49.黄泉帰る虹の乙女
悔いがないと言えば嘘になる。
本当ならもっとたくさんやりたいことはあったのだ。
良い思い出なんて、幼い頃のものばかり。
生きながら死んでいるような人生を送り、やっと前を向いても、周りには苦しみや絶望ばかりが蔓延っている。そんな世界が色褪せて見えていた。
だから、二度と見ることのできなかったはずのあの人の顔を見たとき、思わず涙が頬をつたい、その身体を抱きしめていた。
そこにいるのに名前を呼んで貰えず、いつでも触れられるのに触れられず……
やりたかったことなど、数えてみてもきりがない。
どれだけ些細なことでさえ、心の底から求めていたのだ。
それでも、あの人に待つ決して認められない未来を変えるための一助になれたのなら、この命にも意味はあったと誇ることができる。
たとえもう二度とあの人に会えないのだとしても。
仮にあの世があったとして、もう二度と元の世界に戻れないのだとしても。
ここで人知れず、ただ静かに消滅していくのだとしても。
確かに悔いはある。未練もある。
それでも、成し遂げたこの役目だけは、自分にしかできなかったことだから。
そう思っていたはずなのに……
「ここは……どこかしらね」
デュランタは一人、見覚えのない景色の中で佇んでいた。
自分が何をしなのかも、最期の光景も鮮明に覚えている。
故に、自分が死んでしまったことも理解はしている。
ならばここはいったいどこなのだろうか。
あの世……天国か、はたまた地獄という場所なのか。
どちらにせよ、自分に知識としてあった天国とも地獄とも違う光景であるのは確かだ。
「大きな川……」
大中小と様々な大きさの石が転がる砂利のような道を、向こう岸までかなり距離のある太い川沿いにゆっくりと歩いて行く。
「ステュクス、とは違うわよね。どこか不気味な感じもするし」
幼い頃に読んだ物語では、死後にステュクスという川を渡ってあの世に行くと書いてあったが、こんな風景ではなかったはずだ。
子供用の絵本だから明るく書かれていたのかは分からないが、この場所はどこか薄暗く、向こう岸は闇に覆われていて何があるのか見えないくらいだ。
とはいえ、死後の世界を見た著者などいないのだから、理想と現実の違いのようなものなのかもしれないが。
「でも、死後の世界が本当にあるってだけでも驚きよね」
そんな独り言を零していないと、自分がこの先この未知の世界でいったいどうなってしまうのか、不安に押し潰されそうになってしまう。
そうして少し歩いていくと、川縁にいる何かが見えた。
「……鬼族悪魔? でも、どこか……――ッ!?」
それらがデュランタの方へ振り向いた途端、彼女は鋭く息を呑んだ。
木材でできた小さな渡し舟のようなものの側にいたのは二人。男女の老人だった。だがその姿はどこか不気味で、悪寒が背筋を駆け上がる。
時を越えあれだけの戦いを経て、ロウと並ぶほどの実力を持つ彼女が得も言われぬ恐怖を感じるほどに、その老人たちはどこか異様だった。
しかしそんなデュランタの胸中を無視するが如く、身体は勝手に二人の元へ足を止めることなく進んで行く。
そうして目の前まで辿り着くと、老人はずいっと顔をデュランタに近づけ、頭から爪先までを凝視すると、何も言わずに掌を差し出してきた。
(な、なんなの?)
その意味問おうとしても声は出ず、いったいどうすればいいのか分からないが、おそらく何かしらを要求しているということはなんとなく理解できた。
これが渡し舟だとすると、この場合は賃金を要求しているのだろうか。
しかし、そんなもの持ち合わせているはずもなく、ゆっくり首を左右に振ってみせると、顔を赤く染めながら恐ろしい形相へと変わる老人たち。
その変貌振りにデュランタは思わず引きつったような極小さな悲鳴を漏らす。
が、老人はすぐ何かに気付くと、デュランタの腰に佩いていた刀へ手を伸ばした。
(そ、それは駄目! それは兄様の……それだけはやめてッ!)
腕でも足でもくれてやる。だからその形見だけは奪わないでくれ。
そう必至に懇願しようとするも、相変わらず声は出ず身体も動かず、あっさりと刀は奪われてしまった。
すると老人は刀の柄に細い木を当て、それを木槌で叩くと、柄と刀身を分離させる。そこから出てきたのは、見慣れないものだった。
銅貨のようではあるが、真ん中に穴が空いているものが六枚。
デュランタにはそれがなんなのかは分からなかったが、老人たちは満足したようにその六枚を懐に納めると、元に戻した刀をデュランタに返した。
そして彼女を舟に乗せると、ゆっくりと川を進み始める。
時間の感覚がまるで分からないまま舟は進み、無事に対岸へ辿り着くことができた。道中、何度が舟から落ちそうになるほどに川は荒れたが、振り返ってみると、今は元の静寂を取り戻している。あれはいったいなんだったのか。
そう一息吐く暇も無く、デュランタが身に纏っていた衣服を老婆に剥ぎ取られる。老婆はそれを翁に渡すと、翁はそれを川縁の大樹の枝へとかけた。
するとその枝は水を吸った衣服の重みでぎしっとしなり、途端――
「……ざい……じゅ……ざい……重罪」
どこから声を出しているのか。気味の悪い怨念のような声でそう告げた。
すると元から自由のきかなかったデュランタの手が手錠で繋がれ、足には丸い重しのついた足枷が嵌められる。さらには翁の手から伸びる鎖は、デュランタの首輪へと繋がっていた。
(そういうことなのね)
ここはきっと地獄なのだと、デュランタは苦笑した。
多くの命を見捨て、多くの命を利用してきたのだから、これは当然の罪だ。
その罪を背負う覚悟はあったし、死後の世界があるのなら自分は地獄へ落ちるのだとも思っていた。故に、これは至極当然の結末なのだ。
ロウを救うという可能性の未来を残すことができたのだから、それでいい。
これでいいのだと、デュランタはすべてを受け入れた。それでも……
(……兄様)
ここまで歩んでこれたのは、確かな目的があったからだ。
それを失った今、彼女の支えとなる強さなど残ってはいなかった。
この先いったい何をされるのだろうか。
そんな恐怖がぎゅっと握った拳を小さく震わせる。だが――
「――っ」
勢いよく鎖を引かれ、デュランタが大きく前につんのめると、転倒しそうになった身体は誰かの胸へと引き寄せられた。
「すまないが、この子は俺が連れて行く」
その声にデュランタの心臓が大きく跳ねる。
「俺のせいで迷い込んだだけで、元々別の世界である貴方方にこの子を裁く権利はないだろう? どちらにせよ、俺が共に罪を償えば問題ないはずだ。だから引いてくれ、懸衣翁、奪衣婆。引かないのならそれでもいいが、俺も引くつもりはない。その意味はわかるだろ?」
懸衣翁と奪衣婆と呼ばれた老人たちは、その男をじっと見つめながら何度かこくりこくりと頷いた。
「贖罪の……神子……」
「断罪と……赦免の子……」
そしてそう言い残すと、二人は大人しく渡し舟に乗って対岸へと戻っていく。
その背を見送りながら、男は胸に抱き寄せたままの拘束具を解かれたデュランタの背を優しく撫でた。
「もう大丈夫だ」
ここは過去の世界だ。元いた世界と分岐した世界。だからありえない。
彼がいるはずがないというのに、その声はとても温かくて……
「……兄、様?」
そっと顔を上げると、そこにいたのは確かにロウだった。
自分の腕の中で息絶えたはずの、片目と片腕を失っている元いた世界の紛れもないデュランタの兄、その人だ。
「本当にやり遂げたんだな。まったく、無茶ばかりして……でも、ありがとう。さすが俺の自慢の妹だ」
「ぇ……あっ、ぁ」
「お帰り、セリニ。君を迎えに来た」
「ッ、ぁ、あぁぁぁぁぁああぁっぁぁぁぁッ!」
何故かなんて、理由なんてどうでもいい。
ずっと気丈に振る舞って、我慢し続けていたデュランタの、セリニの心の声を塞き止めるものはもう何も残ってはいなかった。
まるで決壊した堰堤のように涙が溢れ、子供のように泣き叫ぶ。
「兄様! 兄様あぁぁぁぁぁぁっ!」
もう二度と会えないと思っていた。
顔を見ることも声を聞くこともできないと思っていた。
もう二度とこの温もりを感じられないと思っていた。
たとえこれが自分の作り出した幻影でも、死後の夢なのだとしても、今だけはこの想いを受け止めて欲しいと、少女は強く強くロウの服を握り絞める。
それからしばらくして、落ち着きを取り戻したセリニはロウと共に近場の岩に腰を掛け、いったいここはどこで、どうしてロウがいるのかの説明を求めた。
「ここは此岸と彼岸の境目だ。あっちが此岸、そしてこっちが此岸。俺もセリニも間違いなく死んだということだな。本当なら死後はその世界の川を渡るんだ。誰も死後の世界を知らないんだから、想定外が起こることもない。ただ今回は、死後の世界を知る俺がセリニを呼んだから、俺の知るここへセリニの魂が引っ張られたということになる。ここは皆がいる世界の死後の世界じゃないんだ」
そこでセリニが疑問を抱いたのも無理はない。
ロウは幾度も死を繰り返しているのだから、死後の世界を知っているということまでは理解できる。しかし今の説明なら、最初の一回。つまり死後の世界を知らなかったロウは、皆がいる世界の死後の世界へ行ったはずだ。
「兄様……兄様は渡りの一族同様、別の世界から来たということですか?」
「そうだ。俺という存在の一番最初、魂が産まれたのは神界や人界、天国や地獄といった境界が酷く曖昧な世界だった。そこの役目で、今俺たちがいる境にも来たことがあったんだ。だから俺の中で死後の世界のイメージは明確だった。まぁそれ以前に、元の世界へと魂が引き寄せられているだけかもしれないが……そのあたりがどうなのかは俺にもわからない」
「だとしら、私は……兄様と違うところへ行かなければいけなということですか?」
不安と寂しさを宿した双眸でロウを見つめる表情は、いくら強くなったといっても、ロウの良く知るセリニのものだった。
「ここまで来たんだ。もう薄々気付いているんじゃないか? セリニも本当は皆と同じ世界ではなく違う世界の存在だ。いや、正確には違うといっていいものか……」
無論、確信はなくともそれはデュランタだけでなく、七深裂の花冠も辿り着きつつあることだった。
「今を七七六回繰返した世界だというのなら、それを別の言い方で表すと七七七回目の世界、ということになる……が、本当は違う。七七八回目の世界だ」
そう、ロウだけが記憶を引き継げた中で、彼は○回目という単純な言い回しではなく、必ず「○回繰返した世界」という遠回しな表現を用いていた。
それで特に困ることはなかったし、問題が起きようはずもなかったのだ。
しかしいつからか、それが抑止の力によるものだったのか、ロウの心が耐えきれなくなったのか、おそらくはそれらすべてが要因となり、ロウは繰り返す始点の時間においてその記憶を維持できなくなっていた。
そんな中、それとまったくの同時に、サラが記憶の継承に成功。
後たった一度でもロウの記憶を失うのが遅ければ、もしくはたった一度分だけでも、サラの記憶の継承が早ければ、あのような差異は生まれなかっただろう。
○回目の世界と○回繰返した世界。その一度という致命的な誤差を。
とはいえ、それは誰もが想定し得ないものだった。
故に疑問はただひとつ。
どうしてロウがそのような表現を用いていたのかだ。
それは彼の性格を考えれば、この答えを導くことも難しいことではない。
きっと、なかったことにしたくなかっのだ。
決して忘れてはならない、一度目があったのだ。つまり、
「この世界には繰り返す前に滅びた一度目があった。セリニ、君はその世界にいた存在だ」
「……私が」
「外界と内界の大陸がまったく同じであるように、一度目の世界とこの世界はまるで鏡のような存在だった。互いに認識はできなともそこに在り、片方の出来事がもう片方へ影響を及ぼし合う世界だ。ただ、本来表として認識されていたのは一度目の世界だった。そこで俺はこの世界と同じように滅びを避けるために戦い、そして敗北した。その世界は滅び、そこで終わるはずだったんだ」
「だけど、表の世界が滅びたことで、普通なら認識されなかった裏の世界が表に現われた……そして表裏の世界が互いに影響し合うということは、表だった世界が滅びたという結末が、この世界の滅びをより強固なものにしている、と?」
話が早くて助かると、ロウは頷いた。
そしてややこしいからと、一度目の滅びた世界を表世界、繰り返している今の世界を裏世界とするとして、ロウは再び言葉を紡ぎ始める。
「神名は違えど、表世界にも裏世界と同じく神々がいた。天神ユピテル、陽神アポロ、月神ディアナ、海神ネプトゥヌス、地神ケレス、冥神プルト、楯戦神ミネルヴァ、軍荒神マルス、天命神パルカ、智導神メルクリウス、想美神ウェヌス、鋼鍛神ウルカヌス、竈壇神ウエスタ、執戮神フリアイ、審秤神ユースティティア、そして名憶神ムネモシュネだ」
「あの、どうして名憶神様の神名だけ同一なんですか? それに救医神様や天火神様、星神様は……エリスが得るはずだった虹霓神だって……」
ロウの口から出た名はすべての神ではなかった。
裏世界となるアスクレピオス、プロメテウス、アストライア、イリス。
どれもロウにとって切っても切れないような大切な者たちの神名だ。
それを忘れるとは思えない。当然、忘れているわけではなかった。
「元々内界の只人が神名を得ることは前例がない。アイリスオウスという国も後からできた歴史の浅い新しい国だ。それに、人の武力に秀でた星国がどうして真っ先に滅びたのか。それに俺の力に深く関わるこのなかったエリスの死という運命が、何故最初から決められていたのか。わかるか?」
「表世界には……それら神々が存在していなかっ、た? だから、滅びた表の世界に引き寄せられるように、まるで辻褄を合わせるように……でも待って兄様。どうして表世界で神名を得られなかった人が、裏世界で神名を得たんですか? 運命が引き寄せられるというなら、神名を得ること自体がすでに矛盾しているんじゃ……」
セリニの言っていることはもっともだ。
つまり彼らの存在は誰にとっても、何にとっても想定外であったといえる。
「すべてを覚えているわけじゃない。だが少なくとも、裏世界においてコルやホリネスと同じ人物は存在していなかった。二人においていえば、表世界にのみ存在した人物だということだ」
「なら、残り二人は……」
「表世界の滅びの運命が確定した時点で、裏世界はその滅びに抗う為に星神を生んだんだ。だが男神と女神、どちらがより強い運命力を持つかはわからない」「だから裏世界の初代星神は二神いたんですね」
「そうだ。男神のアストライオス、女神のアステリア。そこから生まれたのが星神アストライア……ステラだ。そのとき、表世界が裏世界に影響を及ぼすように、裏世界から表世界にもあるひとつの影響を及ぼした。表世界にもステラに該当する神子が生まれたんだ」
「それって、まさか……」
セリニの中で該当する人物など一人しか思い当たらなかった。
「そのまさかだな。滅びの運命の中でその存在は致命的な欠陥でしかない。俺に対してだけでなく、抑止の力はその子にも及ぼうとしていた。だがその子は希望そのものだった。だから俺は……いや、表世界の神々は生まれる一つ魂を三つに分け、その神力を誤魔化した。そしてその子を時空の狭間へと隠した。何もない真っ白な世界に、何も知らない子供を俺たちの都合で送ったんだ」
「そして兄様は裏世界であの子を迎えに……じゃああの子、あの子たちも私と同じで元は表世界の存在だったということですか?」
「三つの魂は力が分けられているにも関わらず、何故だか裏世界の存在として適応したんだ。正義の女神ディケー、秩序の女神エウノミアー、平和の女神エイレーネーとして」
「それだと、救医神や天火神であったコル様やホリネス様と同様の存在も表世界に生まれ落ちるはずじゃ……それに、どうしてエリスはそうならなかったんですか? 虹霓神イリスとして、エリスだって!」
セリニにとって、つい先程死に別れたばかりの大切な妹だ。
いまさらどうにもならない事とはいえ、つい声を荒げてしまうのは無理もない。
「まず最初の質問だ。俺にとって推測でしかないが、おそらく俺という存在の位置が原因だろうな。もう知っての通り、俺は表世界と裏世界そのどちらにも存在しなかった人物で、この世界の運命に抗う役を与えられた。その俺が表世界じゃなく裏世界にいたときには、すでに表世界の結末は固定されている。二人は俺が裏世界にいる時間の中で、裏世界に現われたんだろう。だから表世界に影響し得なかった」
繰返の中心人物。
世界の滅びに抗う役を担うロウという男の位置が重要なのは理解でる。
宇宙という規模の中で生まれた深淵。
それが生まれた時点で複数の惑星の本来正常であったはずの未来が枝となり剪定され、滅びの未来が幹となり正しい未来となった。
それだけ深淵の存在は大きく、複数の惑星に影響を及ぼした。
ヨウキのいた世界はそれに抗いきれずに呑まれ、しかしまだ間に合う他の惑星を救う為に、彼らはこの惑星に干渉したのだ。
ロウがこの惑星の表でも裏でもない場所から来たというのなら、やはりヨウキの存在が大きく関与しているのだろう。
表世界の滅びを干渉しその抑止力として星神を生んだのが裏世界の意思であるのなら、表世界が滅びた後に表世界には存在しなかった神として生まれたコルやホリネスは、おそらくは他世界からの干渉ということだ。
「そしてエリスだが……まずは俺にすべてを教え、与えてくれた女神の話をしようか。神名はユノー、俺の師であり母親でもあった。彼女がいなければ、すべての惑星はとっくに滅んでいただろう。そんな彼女には娘がいた……いや、いたはずだったんだ」
「いたはず?」
「俺がこうしてすべてを話せているのは、俺がすでに死人であるからだ。さっき、どうして名憶神ムネモシュネだけが同じ神名なのかと疑問を感じていただろう? 彼女の力は記憶そのもの。世界の記憶は惑星の記憶すべてが記録されている。そこに表も裏もありはしない。だから彼女だけは表と裏で同一神なんだ。そして俺は死後、彼女に導かれて世界の記憶やこの惑星でのこれまでの俺すべての記憶に触れた。だから……知ることができた」
どうしてエリスに関することでそんな話をするのか。
それはきっと、自分の罪を再確認しているのだろう。
何も知らず、何も気付かず、無知なまま、彼は彼女の兄だった。
「セリニ……俺なんだ。俺という存在が、エリスの存在を否定した」
「ど、どいうことですか?」
「俺は本来、この惑星に存在しないはずの人物だ。配役のすでに決まった物語の中で新たに誰かを入れなければならいのなら、誰かの役を奪わなければならない。なら俺は誰の代わりに生まれ落ちた?」
「……え?」
「虹霓神イリス。本来、七つの国の架け橋となりユノーの側で皆を導く存在となるはずだった。セリニも思ったはずだ。死ぬ前にあの子の姿を見て、生きていればそういった存在になれたはずだと」
「そ、それは……でも、それじゃ渡りの一族は? シンカやカグラはどうなんですか? 皆が皆、誰かの役を奪って誰かの代わりにそこにいるというんですか?」
「渡りの一族はそれこそかそういう配役だった。カグラに関してのことは本当になにもわからない。だが、シンカについては……いうまでもないだろ?」
「……っ」
ロウの存在はあまりにも特殊だ。
故に表世界でユノーの娘となるはずだったエリス……ロウに近しい性質を持っていた彼女の存在を代償にロウは生を受けた。
しかしロウは課せられた役目を果たせなかった。
表世界の滅びが確定し、されど表裏のある特殊なこの惑星は抗おうとした。
中界にある命の生まれる巨大な樹、生命樹ビオスデンド。それは世界の記憶と同様、表と裏に存在するものであり、認識できないはずの二つを繋ぐ道でもある。
資格を有する者だけが通れる大樹の麓から中に入り、何も見えない暗闇をただただひさすらに登り続ける。
星よりも遠くに感じるほどの極小さな光を目指し、どれほど遠いかもわからない距離を、登って登って登り続ける。
喉は息をするだけで痛むほどに枯れ果て、割れた爪からは血が滲み、血と汗で滑りそうになる指先に力を込め続け、振るえる身体に鞭を打ち、絶望から希望を目指すように、ユノーはただ一人登り続けた。
亡骸となった愛おしい我が子の魂をその身に宿し登り続けた。
ただただ我が子を救いたいという一心で、まるで誰かに導かれるように。
そうして辿り着いた場所でユノーを待っていたのは、ひとりの女神だった。
それがまるで鏡のように瓜二つな女神、ヘラとの出会いだ。
そのときのヘラの身にはすでに小さな命が宿っていた。
表世界で消えてしまったエリス、その命が裏世界で生きようとしていた。
しかし、同じ世界に同じ魂を持つ者は存在し得ない。
故にユノーとヘラ、裏世界で彼女たちの魂は一つとなった。
ロウとエリスの魂をその身に宿したまま。
「ま、待ってください。だったら……私は? 私は、兄様の……」
不安な瞳を向けるセリニの頭を一度優しく撫で、ロウは再び言葉を紡いでいく。
「そのとき、誰も想定してなかったことが起きた。裏世界で月を司る女神はディアナだが、ユノーは月と深い繋がりがあった。星を生んだことで星とも深い繋がりはあったが、さっき話した通りあの子は白の世界に隠されている。そんな月との繋がりの影響か……ある者の魂までもが引き寄せられた。それがセリニ、君だ。セリニがセレノのアルテミスという神名を引き継げなかったのは、君が裏世界の存在じゃなく表世界の存在だったからだ。つまりセレネの後継であるアルテミスとルーナの後継であるディアナ。セレノとセリニは同じ魂を持つ存在なんだ」
しかしそれが真実ならおかしなことがある。
同じ魂が同じ世界に存在できないが故に、ユノーとヘラの魂が一つになったのであれば、セリニとセレノの存在も一つにならなければならないはずだ。
それを問うためにセリニが口を開こうとするも、その質問がくるとわかっていたのか、ロウはその答えを口にする。
「セリニが生まれたとき、まだセレノは神名を授かっていなかった。運命は小さな歪に対して辻褄を合わせることはない。それでも、その小さな歪が運命を動かすほどの力を持ってしまったのなら話は別だ。だから……」
言い辛そうに言葉を詰まらせるロウを見て、セリニはすべてを理解した。
虹霓神イリスの神名を得るはずだったエリスは、表世界に生まれてくることはなかった。それでもただの子供のままいられたら問題はなかったのだろう。
しかし本来ユノーの腹心、使徒として皆を導くはずだったが故に、裏世界で生まれた彼女はユノーと一つになったヘラの腹心として、その神名を得る事になる。
だがそれを運命は許さなかった。
どの世界線でもエリスが必ず死んでいたのは、そういうことなのだ。
そして、セレノがアルテミスの神名を授かったが故に、同一の魂を持つセリニに対しても抑止の力が働いた。その結果セリニは死ぬ……はずだったのだ。
だがロウとコルのおかげで、セリニは生きながらえた。
何も成すことなどできようはずもないただの無力な少女として。
「兄様、私……ごめんなさい。私がこっちについてこなければ、兄様の力が無駄に削がれることはなかったのに。私が、私のせいで……私がいなければ兄様はきっと世界を救いえていたはずなのに」
確かにセリニを救う為に負ったロウの代償は大きかった。
力の大半を自身の生命維持に使うことになったのだから。
仮にロウが力を失わず、万全のまま戦い続けていることができたなら、世界の運命はとっくに変わっていたのかもしれない。
だが、ロウはそれをはっきりと否定する。
「違うよ、セリニ。たとえ俺の力がそのままだったとしても、運命はありとあらゆる過程を用いて結果を正そうとしただろう。それを打ち破るには、修復力が追いつかないほど想定外のことを連続で起こす必要があったんだ。運命が許容する小さな歪を幾つも生み、それを一気に大きな歪へと変化させる。セリニがいなければ、この世界に僅かな希望も残ってはいなかっただろう」
「……兄様」
「俺がここでこんな話をしているのはセリニが残してくれた小さな歪、希望というそれを繋げるためだ」
「え?」
「本来同じ神が、同じ者たちが存在する他の惑星とは違う表裏の世界。表の世界が滅び、裏の世界はその結果に引き寄せられるように同じ滅びへ向かっている。だがセリニ……君が希望を灯してくれた。この瞬間、その二つは別たれ裏返る」
じっとロウの見つめている先を辿るようにセリニが視線を向けると、
「デュランタ、ミオ、カグラ、シンカ……そしてエリス。君たちこそが、この世界にとっての救いだった。……待っていたよ」
いつの間にか広い川幅が狭くなり、対岸に一人の少女が立っていた。
「……エ、リス」
死後の世界の存在など知らなかったセリニにとって、再び会うことなど叶わないと思っていた最愛の片割れだ。
「せーちゃん……お兄様……」
重ねた手を不安そうに胸に当て、戸惑いの表情を浮かべているエリス。
その理由はいつの間にかこのような場所にいたからではない。
石ころ以外に何もないこの場所を彷徨っている間、ずっと声が聞こえていたのだ。それは愛おしい片割れと、愛おしい兄の声。
その声に導かれるように、エリスはここに辿り着いていた。
「これまでの話を聞いてなお、俺を兄と呼んでくれるんだな」
ロウという存在が、表世界のエリスの居場所を奪った。
その結果として、裏世界に生を受けながら彼女は死ぬ運命だった。
そんな男に対して、それでもエリスは……
「当たり前です。滅びた世界の私も、繰り返されてきた世界の私も、そして今ここにいる私だって……お兄様の愛を確かに感じていたのですから。ようやく……こうして……」
涙を堪えるようにへの字に継ぐんだ口から、僅かな嗚咽が零れ落ちる。
それでも堪えきれない雫が頬を伝い、彼女は一歩を踏み出した。だが――
「駄目だよ、エリス」
「っ、どうして……私もお兄様とせーちゃんと一緒に」
予想もしていなかった拒絶の言葉。
やっと会えたのに、やっと話せるのに、やっと抱きしめて貰えると思ったのに。
「君がこっちに来てしまったら、セリニの努力が無駄になってしまうだろ?」
「どういうこと、ですか?」
ロウの言葉で視線をセリニに向けるも、彼女は掌を口に当てながら涙し、ただ静かに頷くだけだ。
「俺の大切な妹は死んだんだ。俺は守れなかった。だからもう、会うことはできない」
「どうして……どうして、そんな。私はずっとお兄様に……」
「そう、君がずっと求めていたのは本当に俺なのか?」
「当たり前です!」
「本当にそうか? よく思い出せ。君はどうしてここにいる? 誰を守りたくて、誰の力になりたくて、君は最期の力を振り絞ったんだ? 君が最期にその瞳に見たのは……本当に俺だったか?」
エリスは何かに気付いたように鋭く息を呑んだ。
だが、だからといってどうしろというのだろうか。
エリスにとって、ロウはロウだ。ずっと求めていた兄なのだ。
まるで道に迷った幼子のような表情で、エリスは一歩後退ると、顔を左右に振りながら大粒の涙を零した。
すると、ずっと口を噤んでいたセリニが優しい声で言葉をかける。
「エリス、貴女の兄様はまだ生きているでしょ? まだ戦っているの。世界のため、皆のため、未来のために。だから貴女はこっちに来ては駄目なのよ。私の分まで、私と一緒に兄様を助けてあげて」
「……でも、私も、もう……死んで……だから……」
「未来で出会った他世界の神に貰った奇跡の石。あれがあれば、貴女はきっと帰ることができるわ。私たちの目的は兄様の死の運命を変えることともう一つ……貴女を救うこと。だから……生きない、エリス」
セリニの言った最後の言葉を聞いて、ロウが動揺したことを二人は気付いていないだろう。そんな余裕など、決してありはしないのだから。
だが、セリニのエリスに向けたその言葉は、ここにいるロウの心を優しく包みこんでいた。
『いきなさい』
ロウの脳裏に、あの日の言葉が蘇る。
『行きなさい、ロウ』
それはユノーが最期に残したロウへの言葉だった。
ずっとそう思っていた。
何百と繰り返す中、どの世界線のロウも、無論生きている最後のロウも、ずっとそう思い続けてきた。
自らの死を前にユノーが残したその言葉は、立ち止まらずに進み続けろと、振り返らずに行けと……そう言っているのだと思い続けていた。
だが、ユノーの最後の表情は……
『生きなさい、ロウ』
きっと、愛する子を思う母のものだったのだろう。
自身の宿命に囚われ、何も見えなくなっていた。
どうしてこんな簡単な事に気が付かなかったのだろうか。
気の遠くなるような永い時間の果て、ようやくそれに気付かせてくれてたセリニに心の中で深く感謝する中、エリスが戸惑いの声を響かせる。
「どうして……どうしてその石をせーちゃんが使わなかったのですか?」
そんな優しい質問に対する答えなど決まっている。
「忘れたの? 兄様はいつも私たちにこう言ってくれていたわ。「俺が兄として生まれた以上、妹を切り捨てて願う未来はありえない」って。それと同じよ。私は兄様に救われた。だから兄様に貰ったこの命で、貴女を救える私が兄様の代わりに貴女を救おうと思った。だって……姉妹でしょ?」
とても誇らしげに、セリニは温かい笑みを浮かべて見せた。
「せー、ちゃん……」
先程から流れている涙は止まることを知らず、その勢いを増すばかりだ。
「エリス、俺の最後の願いを聞いてくれないか?」
声も出せずにこくこくと頷くエリスに、ロウはありがとうと言いながら、
「真実を知られた今、向こうの俺は必ず皆と共闘する道を選ぶだろう。そして、七七六年の大戦を越えて七七七年に辿り着く。そこで自身の死の運命と向き合うことになる。きっと足掻きはするはずだ……だが…………いや、これはやめておこう」
「……お兄様?」
「俺はセリニを救ったときから嘘を吐けなくなった。だが、そこにはたったひとつだけ抜け道があるんだ。だから俺は必ず、ただ一度だけ嘘を吐く。周りに迷惑をかけては悲しませてばかりの頼りない俺だが……どうか救ってやってくれないか?」
その言葉で、エリスの胸の中で何かが大きく脈動した。
ずっと止まっていたはずのそれが、確かに動き始めたのだ。
まともに生きられなかったエリスにとって、託された初めての願い。それが愛する姉と兄であることの、なんと幸せなことだろうか。
これまでの不幸な運命そのすべてが裏返るほどに、エリスはこの瞬間に得たのだ。掛け替えのない大切な役割と、自分の存在意義、そして価値を。
「どんな結末になろうと、どうか最後まで傍にいてやってくれ」
「貴女ならできるわ、エリス。だって貴女は私たちにとって――」
「「――自慢の妹なんだから」」
そう微笑む二人に言葉を返そうとするエリスだが、何故か上手く声が出せなくなっていた。
此岸と彼岸、互いを隔てる川幅が再び広くなっていき、向こう岸に薄らと霧が立ちこめるそうにその視界が悪くなっていく。
それでも、エリスは叫んだ。
たとえそれが音にならずとも、精一杯の感謝と愛しているを伝えるために。
喉が焼けるような痛みに襲われるほど、強く強く叫んでいた。
そうして二人の姿が見えなくなった途端、エリスは暗闇に包まれてた。
右も左もわからない、小さな光さえ失われた本当の闇だ。
だが、立ち止まってはいられない。
エリスは真っ赤に腫れているであろう両眼を強くこすり、真っ直ぐに顔を上げて歩き始めた。
当然、どこに向かうべきかはわからない。それでも歩くことしかできないから。
どれくらいの距離を歩いただろう。何時間、歩いたのだろう。
音と光無き暗闇は重要な人の器官すべてを無にし、その心を弱する。
目も耳も鼻も肌も何も感じない。まさに無。
それはまさに死といっても過言ではないだろう。
もはや自分が歩いているのかさえわからなくなり、それでも強く進み続けることができていたのは、託された想いによる彼女の強い意思があったからだ。
此岸と彼岸の狭間の世界。死の体験。
この世界を進むのは足ではなく、己が意思で進むのだ。
(……扉?)
しばらくすると、いつの間にか目の前に扉のようなものが現われた。
久し振りに視覚で得た情報。
何にも触れられなかった身体が、まるで安らぎを求めるが如く、その指先で触れようと扉に手を伸ばしていく。だが――
(これが出口? 本当にここが……これが正解、なのでしょうか)
わからない。しかし、エリスは無意識にその手を引っ込めていた。
そしてその扉を通り過ぎ、再び歩き始めた。
安易な安らぎではなく、過酷な道を選択したのは何故か。
自問自答しても答えはない。
失われた五感。しかし残された第六感が、あれは違うと告げていた。
そうして何度も何度も何度も、現われた扉を見送り続けた。
どこまで進めば目的の場所に辿り着けるのか。あと、どれだけ……
(お兄様……せーちゃん……)
二人のことを思いながらエリスは歩き続ける。
目的の扉が世界の果てにあるのなら、そこまでも歩いてみせる。
だがそれでも先の見えないこの暗闇は、エリスの心を徐々に疲弊させていく。
誰にも頼れない一人きりのこの世界は、エリスの心を無情にも蝕んでいった。
(駄目……私は、帰るんです……私は……お兄様と、せーちゃんの……元に)
彼女の心が弱いわけではない。彼女の意思が弱いわけでもない。
それでも彼女の歩幅は徐々に小さくなっていき、今では一歩と呼べるほどのものではなくなっていた。
前に、前に、前に……その意思はあるはずなのに、彼女という存在が、魂がこの無というものに耐えきれなくなってきているのだ。
そうして遂にはその足が止まり、膝が折れ倒れそうになった、その瞬間――
(……え?)
何かに強く引き寄せられるような感覚があった。
そしてその何かはエリスを、おそらくは背負っているのだろう。
何も見えず、何も聞こえはしない。
(そんな、まさか……でも……腕が……)
一瞬、ロウが助けに来てくれたのだと思った。
しかし生きているロウが来られるはずもなく、先程別れたロウは片腕を失っているのだから、両腕で支えられるはずがない。
目で確認することはできない。声を出すこともできない。
それでも久し振りに肌に感じる温もり。懐かしい匂いをエリスは感じていた。
そんな温かさに包まれ、その癒やしの中で、すり減り蝕まれていたエリスの心は次第に気力を取り戻していく。
音も光も無い世界。どこまで続くかわからぬ暗闇。
そんな世界の中を誰かに背負われたまま、エリスは進み続けていた。
一人のときと違い不安はなかった。
何故か大丈夫だとそんな確信があった。
しばらくして、誰かは立ち止まるとエリスをそっと下ろした。
そして彼女の後ろに回ると、小さな両肩にそっと触れ……そっと押した。
「振り返らず前を向け。進み続けた先でしか叶わない願いもある」
駄目だ、とエリスは思った。
あれだけ散々泣いて、それでも枯れることなく溢れる涙。
温もりと匂いで気付いていた。でも、まさかそんな、そう思っていた。
だけどこれだけは間違えようがない。
この声だけは、絶対に間違えるはずがないのだ。
(……お兄、様)
エリスの記憶には、冥界にあるひとつの物語があった。
恋人を生き返らせるためにに死後の世界に赴く男の話だ。
エリスにはこの男の心情がまるで理解できなかった。
振り返らなければ、恋人は生き返ったのだ。
生返りさえすれば思う存分、恋人の顔を見つめることができるのだから。
それでも、今ならその気持ちが理解できる。
帰ることさえできれば、兄の姿を好きだけ見られるというのに。
だけど、だけどここにいる兄にはきっともう会えない。
そう感じている自分がいる。何故なら今後ろにいる彼は――
(お兄様ッ!)
思わず振り返ってしまいそうになった瞬間、どこからか声が聞こえてきた。
『エリスはもういない……わかってる。私の前で死んだんだもの。未来の私だって、もういない。残された無力な私にできることは……なにもない。なら私は、エリスに、兄様に、デュランタに……なんのために生かされたの?』
(せーちゃん?)
『貴女を救えなかった私のことを赦してくれなくていいから。私の身体をあげるから。だから、お願い……私の、貴女の大切な人を助けてよ』
それは自分に帰る道を残してくれた、愛する姉の呼ぶ声だった。
恨んでなんかいない。貴女は無力なんかじゃない。
自分を責める彼女にそう応えたくても何もできない中、その声に応えるように、突然目の前に扉が現われる。
『……お願い、エリスっ』
そしてその願いに呼応するように、目の前の扉が開かれた。
「生きろ、エリス……君の夢が、その道の先で待っている」
その言葉に背中を押されるように、エリスの身体が扉から溢れ出る光に吸い込まれていく。
「ありがとう、エリス。生まれてきてくれて……ありがとう」
それは根拠のない確信だった。
その言葉はどのロウであっても、きっと言ってくれる言葉だろう。
だがそれでも、その言葉の中にある想いの底は他のロウとは違っていて……
もう二度と会うことの叶わぬ彼へとエリスは振り返った。
彼にだけは、絶対に伝えなければならない言葉を伝えるために。
「お…兄様……私……私は……お兄様の妹で幸せでした」
此岸へ戻ろうとしているからか、やっとの思いで振り絞ることのできた声は震えてしまっていたが、きっとこの想いは伝わっただろう。
何故ならエリスの瞳に映る彼の顔は――笑っていたのだから。
そうして、完全に光に包まれたエリスの身体は扉の向こうへと消えていき、そのまま閉じた扉は跡形もなく消失した。
愛する妹の言葉を胸に抱きながら、男は独り言ちる。
「大丈夫だよ、いずれまた会える」
そう瞳を閉じ、男は踵を返した。
「そう……もうすぐ会えるんだ。……シンカ」
音も光もない無の世界を、男は歩き続ける。
世界に、その運命に呼ばれるそのときまで。
…………
……
エリスを見送った後、セリニの中には別れという悲しみよりも、やり遂げたという思いが溢れていた。
遠い昔に救えなかった大切な妹を、最善の形と違うとはいえ救うことができだのだから。
「……大丈夫でしょうか」
「あぁ、きっとな。あの子の強さはセリニが一番よく知ってるだろ?」
「はい……そうですね」
小さな声でそう答えるエリスの横顔をしっかりとその瞳に焼き付けると、ロウは前を向きながら言葉をかける。
「そろそろセリニも帰らないとな」
「帰るって……」
「元の世界でも元の未来でも、君にいるべき場所にだ」
それは即ち、ロウとの別れでもある。
「兄様はどうするんですか?」
「俺はまだここで待っていてあげないといけない子がいるだろ? あの子にもセリニと同じように道を示してから、その後は……そうだな。どのみち俺は……」
そう言葉を詰まらせるも、その先の言葉は容易に想像することができた。
きっと、皆と同じ場所にはいけないと、そう言おうとしたのだろう。
多くを見捨て、多くを殺してきた。その分、多くの命を救ったことに間違いはないが、それでも彼は自分の罪を決して許すことはない。だから――
「なら、私も兄様と一緒にいます」
彼が自分を許し、皆と同じ場所にいけるそのときまで、自分が共にいよう。
それがセリニの出した迷いのない答えだった。
彼の行く先がたとえ地獄であったとしても、贖罪のために何かを課せられるのだとしても、セリニは決して彼の傍を離れることはしないのだ。
それが彼女のずっと求めて来たことであり、ロウの妹として生まれてきただけで幸せだと言った彼女の言葉は、嘘偽り無き真実なのだから。
「そうか……これだけの無茶をしてのけたんだ。俺が今ここで何を言ったところで、その答えを変えさせることはできないんだろうな」
「もちろんです。そういったところは兄様に似たんですから諦めてください」
何が待っているかも分からないというのに、なんて笑顔を浮かべているのだろうか。どうして、そんなにも嬉しそうにしていられるのか。
「困った妹だ」
「それをいうなら兄様だって困った兄様です」
本当ならすぐにでもセリニをどうにかしたいところだが、楽しそうに笑う彼女を見れば、もう少しだけこうしていてもいいと思えてしまう。
せめて待ち人が来たるまでは、兄妹水入らずの時間も悪くはない。
「そういえば兄様、さっきの話でひとつ気付いたことがあるんですけど……違っても笑わないでくださいね? あの……もしかして、死神って……」
その単語が出た途端、ロウの表情が僅かながらに反応を示した。
死神――ルナティアを連れて逝こうとした存在。神々の持つ禁忌。
宿主より確実に上位の力を持ち、その命を刈り取る死を司る者。
その存在はずっと謎に包まれていた。だが――
「おそらく、セリニの考えている通りだ。あれは……死神と呼ばれる存在は――」
その真実はまだ語られるべきではないのだろう。
何故ならそれは未来を断絶させる刃であり、未来を紡ぐための刃でもあるのだから。つまりそれは誰にとっても切り札となりえるものであり、誰にとっての死の宣告でもある。
ただひとつ言えるのは、ここにその答えがあるということだ。
そしてそれは必ず、深い悲しみを生むだろう。
だが悲しみで流す涙が、必ずしも不幸な結末を紡ぐとは限らない。
すべての真実に誰よりも近いあなたが、幸福な結末を望んでくれるのならば。




