07.窮余の一策バレンタイン
すでに夜も更けて宮殿内の灯りも一つ、また一つと消えていく中、とある空間だけはいまだ消える様子はないようだ。
部屋の内側から鍵をかけ、誰も入って来れないように、誰にも見られないようにしているのには理由がある。……ここまではすべて計画通り。
用意すべきものに不足はなく、気取れないよう日中は平常心を保ち続けていた。
あとは今から行う人生に於いて最大の偉業を成し遂げるだけだ。
彼女は事前に何度も……それこそ何十、何百と極秘裏に手に入れた書物を熟読し、作業工程はそれ以上の回数を脳内鍛錬している。
「……そう、私は必ず完成させてみせる。あの子たちにできて、私にできない道理はないのよ」
そうして、両側の側頭部に結わえた円環状の艶のある髪を揺らしながら、彼女は自身のすべてを賭してその作業にに取り掛かった。
だが、現実とは残酷なものだ。
いくら脳内構成が完璧でも、そこに実力が伴わなければ意味はない。
言うは易く行うは難し……それを彼女は、身を以て味わうことになったのだ。
しかし、脳内鍛錬通りに上手く行かず、何度も心が折れそうになりながら、それでも彼女は見事にそれを完成させた。
濃紺の窓幕をゆっくり開いてみると、新しい光が空を白く、蒼く染めていくところだった。街の方からは微かに活気のある声が響き始めているようだ。
「少しだけ時間はかかったけど……完成したわ。あとはこれを渡すだけね」
眼前にある四つのそれを細めた瞳で満足気に見つめていると、完成したことによって緊張の糸が切れしまったのか、溜まっていた疲労と眠気が彼女を襲った。
どこか遠くに感じる場所から自分の名を呼ぶ声と、壊れそうなほどに強く扉を叩く音が耳に入ってはくるものの、それらもどこか他人事のように感じられる。
そして、彼女は優しくて懐かしい感触に包まれながら、深い深い微睡みへと落ちていったのだった。
「まったく、我らが女神様は近しい者に心配をかけさせるのが得意なようだ」
「議会へは私から説明をしておこう」
「えぇ、お願いします。私はここを片付けておきますので」
…………
……
――それから数時間後
「……ッ!? 早く渡さないと!」
「ようやくお目覚めのようだね」
彼女が目を覚ましたのは意識を手放す前にいた厨房ではなく、使い慣れた自室の落ち着く寝台の上だった。
傍には数少ない親しい存在であるメリュジーナが開いた小さな本を片手に椅子に座っており、なんとなくではあるが、その表情は普段よりも穏やかにも見える。
「とりあえずこれでも飲むといい。熱いから気をつけるんだ」
「ありがとう。……これは」
「疲れている時は甘いものがいいとよく言うだろう?」
「諫言や叱責のほうがまだよかったわ。甘さに溶かされたくないもの」
メリュジーナはそれ以上何も言わず、少女が夜通しで完成させたモノについても何も聞かずに軽く微笑むだけだった。
手渡されたのは熱すぎず、飲むと体を内から温めてくれるホットチョコレート。その甘い香りが部屋中を満たしている。
それをゆっくりと飲みながら、少女は頼りになる二人の厳しい補佐官のことを考えていた。自分が此処にいる以上、完成品ついても知られているはずだ。
であるなら、この件は早急に収束させないといけない。彼女はそれが自身の精神衛生上、最優先事項であると考えた。
「……メリー、あの二人はどうしているの?」
「あぁ、二人は精力的に職務をまっとうしてるよ。これをあたいに預けてね」
「そう、不甲斐ない上司への抗議文かしら」
メリュジーナが差し出したのは折りたたまれた一枚の手紙だった。
手に持っていた把手筒杯を一旦メリュジーナに預けると、その手紙を開き綴られた文字に静かに目を通していく。
すると、そこに書かれていたのは短くも彼女の心に響くものだった。
「……どうして私の周りには甘い人が多いのかしらね」
「あたいはそう思わないよ……ただただ優しいんだ」
「どこかの誰かさんみたいなことを言うのね」
「そうかい? さて、あたいも少しやることがあるから行ってくるよ」
メリュジーナは苦笑しながら預かっていた把手筒杯を返すと立ち上がり、そのまま部屋から出ていった。硬いブーツの踵が奏でる規則正しい足音が遠ざかっていくと、少女はどこか嬉しそうに独り言ちる。
「こんな我儘な部下を持つと本当に大変ね」
一人分の熱量が無くなっただけだというのに、部屋の温度が急に冷えたように感じるのは気のせいではないのだろう。
それでも、手に持った把手筒杯と手紙から感じる確かな温かさを少女は離さぬように彼女たちを思いながら、一人微笑むのであった。
”もう少し、甘い方が良いです”
”もう少し、甘くない方が良いです”
その手紙は抗議文ではなく、何とも優しい嘆願書だったのかもしれない。
陽の光がその役割を月の灯に託すと寒さが一段と増し、街を行き交う人々は帰るべき場所へと歩みを進め始めている。
そんな想い想いの場所へ向かう流れの中、行き交う他の者たちとは違い、どこか彷徨う様に……それでいて標に確実に向かっている女性がいた。
月の灯だけではその表情も見えず、何を思っているのかもわかることはない。
どこか虚ろに歩を進める彼女は、見る者によっては闇夜を彷徨う亡霊……命無き者にも見えるだろうか。
ただ、明かり無き暗闇に溶けるように消えていった彼女の両手には、それぞれ簡素な包装がされた小箱がしっかりと握られていた。
ここは月国フェガリアル神都ニュクスにある、とある御屋敷。
そこに住む淑女たちにとって、今日は一年のうち重要性の高い日だといえる。
故に、満面の笑みを浮かべた彼女たちは誇らしげにそれを差し出した。
「兄さん」「お兄さん」「お兄ぃ」
「「「ハッピーバレンタイン!」」」
「あぁ、そういうことだったのか。三人ともありがとう」
朝食を食べ終わると同時に、慌てた様子のツキノたちに夕食まで外出するよう勧められた意味を、黒曜の瞳を穏やかなものに変えながらロウは得心していた。
その様子を苦笑しながら見守りつつ、姦しい三人を止めなかったシンカとブリジットの行動にも納得がいくというものだ。
「贈呈。ロザリーも、頑張って作った」
「ありがとう、大切に食べるよ」
部屋中……いや、屋敷中に満ち溢れる甘く蕩けるような匂い。
それはこの数日の間、街に出たときにも鼻孔に進入してきたものと同種のものだ。
「こ、これはわたくしが全身全霊を込めて作ったチョコです。存分に味わってくれてもいいですよ」
「食べ応えがありそうだな。ありがとう」
丁寧に包装されているが、その中身を確認するまでもなく大きさや重さ共に、ツキノたちのそれを遥かに上回るものだった。
満足気な笑みを浮かべたシエルがどこか誇らしげに立ち去り、入れ替わるようにロウの前に姿を現したのは皆の母、ブリジットだ。
恐らく、いや間違い無く、普段まったくといっていいほどに台所での手伝いをしない五人の為に、今回のお菓子作りを教えたのはこの魔女だろう。
「それじゃ、夕飯の準備するからツキノたちはこっちにきな。シエルは食器を並べといておくれ。あと、シンカはシエルが何かしでかさないように見ててくれるかい?」
「えぇ、了解よ」
「ブリジット、俺も何か手伝えることはないか?」
「パパはゆっくりと待っていておくれよ」
いつものように手伝いを申し出るが、いつものようにやんわりと断られ、ロウは大人しく準備が整うのを待つことにした。
だが、どこかいつもとは違ったブリジットの余所余所しさに違和感を覚えるものの、他の面々がいつもと変わらぬ様子だからだろう……それが自分の勘違いだろうかとも思ってしまう。そんな風に思考の海に漂っていたロウの意識は、突如現れた疑問の答えによって引き戻された。
「これがアタシの自信作だよ。パパ、ハッピーバレンタイン」
「これはすごいな。まさか夕飯がチョコ尽くしになるなんて」
長机の上に所狭しと並べられたのは様々な果物、焼き菓子、さらには野菜やベーコンまでもが用意されており、中央に鎮座しているのは温められた状態のチョコレートが入った大きな器……所謂、チョコレートフォンデュだ。
各自が好きな具材を金属串で刺し、チョコにつけて食べるのだが、普通なら食事の主として扱われることが無いであろうこの料理を夕飯に選択するあたり、ブリジットの本気度の高さを表しているのだろう。
「普通のチョコより甘さが控えめなんだな。うん、美味しい」
「気に入ってもらえて嬉しいよ。ほら、フォル坊もいつまで寝てるんだい。お前さんのためにベーコンも用意してるんだよ?」
「……すまない、もうしばらくは何も食べれそうにない……うぷっ」
ロウが屋敷に帰ってきてから一言も発さず、床に横になって体を休めていたフォルティスは、吐きだしそうになったものを押し止めながら返答した。
彼は朝食を取った後も、ただひたすらに女性陣の作るチョコレートの試食と失敗作の処分という重大な任務に就いていたのである。
「まったく、だらしないですね」
「それには同感かな」
「かっこいいフォルっちはもういないんすね」
力無く横たわるフォルティスを見下ろしながら口々に言葉を浴びせるツキノ、シラユキ、モミジの三人だが、それは彼にとって聞き捨てならない言葉だった。
故に彼は一矢報いるかのように力を振り絞ると、起死回生の一言を口にする。
「俺がこうなったのも、お前たちの失敗作が多すぎてそれらを俺がひとりで完食したからだ」
「「「うっ……」」」
思わぬ反撃に閉口し、バツの悪そうな顔をした三人に恨めしそうな視線を向けるものの、フォルティスがそれ以上の追い打ちをかけることはなかった。
その後、食べているうちに元気を取り戻したツキノたちは一通りの食材を試し、それぞれの気に入ったものをロウに勧めては楽しそうな笑みを浮かべている。
そのやり取りを羨ましそうに見ていたシエルは何を思ったのか、複数の食材を無理やり一本の金属串に刺し、それに気付いたシンカが止める間もなくむくれながら一気に食べ出してしまった。
当然、強引に刺したうえに様々な食感と味が入り乱れたことにより口内はまさに乱世と化し、本来の美味しさが損なわれ、何とも言えない哀れな表情になっていたのは言うまでもないだろう。
一家団欒、とでもいうのだろうか。
今日という日に似つかわしくないのかもしれないが、この屋敷に住む者たちはこれでいいのだとそう思っていた。
激しく、悲しみを生み出す戦場を駆ける戦士たちの顔は無く、穏やかな日々に浸る仲睦まじい家族の姿がここに存在していたのだから。
この時間がこれからもずっと続くようにと、悲しみに掻き消されないようにと思ってしまう……願ってしまう、そんなありふれた日常が。
そうして、用意していた食材の数も残り少なくなった頃、二つの珈琲杯を手にしたシンカがロウの隣の席に腰を下ろし、そのうちの一つを彼へと差し出した。
「丁度淹れに行こうかと思ってたんだ。ありがとう」
「どういたしまして。これ、美味しんだけど食べすぎるとちょっと、ね」
二人は顔を見合わせて苦笑すると、手元の珈琲杯をそれぞれ口に付けた。
飲みなれている黒色の飲料が喉を通り、胃に落ちてゆっくりとその熱が伝わってくる心地よさにロウが浸っていると、同じように珈琲杯に口を付けていたシンカが柔らかな表情を浮かべながら問いかける。
「ロウって子供の頃から珈琲好きだったの?」
「いや、最初は苦くて駄目だったな。お茶派だった。でも、母親代わりだったうちの一人が珈琲好きで、いつの間にか飲めるようになってたんだ」
そうしてロウは、瞼の裏に残る光景に郷愁を感じていた。
その人は今日という日をとても大切にしている人だった。
チョコレートと珈琲のように、甘味と苦味を教えてくれた人だった。
その人は確かな愛を与えてくれた人だった。
だか、彼女に受けた恩を返すことはもう叶わない。
だからこそ、ロウは思う。
自分も受けた愛を皆に与えていきたいのだと、そう思うのだ。
いつか皆が自分を必要としなくなる、その日まで――
「……命短し恋せよ乙女」
「え? 今何か言った?」
だが同時に、ロウはこの日が苦手でもあった。
「なんでもない」
「ふふっ、変なロウ」
それはきっと、この日が彼女たちにとって無益な日になると知っていたから。
「シンカの淹れてくれた珈琲が、今日は一段と美味しく感じただけだ」
「なによそれ」
微笑むシンカに微笑み返し、ロウはまた一口、甘い幻日から引き戻してくれる珈琲を含んだ。
すると、ロウの視界に入ってきたのは、ツキノたちと同じように包装された箱。
少し小さめで可愛らしい印象を受けるそれは、隣で夕陽に照らされたような顔色をしたシンカから差し出されたものだ。
「いつも……ううん、あの日からずっと私の事を照らしてくれてるお礼のつもりなんだけど……その……ブリジットみたいに上手くは作れないし、他のみんなからも貰ってるし、また迷惑をかけるかもしれないし、それに……それ、に……」
言葉に詰まりながらも想いを伝えるシンカの瞳は恥ずかしそうに伏せられたままだったが、その姿はあまりにも一生懸命で……
「ありがとう、シンカ。だが、そこまで自分を卑下することはない。頼りにしてるのは俺も同じだからな」
「~~~~ッ! わ、私、みんなの分も飲み物もってくるわ!」
優しい言葉を掛けられると同時に、戦場を駆ける者とは思えない温かな手のひらで頭を撫でられたシンカは突然の出来事に気が動転し、顔から湯気を出しながら台所の方へと脱兎よりも速く逃げ去ってしまった。
そんな姿に苦笑しながらも、ロウはシンカから受け取った小さくも様々な重みの感じられるそれを、壊さないように自らの手のひらで包み込んだ。
命短し恋せよ乙女……外界では戦う者とそうでない者との間で、恋愛的感覚が大きく違っている。何故なら外界の者は内界の者よりも、若く長寿であるからだ。
だが、戦う者たちにとって長い寿命というのはあまり意味を成さない。
たとえ女としての美貌が長く続いても、命そのものがそうではないからだ。
人はいつか死ぬ……いや、いつ死ぬかわからない、というのはどの世界でも共通して言えることだろう。
ただ、この世界においての死が、より身近にあるというだけの話だ。
故に、命短し恋せよ乙女……その意味の捉え方が異なるのも無理は無い。
戦いに身を置く者たちほど、添い遂げる相手を強く求めている。
女としての灯火が消え去る前に、人としての灯火が消え去る前に、愛という名の灯火を燃やしたいと……そう願わずにはいられないからだ。
だから、ロウはこの日が苦手だった。
それはきっと、この日が彼女たちにとって無益な日になると知っていたから。
ロウが浮かべた微笑みの中に、そんな想いが隠れているとは誰も気付かず、ほろ苦い感情は皆の甘い笑顔の中に溶けて消えた。そんな中――
「えっ、何このチョコの匂い。またシエルが部屋中にブチ撒けたの?」
上官であるクローフィとリコスからの緊急召集があり、慌てて朝食を食べ月光殿へと行っていたリンは、帰ってくるなり屋敷内の状況に推測を立てた。
「リン、わたくしのせいではありません! そんなことを言うリンには、このチョコフォンデュを食べる資格など与えませんよ!」
「なかなか洒落てるじゃない。ん~ッ、いい感じに甘くておいしいわね」
「当然だろう、パパの為に作ったんだから。不味いものなんか出せやしないよ」
「二人とも! わたくしを無視しないでください!」
膨れっ面になっているシエルを宥めて落ち着かせると、リンは収納石から二つの箱を取り出して、そのうちの簡素な包装がされた方をロウへと手渡した。
「おかえり、リン。これは?」
「えぇ、ただいま。さっき屋敷の前で女の人に頼まれたのよ。なんだか不思議な感じのする人だったけど」
「そうか。届けてくれてありがとう」
箱には一枚のメッセージカードが添えられていたが、そこには”ハッピーバレンタイン”と書かれているだけで差出人の名は無かった。
リンも知らない人となると考えられる人物は限られてくるが、メッセージカードの右下に描かれた蛇の絵を見て、それが彼女であるとロウは確信していた。
(だが、いったいどうしてここに……)
ロウが一人で頭を捻る中、ここからが本題だと意気込んだリンはその場にいる面々を見渡し、悔しそうな言葉を発すると共に皆の視線を自らに集めた。
「ブリジットはチョコフォンデュ。ツキノたちもブリジットに教えてもらいながらチョコを作って、ロウに渡したんでしょ? でも、今日の私には時間が無かった……そう、無かったのよ!」
気丈で気高く、多くの者に慕われているリンの悲痛な声が上がると、この部屋から一切の音が失われた。それにより、リンの声がさらに大きく響き渡る。
「だから私は、たとえこれが市販品であろうとも、誰よりも想いの詰まったこれをロウに渡すわ!」
「あ、あぁ……ありがたく受け取らせてもらうな」
リンの鬼気迫る雰囲気に圧倒されたロウは、頭での理解が追い付かないうちに差し出されたそれを受け取り、緊急召集があったにも関わらずわざわざ用意してくれたことに感謝しながら微笑んだ。
すると、暗闇の中で一筋の光に照らされたようにリンの悲しみは払拭され、手作りを贈れなかったことへの未練も断ち切られた。
だがその瞬間――どこからともなく、冷たく威圧的な声が静かに響く。
「……その台詞、聞き捨てなりませんね」
「まったくでありんす」
その冷声の正体は、ロウの後ろに控えるように顕れた彼の魔獣。
長身の麗人ハクレンと、可憐でありながら艶やかさの漂うルナティアだった。
二人とも表情には出していないが、彼女たちの纏う雰囲気が見るだけで鬼や悪魔でさえも逃げ出しそうなほどに近寄りがたいものであるのは間違いない。
「……市販品に誰よりも想いを詰めた? ……笑止千万」
「手作りこそが至高でありんす。そして、わっちらはその頂に立つ者」
「これがその鍵となるモノです」
「これがその鍵となるモノでありんす」
そう声を揃え、二人はロウに収納石を借りると、そこから様々な食材や砂糖をはじめとするお菓子作りに必要な物を取り出していき、最後に出てきたのが実物を見ることはほとんどないであろうチョコレートの原料であるカカオ豆だ。
だが彼女たちはロウの魔獣であり、街中を自由に歩き回るなど普段はできない。
ならばどうして、彼女たちがこれだけの材料を集めることができたのかという疑問は、当然として誰もが行き着くところだろう。
もちろんその答えをロウは知っているが、まさか今日一日こそこそしていた二人がこのようなことを企んでるとまでは思いもしなかった。
簡単に言えばこうだ。
二人がロウの魔獣である以上、ロウの身の安全が最優先であるが故に、二人同時に彼の元を離れることはできない。かといって今日という日を諦めきれず、利害の一致による協力をハクレンとルナティアは結んだのだ。
そして、ツキノたちに朝から夕方まで追い出されていたロウが街を散歩していたのは、二人にとってまさに好機だった。
ロウに収納石を借り、お小遣いをねだり、交互に必要な物資の調達に出向いた。
それらによって、今回の作戦の成功が目前まで迫っていることに、ハクレンとルナティアは高揚する気持ちを抑えきることができなかった。
「これがその鍵となるモノです」
「これがその鍵となるモノでありんす」
仕切り直しとばかりに声を揃えて先程と同じ台詞を発し、カカオ豆を堂々と掲げてみせるが、屋敷の者たちは僅かに冷ややかな視線を向けている。
その中でも度胸があるというか、怖いもの知らずの代表たる彼女は、思わず小さな声を零してしまった。
「……どうせなら、もう少し要領良くやってほしいっす」
全員の耳に届いてしまったモミジの呟きに、空気は凍てつき緊張が走る。
誰かの喉を鳴らす音が聞えた気がしたが、それ以上口を開く者は居なかった。
だが、予期していた怒号と制裁はやってこず、苛立った表情を押し込んだハクレンが言葉を紡いだ。
「……手作りとはいえ、オマエたちが作ったものは所詮紛い物。……結局のところ、チョコレートとして仕上がっている物を溶かして再び固めただけです」
「それは真の手作りとは言えんせん。故にわっちらは原材料を使うことで、真の手作りチョコレートを主様に食べて頂くのでありんす」
どこか誇らしげに、耳や尻尾を揺らしながら胸を張る二人。
だがしかし、新境地を開拓するかのように自らの道を突き進もうとしている魔獣たちの壮大で小さな演説は、屋敷を管理している万能たる魔女によって、無情且つ非情にあっさりと打ち砕かれる事となるのだった。
「今から作るなら朝陽が昇ってもチョコは完成しないよ」
「「………………え?」」
衝撃的過ぎるブリジットの言葉に、人の形を成す高階級の魔獣たちの掲げていた熱量は失われ、頭の中が真っ白に染まる。
反論しようにも何も言葉が浮かんでこず、呼吸をしているのかさえ分からない。
それでも、ブリジットは止めることなく慈悲無き事実を重ねていった。
「大雑把に説明するけどね、まず火を通して皮を剥く。そこから砕いて砕いて砕いて、すり潰してすり潰してすり潰して、混ぜて溶かして冷やして固める。これでやっとチョコは作れる」
「……それくらいの作業であれば」
「わっちらとて覚悟の上でありんす」
「まぁ、ただの茶色い物体ならすぐ作れるだろうさ。でもね、美味しいチョコレートは一連の作業を何日もしないとできないんだよ」
「「――ッ!?」」
ブリジットの突きつける現実に、皆は無音の慟哭が聞こえたような気がしたがそれも気のせいではないだろう。
まるでこの世の終わりだと言わんばかりにハクレンの表情は凍てつき、ルナティアは今にも泣いてしまうのではないかと思わせるほどぷるぷるしている。
そんな中、ようやくにして戦士の休息を終えたフォルティスがブリジットの足元に近寄り何かを訴えかけると、彼女は優しく二人に救済の声を届けた。
「キッチンに行くといい。お前さんたちの思ってた手作りじゃなくなるけど材料はある。こんなことは十分に想定内だからね。好きに使っていいよ」
だがそれは二人にとって、確かな甘い救いの言葉であると同時に、計画の終焉を告げる苦い言葉でもある。
それでも、何も渡せないよりかは遙かに良いだろう。
理想と現実は違うのだと、今は受け入れるしかない。
「恩に着んす 」
「…………」
悲しげに目を伏せたルナティアが、まるで氷像と化したハクレンを引っ張ってくという光景を前に、誰も言葉をかけることができなかった。
…………
……
そうして三十分もしないうち、金銀の獣たちは足音を立てることなく静かに一同の集まっている場所へと向かっていったのだが、その気配にロウが気付かないはずもなく、ロウはとてつもなく嫌な予感を感じていた。
それは少し前に台所から聞こえてきた大きな音が原因だ。
そこで普段ならブリジットの怒声が響き渡るのだろうが、今日は乙女が健気に頑張る日であり、努力する気持ちがわかるからこそ、ブリジットはたとえ自分の聖域が汚されても今日一日は怒らないと決めていた。
だからそれ自体は問題では無い。
問題なのは、明らかに何かをひっくり返したような音が聞こえてから、二人の気配が近づいてくるまでの時間があまりにも短いということだった。
そして無論、ロウの嫌な予感は見事に的中し――
「……主君、ただいま戻りました」
「主様、お待たせしんした 」
そこに現れたのは光沢のある茶色の髪を揺らしているハクレンと、甘い香りを漂わせた茶色の艶やかさを纏ったルナティアのなんとも残念な姿だった。
まるでチョコフォンデュのような状態で佇む二人に掛ける言葉が見つからず、屋敷内に漂う甘い香りは一層強くなっている。
まるで、御菓子で作られた家の中にいるようだ。
それ故に目の前の光景に思考が停止し、気付けなかったのも無理はない。
だが、冷静に考えればわかることだった。
魔獣である二人が真面に料理などできるはずもなく、頑張った末にぶちまけてしまった茶色いそれを被って現れた時点で、気付くべきだったのだ。
まさに苦肉の策ともいえる……
「「どうぞ、お召し上がりください」」
彼女たちの苦し紛れによる逆転の一手に。
「「「なっ!?」」」
「「「にッ!?」」」
「……いや、その、な?」
場の空気やそれぞれの思考を掻き回すような言葉を発した二人は、期待に満ちた眼差しでロウの一挙手一投足に意識を集中させていた。
そんな中、ロウはどう反応していいものか思考を巡らせるも答えは出ず、困惑するような乾いた微笑みを浮かべるだけだ。
だからこそ即座に意識を切り替えて立ち上がり、台所に駆け込んでいった面々のことを制することができなかったのは、仕方のないことだったのかもしれない。
混乱は伝番し、ある種の狂気へと変化していく。
台所から聞こえる音は狂気に満ちた宴の予兆か。
ここまでくると容易に想像できる展開を阻止するにはすでに手遅れであり、時間を要することなく戻ってきた残念な子たちは一斉に声を張り上げた。
「「「「「ハッピーバレンタイン!」」」」」
嬉々とした声と共に戻ってきた少女たちは、髪どころか顔や衣服にまでべったりとチョコレートが付着してしまっていた。
もちろん、彼女たちの通った床も茶色に汚れており、魔女の聖地の悲惨さなど想像するに難くない。
「あ、貴女たちまで……」
そう言って、シンカが呆れた表情を浮かべている傍らでは……
優しき花は無残に散り、体の内側にはどこから湧き出てきたのかというほどの怒りという名の熱が、ブリジットの全身へと広がり流れていく。
今日くらい、叱る事なく穏やかに過ごせると思っていたのが間違いだったのか。
それとも、単に彼女たちの性格を熟知しきれていなかったのか。
甘かった……何もかもが、チョコレートよりも遙かに甘すぎた。
しかし、それを冷静に考えているだけの余裕が|怒れる魔女≪ブリジット≫は微塵もあるわけもなく。
「フォルティス、そこは危険よ!」
未来を予見したリンの声が響いた瞬間――
「部屋を汚した上に食べ物を粗末にするんじゃないよ馬鹿たれッ! 全員、さっさと風呂に入って身も心も洗い流してきなッ!」
「は、はいぃぃいぃぃぃッ!」
ブリジットの怒号はツキノたちだけでなく、ハクレンたちにまで向けられ、その凄まじい迫力に圧倒された彼女たちは一目散に風呂場へと駆けて行った。
動きが鈍くなっていたことで回避すらままならず、茶色い足跡をつけられたまま気を失っているフォルティスを残して……
「アタシは掃除道具を取りに行くから、すまないがリンも手伝っとくれ」
「えぇ、こういうときくらいは手伝えるはずよ」
「シンカには台所を任せていいかい?」
「大丈夫、まかせて」
そうして腕捲りをしたブリジットと、哀れなフォルティスを抱えたリンも部屋から出ていき、残されたのはロウとシンカだけとなった。
同じ屋敷内にいるはずなのに、一瞬にして失われた熱と音のせいか、どこか遠い世界に来たように錯覚する。
そんな中、シンカも気合いを入れ、台所へ向かおうとした瞬間……
―――コンコン
「ん? 誰かいるのか?」
静寂の包まれた世界に、不意に響いた硝子を叩く音。
ロウは庭先に出る大窓の布仕切を開けて外の様子を窺うが、そこには誰もおらず、濃紺の天井から月が照らしているだけだった。
ハクレンかルナティアがいたなら気配を探れただろうが、魔獣を内に宿していない今のロウではとても探れそうにない。
だが、聞こえた音はおそらく空耳ではなかったのだろう。
「ロウ、誰かいたの?」
「いや、誰も見当たらないが……誰か来ていたみたいだな」
ロウが大窓を開けると冷たい外気が部屋に入り込み、部屋の暖かい空気を押し出していく。その場で一度しゃがみ込んだロウは直ぐに立ち上がり、これ以上の冷気の侵入を防ぐために大窓を閉めた。
シンカに向き直ったロウの手には、素朴な包装がされた一つの小さな箱が載せられている。
「……もしかして、それもチョコ?」
庭先に置かれていた箱の正体は開けてみないとわからないが、今日という日を考えるとその可能性が高そうではある。
若干の奇妙さはあるが、これが悪意の無いものであって欲しいと願いながらも、ロウは何かを誤魔化すようにシンカへと声を掛けた。
「どうだろうな……それより、台所の片付けを任されていたんじゃないのか?」
「あっ、そうだったわね。任された以上はしっかりやらないと」
ロウに促される形でシンカは気合を入れ直し、台所へと赴いて行った。
その背を見送ったロウは、添えられていた一枚の札に記されている文字に視線を落とし、小さく息を吐く。
一般的に言えば、この言葉が添えられている事自体に違和感や不思議さは無い。
むしろそれが自然なことであり、不自然さは皆無と言えるだろう。
だが、ロウはどうにも記されている言葉の真意を掴めないまま、少女たちの騒がしい声が戻ってくるまで、月の灯に照らされるその場所に留まっていた。
硝子越しに浮かぶ淡い月を見上げ、ロウは独り言ちる。
「……ユノー……この言葉の意味を、君なら教えてくれたんだろうか」
丁寧で美しく、完璧という言葉で称賛されるであろう文字の記された、何処からともなく届いた一枚の紙札をその手に持ちながら。
それは、そう――とても単純な愛の告白……
『 愛してる 』