉領南部を、竇徳の次子糜奉は薊から分かれて魯王として武都に入った。
また耶律拓拓は再び関中に赴き、陝陽府にて秦王となった。加えてその功を嘉して、草原の燕王カマラに謝礼の使者を派遣し、次子ウラススを請うてこれを宋王に封じた。このほか公に立てられたもの十数名、侯に立てられたものは三十余名もあった。
一方、血縁にない功臣は直接支配する領土を与えられず、中央の顕官となった。一部はまだ若い諸王の輔翼として封国に下った。これに不満を持つものはことごとく誅戮された。竇徳がたびたび諫めたが、武宗は聞くことなく粛清の嵐が吹き荒れた。自然、志ある人士は薊に参じて竇徳の幕下に入った。
武宗は内政についてはあまり得意ではなかったようである。だが父太宗の法に倣ったので、特に破綻を来すことはなかった。ただ諸王の封地は各自の裁量に任せたので、ところにより大きな差異が生じることになった。
もっとも国が治まり富み栄えたのは、言うまでもなく竇徳の薊である。太宗の遺徳がある上に竇徳自身内政に長じており、かつ寧京を避けた有為の人材が大量に登用されたからである。
それに比べてほかの封国はひどかった。王は若く、輔翼の臣も二流の人材ばかりであった。多くの王は奢侈酒色に流れ、その豪奢をもってほかの王と争った。ために家臣は率先して人衆から搾取し、自身も収賄に努めて私腹を肥やした。怨嗟の声は野に満ちて、大量の流民を生んだ。
また武宗がいまだ皇太子を立てていなかったため、本来皇室の藩屏たるべき諸王は、互いに反目して幾つもの派閥に分かれた。
秦王耶律拓拓独りはこうした喧噪とは無縁だったが、後蜀との戦争に明け暮れ、国力を疲弊させていった。拓拓は野戦攻城の名将でこそあれ、国を治める器ではなかった。
竇徳は世の趨勢を憂えてしばしば上書したが、武宗はかつての気概を失ったかのようで、寧京に座したまま何の手も打たなかった。今や天下の輿望は皇弟竇徳に集まり、乱世の予感を抱かぬものはなかった。
そうした中で922年、にわかに武宗が崩御した。在位18年、約半世紀ぶりに華北を統一した英雄の死であった。あまりに突然の死にさまざまな憶測が乱れ飛んだが、その後の動乱のためそれどころではなくなってしまった。というのは結局武宗は皇太子を指名せぬまま崩じたからである。
訃報が全国に飛ぶや、各地の王は我こそは次の皇帝たらんとして、それぞれ兵を率いて寧京を目指した。「開治の乱」の始まりである。
寧京城外で、まず晋王愛迅と斉王愛国が激突した。寧京の廷臣たちは門を固く閉ざした。また近衛軍を統べる陳右烈(陳余穣の子)もどうしてよいかわからず、形勢を観望した。武宗の葬儀を行うこともできず、おりからの酷暑で死屍は腐敗して蛆すら湧いたが、為す術とてなかった。




