第一話 旅立ちと赤いの
こんにちは。初めましてくらげといいます。
さて、今回はお読み下さりありがとうございます。物語としては冒頭も冒頭ですが、出来れば皆様と長く付き合っていけるといいな、と思っています。では
第一話 旅立ちと赤いの
少しだけ、遠くまで 第一話 旅立ちと赤いの
魔導国家ルミエラ、学術都市ルクシア。
その一角に建つクレシア魔導学院では、厳粛な空気のもと、卒業式が執り行われていた。
豊かな髭に、優しげな瞳。好々爺という言葉がよく似合う学院長、マレクト・シルヴァールが杖を一振りする。
「私、マレクト・シルヴァールの名のもとに、貴女がクレシア魔導学院の課程を修めたことを証明します。受け取りなさい」
「……はい。今まで、お世話になりました。校長先生」
杖先から、淡い光の粒子が溢れ出した。
長い黒紫の髪を背に流した小柄な少女――ミレイ・エルネスが静かに瞳を閉じ、頭を下げる。
光は胸元へと集まり、やがて一つのブローチへと姿を変えた。
「卒業おめでとう、ミレイ・エルネス君」
「ありがとう、ございます……。本当に……」
開いた蒼紫の瞳が、真っ直ぐにマレクトを見つめる。
今日、ミレイ・エルネスはクレシア魔導学院を卒業した。
「よく卒業できたよね。あの子、例の子だよね……? ほら、土の……」
「ああ、うん。『土の姫』……」
少し離れたところから聞こえた囁きに、ミレイは胸の内でため息をついた。
――土の姫。
聞こえだけなら悪くない。
けれどミレイにとって、それは決して気持ちのいい呼び名ではなかった。
クレシア魔導学院では、様々な属性の魔法を学ぶ。
得手不得手は誰にでもあるが、ミレイほど極端な生徒はまずいない。
土属性を除いて、彼女は壊滅的だった。
そのあだ名がついたきっかけは、ある日の初級魔法の授業だった。
「では、エルネス。あの的をストーンバレットで射抜きなさい」
「わ、わかりました……」
教師も、生徒たちも、結果にはさほど期待していなかった。
ミレイは魔力量そのものは多い。筆記も優秀。努力もしている。
だが魔法の適性は低い――それが、当時の共通認識だった。
今回も、どうせ微妙な結果だろう。
そんな空気の中で、ミレイはなぜかその場にしゃがみ込んだ。
いつものおどおどした感じを感じさせない、自信を持った表情。
「セット……レディ……」
右手が大地に触れる。
それだけだった。
淀みなく魔力が流れ、地面から生まれた石弾が数発、ふわりと浮かび上がる。
「ゴー!」
風を切る音。
次の瞬間、石弾は狙い違わず的へ殺到し、木製の標的を派手に砕いた。
「「「は……?」」」
間の抜けた声を上げたのは、教師だけではなかった。
詠唱はいつした。聞こえなかっただけか。 まさか詠唱破棄――?
ざわつく教室の中で、当の本人だけがきょとんとしている。
「……エルネス。今、どうやってストーンバレットを撃った?」
「え……? 普通に魔力を流して……ですが……その、何か……?」
「普通に魔力を流すだけで魔法が発動するなら、誰も苦労はせんのだ、エルネス……」
教師は思わず天井を仰いだ。
詠唱を削る技術は存在する。だが、それは学生が気軽に扱えるようなものではない。
まして、地面へ手をつくだけで、それを本人が感覚的に行っているなど聞いたこともなかった。
その日を境に、ミレイの噂は少しずつ学院中へ広がった。
他の属性はからっきし。
けれど土という属性においてのみ、異才を放つ少女。
――『土の姫』がいる、と。
◇◆◇
最後の卒業生が着席すると、マレクトは一人一人の顔をじっくりと見渡した。
「――以上を、本年度のクレシア魔導学院卒業生とする。皆の名を、いつかまた耳にできる日を楽しみにしておるよ」
高く羽ばたいてくれ。
そんな願いを込めるように言葉を結びながら、マレクトの視線はほんの少しだけミレイの上で長く止まっていた。
やがて卒業式は、無事に閉幕を迎える。
卒業生たちの反応は様々だった。
友や後輩と泣き合う者。笑い合う者。これからの未来へ胸を躍らせる者。
クレシア魔導学院は、この国の最高峰とまではいかない。
それでも十分に名の知られた学院だ。卒業後の選択肢は広い。
……私は、どうしようかな。
輝く未来を思い描く同胞たちをどこか他人事のように眺めながら、ミレイは小さく息を吐いた。
土魔法には優れている。そこだけは、ほんの少し自信がある。
ただ――。
……ほかが、なぁ……。
発動すれば御の字。 悪ければ、うんともすんとも言わない属性さえある。
筆記は優秀だった。土魔法だけなら、マレクトすら舌を巻くほどの才能もある。
それなのに、ほかの属性はどうしようもない。
我ながら、なんとも極端な卒業生だった。
……お父さん、お母さん。せっかく学校入れてくれたのに、ごめんなさい……。
挙句、進路もろくに定まらないまま卒業してしまった。安くは無い学費を払ってくれた両親になんと言おう。
「ミレイーー!!」
「アイシス……?」
沈みかけていたミレイの気持ちを吹き飛ばすような、底抜けに明るい声が喧騒を貫いた。
深い蒼の髪に、翡翠色の大きな瞳。
ミレイより少し背が高く、元気いっぱいという言葉をそのまま形にしたような少女――アイシス・グレールが、こちらへ駆けてくる。
「どーーん!」
「うわぁ!?」
勢いそのままに抱きつかれ、ミレイの小さな身体がぐらりと揺れた。
それでも転ばず受け止められたのは、アイシスならこう来ると分かっていたからである。
学院生活の中で、ミレイが唯一「親友」と呼べる少女だった。
距離感など知らん、と言わんばかりのアイシスである。
自己肯定感が低く、ついつい人との間に壁を作ってしまうミレイ。
その壁を、アイシスは持ち前の勢いで木っ端微塵に粉砕した。
結果、今では何でも話せる親友である。
「なんか暗い顔してた? 卒業式に似合ってないよー? 今日は、はぴはぴの日なんだから、ほらー、笑ってー! 笑ってればあんたはもっと可愛いんだから!」
「っ――! アイシス、痛い、痛いってば……!」
アイシスはミレイの頬を両側から摘まみ、みよーんと横へ引っ張る。
「やわらかぁ……」
「遊ばないで……!」
ぺちぺちと手を叩いて抗議すると、アイシスは名残惜しそうに柔らかな頬を解放した。
「あらそう? 残念。――で、しょぼくれた顔して何考えてたの?」
「……別に」
「いや、名探偵アイシスさんが当ててあげよっか? ズバリ、卒業したはいいけど、これから何すればええねん! ……どう?」
「ええねんって……どこの言葉なの、それ……。うん。まあ、そうだけど……」
「ほらー! 私すごいっしょ!」
「あー、はいはい……」
絶対にノリで動いているはずなのに、どうして分かるのだろう。
ミレイははしゃぐ親友を見ながら苦笑した。
いつもそうだ。
いつもアイシスは、ミレイ一人では思いつかない角度から答えを投げてくる。
「じゃあさ。パパママの許可はいるだろうけど、それを探して旅してみる、とかは?」
「旅……? 私が……?」
「そ」
思いもしなかった言葉に目を丸くするミレイとは対照的に、アイシスは何でもないことのように笑った。
「この辺なら商人だって少人数の護衛で行き来してるし、ミレイの実力なら大丈夫でしょ? 校外実習で野営もやったじゃん」
「ん、まあ……多分……?」
知識はある。
学院の実習でモンスターとの戦闘経験も、まったくのゼロではない。
可能か不可能かで言えば、可能なのだろう。
「でも、なんで旅……?」
「だから、それを探すんだってば」
アイシスは少しだけ表情を和らげた。
「いろんな街に行って、いろんなことを体験して、自分で稼いで、生きてみて。必死になって動いて、それでも最後に残ったものが、ミレイのやりたいことになるんじゃない?」
「……最後に、残ったもの」
「そ。どっかのお店で働くことだったり、冒険者だったり。はたまたお嫁さんだったり、とか?」
「お、お嫁さん……?」
「例えね、たーとーえ!」
少し赤くなったミレイに、アイシスはからからと笑う。
けれど次の瞬間には、冗談っぽさを消して真面目な顔に戻っていた。
「今ここに留まるなんて、いつでもできるからさ。ミレイは一回、広い世界を見てみなよ。あんた、やればできる子なんだから」
「……アイシス」
アイシスはミレイの両頬をそっと挟み、こつん、と額を合わせた。
旅。興味はそそられるが、危険はある。
けれど、できるだけの力は自分にはある。
問題は、未知だということだった。
旅となればかかっているのは自分の身体、命だ。
ミレイの中で気持ちが揺れる。
「ミレイ君」
そこに聞き覚えのある声に振り返る。
卒業生への挨拶を終え、会場を見回っていたのだろう。いつの間にか、マレクトが二人の後ろに立っていた。
「……マレクト校長?」
「やあ」
朗らかな笑みを浮かべ、マレクト・シルヴァールは髭を撫でる。
「悩める君に、無駄に歳だけ重ねた私が少しだけ知恵を貸そう」
「無駄にって……」
「ここから北へ向かったところに、グランツという鉱山都市がある。知っているかね?」
「名前だけなら……」
「街道を真っ直ぐ、一晩野営すれば着く距離じゃ。この時期なら街道のモンスターもあらかた駆除されておる。初めての一人旅には、ちょうどよかろう」
絶対に安全、というわけではない。
だが学院を卒業できるだけの実力があれば、十分に対処できる範囲だとマレクトは言う。
「軽いピクニックくらいの気持ちでもいい。お友達の言う通り、世界を見て、視野を広げなさい。その後でまた悩めばよい」
「……その後で」
「個人的には、卒業式でも言った通り、君の名をどこかで耳にできたりすると、この上ない喜びなのじゃがな?」
「流石校長! 深い! 暖かい! 貫禄があるぅ!」
「ふぉ、ふぉ、ふぉ……」
「……旅、かぁ」
何も、今すぐ決めなくたっていい。 寄り道したっていい。
そう思うと、胸の奥に引っかかっていたものが、ほんの少しだけ軽くなった。
「アイシス、マレクト校長……ありがとうございます……」
二人に、ミレイは心から頭を下げる。
「少し、まだ怖いですけど……行ってみようと、思います。グランツに」
とりあえず。 何となく。
動機なんて、今はそれくらいでいい。
せっかく生まれたこの熱を、冷ましたくなかった。
「うん! いいと思う! 行っておいで! ……あ、それとも、ついてきてほしい?」
「……大丈夫。ありがとう。今回は一人で行ってみるよ。頼りっきりはダメだし、ね?」
「……ふふ。うん。わかった。気をつけてね」
これは、自分を探すための旅だ。
最初くらいは、自分の足で歩いてみたい。
「準備は入念にするんじゃよ。もちろん、親御さんにはちゃんと伝えてな?」
「はい。校長……その、色々ありがとうございました……」
「何、君のことはよく耳にしたのでな。少しばかりの依怙贔屓というやつじゃよ」
そう言って、マレクトは片目でぱちりとウインクする。
「……ふふ」
年齢の割に茶目っ気たっぷりなおじいちゃんに、ミレイは思わず笑った。
「じゃあ、準備とか報告とか……してきます」
「「いってらっしゃい」」
二人の声に背中を押され、ミレイは小さく頷いた。
不安が消えたわけではない。それでも、先ほどまでとは違って、足取りはほんの少しだけ軽い。
まずは家に帰って、両親に話そう。
その先のことは――それから考えればいい。
そうしてミレイは、慣れ親しんだ学院を後にした。
◇◆◇
翌朝。
ルクシアの門の前には、旅支度を整えたミレイと、その両親の姿があった。
「本当に気をつけるんだぞ!? いつでも帰ってきていいんだからな! 危ないことはしないこと!」
「ふふ……はい。お父さん。大丈夫だよ……」
昨日から何度聞いたか、もう数えるのも億劫になるほどの言葉に、ミレイはくすりと笑った。
一人娘が初めて旅に出るのだ。 心配するなというほうが無理なのだろう。
結局、マレクトがわざわざ出向き、グランツまでの街道は比較的安全で、ミレイなら十分対処できると説明して、ようやく渋々ながら許可が下りた。
今も本当に納得しているかは怪しい。
「心配はお父さんがいっぱいしてくれてるから、お母さんからは一つだけ」
「……うん?」
「手紙、書いてくれる? 一言でもいい。元気だよって。それくらいかな」
「うん。お母さん……毎日は難しいかもだけど、必ず……」
父とは対照的に、母は落ち着いていた。
心配していないわけではない。それでも、娘が遊び半分で言い出したことではないと分かっているからこそ、笑って送り出してくれる。
「「いってらっしゃい、ミレイ」」
「いってきます。お父さん、お母さん」
いつもと変わらない二人の声だった。
けれど、その一言が今日は妙に胸に残った。
後ろ髪を引かれるような寂しさはある。今すぐ振り返れば、いつもの家に帰ることだってできる。
それでも――自分で行くと決めたのだ。 「……行ってきます」
もう一度、小さく呟いて、ミレイは前を向いた。
緊張した面持ちで、ついに一人だけで歩き出す。
「ミレイーーーーーーー!!!! 頑張ってねーーーーーー!!!!」
「君! 危ないから降りなさい!!」
「……あ」
響いた声は門の上の物見台、聞き覚えのありすぎる声が響いてきた。
どうやって登ったのかは知らない。 知りたくもない。
とにかく、そこにはアイシスがいた。
「見送りに来てないと思ったら……もう……」
ぶんぶんと手を振る親友に、怒られるよ、と苦笑しながらも、胸の奥には暖かなものが満ちていく。
「……頑張ってくるね」
アイシスを見上げ、ミレイも手を振った。
この距離では、まず聞こえないはずなのに。
アイシスは聞こえたと言わんばかりに、満面の笑みで親指を立てる。
本当に聞こえていそうだから怖い。
「さて……どんなところかな、グランツは……」
不安と期待を半分ずつ胸に抱え、ミレイは門を越える。
こうして彼女は、生まれて初めてたった一人で、学術都市ルクシアの外へと踏み出した。
◇◆◇
学術都市ルクシアを発ち、街道を歩くこと五時間ほど。
マレクトの言葉通り、モンスターや野盗の類には出会わず、人通りもそれなりに多かった。
今もまた、どこかの商人を乗せた馬車がミレイの横を通り過ぎていく。
空は晴れ渡り、乾いた地面は歩きやすい。
旅立ちの滑り出しとしては上々だった。
「……そろそろ、お昼かな」
こくこくと小さく喉を鳴らし、水筒の水を飲む。
道端の大きな石に腰掛けて懐中時計を開けば、時刻はちょうど昼に差しかかろうとしていた。
「校長の話だと、一晩野営して、もう一日歩けば……今で四分の一くらいか……」
道のりは順調そのもの。なのだが。
「結構きついもの、なんだなぁ。やっぱり……」
学院の野外演習では班で行動していた。
水は水属性が得意な者が、火は火属性が得意な者が用意する。荷物だって分担できた。
けれど、今回は一人だ。
火も、水も、食料も、野営道具も。
必要なものは全て自分で背負わなければならない。
「ん……。――水の精霊よ、器を満たせ」
少しでも水筒の中身を足しておこうと、ミレイが短い詠唱を口にした。
魔力が溢れ、幾何学模様を描く魔法陣が展開される。
その様だけを見れば、今から大層な魔法でも放たれそうなものだが――。
ぴょろろろ……。
魔法陣から零れ出たのは、水鉄砲といい勝負の細い水流だった。
「……はは」
乾いた笑いが漏れる。
水筒に増えたのは、コップ一杯にも届かない程度。
そう。 今回の旅では、火も水も誰かに頼れない。
ミレイがまともに扱えるのは土魔法だけ。
少なくとも本人の感覚では、日常生活への汎用性は恐ろしく低い。
魔法に頼れなければ道具へ頼る。 道具を持てば荷物が増える。
そしてミレイは別段、力が強いわけでも体力があるわけでもない。
普通の女の子なのだ。
「火はちょろ火、水はジョウロで、風はそよ風……。よく卒業できたなぁ、本当……」
ミレイ・エルネス一人旅、早くも折れそう。
「……いいんだよ。私のペースで」
いやいや、と首を振る。
多少遅れたところで、誰かに迷惑がかかるわけではない。
「よし……。お母さん、いただきます」
包みを開けば、母が朝早くから作ってくれたサンドイッチが顔を覗かせる。
少し厚めに切られた燻製肉に、瑞々しい葉野菜。それから、ミレイが好きだからと少しだけ多めに塗られた卵のペースト。旅の途中でも食べやすいよう、一つ一つ丁寧に包まれていた。
「……おいしい」
一口頬張れば、なんだか少しだけ家に帰ったような気がした。
ついさっきまで重たかった足も、もう少しくらいなら頑張れそうだった。
「ん……?」
そのとき、背後に何かの気配を感じた。
振り返る。
豚がいた。
いや、豚というより猪か。
だが、れっきとしたモンスターである。
猪よりも鋭い牙。 太く発達した四肢。
突進をまともに受ければ、ミレイの華奢な身体など簡単に吹き飛ばされるだろう。
「フギィィーーー!」
「……プチボア」
街道沿いのモンスターはあらかた駆除されていると聞いていたが、どうやら逃れた個体に運悪く遭遇したらしい。
嗅覚が鋭い種だ。 おそらく、食べ物の匂いに釣られたのだろう。
「フゴォォォ!!」
それを寄越せ、と言わんばかりの勢いでプチボアが地面を蹴る。
「――セット……レディ……」
脅威を目にしたミレイの瞳から、先ほどまでの弱気さが消えた。
素早く屈み、大地へ手を触れる。 土が蠢き、数発の石弾が宙へ浮かぶ。
「ゴー!」
「ピギョァ!?」
石弾は狙い違わず、次々とプチボアの身体を打ち据えた。
突進の勢いが殺される。 痛みに悲鳴を上げたプチボアは、足を止めた。
「ピギィーーーー!!」
勝てる相手ではない。そう本能で悟ったのか。
プチボアは踵を返し、土煙を上げながら街道の脇へ逃げていく。
ある種、潔い。
ここまで駆除を逃れて生き残っていたのも、この判断の早さのおかげかもしれない。
ミレイは追加で浮かべていた石弾を解除した。
形を失った石は、ざらざらと砂へ戻っていく。
「殺すまでは……したくない……」
甘いのかもしれない。
それでも、逃げていく相手の背中へもう一度魔法を撃ち込む気にはなれなかった。
「……校長とアイシスの、見て来いって話。もしかして、こういうのも含めてなのかな」
学院の中では分からなかったこと。 本を読むだけでは分からないこと。
歩き始めて、まだ半日だ。
それなのに、自分がいかに守られた場所で生きてきたのか、少しだけ見えた気がした。
「……行こう」
魔法を使ったが、大した疲労はない。
ミレイはもう一度荷物を背負い直し、一歩一歩、グランツへ向かって歩き出した。
それから、どれくらい歩いただろう。
先ほどの出来事も少しずつ頭の隅へ追いやられ、再び足の痛みのほうが気になり始めた頃だった。
「よし、仕留めたぞー!」
「……あ」
街道の先から聞こえた声に、ミレイはふと顔を上げる。
街道脇に数人の冒険者らしき男たちが集まっている。
その足元には、一体のプチボアが横たわっていた。
先ほど、自分が追い払った個体だろうか。 分からない――いや。
ミレイは、分からないことにした。
「……っ」
剣で何度も斬りつけられたのだろう。
身体には深い傷が残り、流れ出た赤黒い血が土を濡らしていた。
鼻につく鉄臭さに、ミレイは思わず息を詰める。
先ほどまで自分に牙を剥いていたものと、同じ生き物だった。
物を言わなくなったプチボアの瞳が、これが世界だと突きつけてくるように見えた。
生きるのに必死なのだ。 人間も、モンスターも。
先ほど自分がしたことが正しかったのか、ミレイにはまだ分からない。
ただ、物言わぬその姿だけが妙に胸に残った。
ミレイは唇を噛み、静かにその場を後にした。
◇◆◇
夕方というには、少々夜の闇が深すぎる時間。
街道から少し離れた場所で、ミレイはせこせこと働いていた。
「よい、しょ……」
両腕いっぱいに抱えてきた枝を地面へばらりと落とす。
続いて集めておいた落ち葉へ向けて、掌をかざした。
「――炎よ、闇を照らせ」
これから大魔法でも発動するのかという勢いで魔力が溢れる――盛大な無駄遣い。
「むー……えい!」
注いだ魔力の大半を霧散させながら、掌の先に浮かんだ魔法陣から、ぼっ、とマッチ程度の小さな火が生まれた。
火は落ち葉へ落ち、しばらくして枝へ燃え移る。
ぱちぱち、と薪が弾ける音。
ようやく、ミレイの前に小さな焚き火が完成した。
「……結果オーライ、結果オーライ」
本当は、下手な火魔法など使いたくなかった。
だが、その葛藤はもう置いてきた。
本来なら、とっくに野営の準備を終えて夕食にありつけていたはずなのだから。
「火を起こすのって、結構難しいんだなぁ……」
初級魔法へ多大な魔力を浪費し、ようやくマッチ代わりの火を用意した少女は、独特の疲労感に身を任せて地面へ座り込んだ。
学院の図書館で、魔法を使えない状況を想定した火起こしの方法を読んだことがあった。
火打ち石を使うもの。 木の棒を回して摩擦で火種を作るもの。
知識としては知っていた。
知っていただけだった。
火打ち石らしき石を何度叩いても、火花すら飛ばない。
残ったのは、じんじん痛む指先と涙目のミレイだけ。
木を回す方法では煙までは出た。
だが、わたわたしている間に火種が消えた。
残ったのは、ぱんぱんになった腕と、やはり涙目のミレイだけ。
可愛さだけで火は起こらない現実、諸行無常。
ひとまず遅すぎる夕食にしようと、荷物から保存食を取り出す。昼に食べた母のサンドイッチほど豪華ではないが、歩き通しだった身体にはそれでも十分だった。
焚き火で軽く炙った干し肉をかじり、固いパンを少しずつ水で流し込む。
「……あったかいご飯、食べたいなぁ」
早くも恋しくなった母の料理を思い浮かべながら、ミレイは質素な夕食を平らげた。
「……寝床は、楽なんだけど」
ぽつりと呟いて、地面へ手を触れる。
今度は詠唱すら必要ない。
もこもこと大地が隆起し、瞬く間に半円状の壁を作り上げていく。
崩れないよう内側は強く押し固め、閉塞感が出ないよう小さな通気穴まで作る。
「……完成」
ものの数秒。
ミレイの隣には、一人分の土のかまくらが出来上がっていた。
普通は火よりテントのほうが苦労するはずなのだが、こんなところでも他とは違う。
焚き火の周囲の草はあらかじめ取り除き、土で囲ってある。
学院の野外実習で習った最低限の安全対策も済ませた。
これでようやく、一息つける。
「……静かだなぁ」
ぱちぱちと、薪が爆ぜる。
他に聞こえるのは、風に揺れる草の音と虫の声くらいだった。
学院なら、いつも誰かの声がした。
アイシスは放っておいても隣で騒いでいたし、家へ帰れば父と母がいた。
思えば、こうして一人きりで夜を過ごすのは、初めてかもしれない。
「……寂しいな」
初めての一人旅。 出発する前は、どこかワクワクしていた。
けれど蓋を開けてみれば、プチボアには世界の現実を突きつけられ、夜になれば一人きりの静けさが身に染みる。
まだ、楽しいと思えたことはほとんどない。
「身体だけ拭いて、もう寝ちゃおう……」
もともとの気弱な性格も相まって、すでに少しだけ「帰りたい」という誘惑が顔を出していた。
ふるふると首を振り、追い払う。
そしてリュックからタオルを取り出し――固まった。
「…………水」
水筒の水は使えない。貴重な飲み水だ。
川も湖も近くにはない。
今すぐ用意できるものと言えば。
「えー……」
魔法のジョウロ。 もとい、水魔法。
ただし疲れる。めっちゃ疲れる。
ただでさえ、盛大な無駄遣い火魔法を使った後である。
そこへ、さらに盛大な無駄遣い水魔法。
身体を拭くのを諦めるという選択肢もある。
が、ミレイ的には、ない。
女の子として最低限、そこだけは譲れなかった。
「もー……!」
結局、使った。
それはもう、めっちゃ疲れた。
「頭痛い……くらくらする……」
魔力消費で鉛のように重くなった身体へ鞭を打ち、濡らしたタオルを服の中へ滑らせる。
ひんやりとした感覚は気持ちいい。
だが、それ以上に疲労が勝った。
身体を拭き終える頃には、魔力切れ寸前だった。
ふらふらと土のかまくらへ入り、リュックを投げ捨てる。
そのまま枕代わりにして、ごろりと横になった。
「明日はグランツにつくし……もう少し、マシな日だといいな……」
そんなささやかな願いを最後に、ミレイの意識はあっという間に眠りへ落ちていった。
◇◆◇
翌朝。
ミレイは歩いていた。
黙々と。 視線を下げて。
幸い、トラブルはなかった。 が、特別楽しいということもない。
草原の景色は確かに綺麗だった。
しかし何時間も見ていれば、さすがに飽きる。
実際の旅は、本の中ほどキラキラしたものではない。
疲れもする。 足だって痛くなる。
街道も、少しずつ歩きづらくなって――。
「……あれ?」
ミレイの足が止まった。
そう。 街道は明らかに変わっている。
石ころが増え、土は固く踏みしめられ、荷馬車が何度も往来した跡が目立つ。
足の痛みと戦いながら下ばかり向いて歩いていたため、気づかなかった。
ミレイはぱっと顔を上げる。
風に乗って、どこか煤けた煙の匂いが鼻先をかすめた。
さらに遠くから。
カァン――。 カァン――。
規則的な槌の音。
少し陰っていたミレイの表情が、一気に明るくなる。
「あれ、が……鉱山都市……グランツ……」
遠目からでも分かる、赤茶と灰色の街。
いくつもの煙突が空へ伸び、その向こうには大きな鉱山が聳えている。
鉄と石の街。
鉱山都市グランツが、ようやくその姿を現した。
◇◆◇
グランツへ近づくにつれて、ミレイは妙な違和感を覚えていた。
――ここ、本当に魔導国家ルミエラなのかな。
街道では、鉱石を山ほど積んだ荷馬車が何台もグランツを目指している。
街からはいくつもの煙突が突き出し、もうもうと黒煙を吐き上げていた。
カァン、カァン――。
近づくほどに、槌の音は大きくなる。
「なんか、本で見た……ヴァルガルドっぽい……?」
武装国家ヴァルガルド。
本で読んだ程度の知識しかないが、魔法使いの多いルミエラとは対照的に、剣士や武闘家、重戦士といった己の肉体を武器とする者が多い国だという。
ここ、グランツの雰囲気はまさにそれだった。
門へ向かう冒険者たちを見ても、剣や槍、大盾といった武器を背負った者が圧倒的に多い。
「……ちょ、ちょっと場違いかな」
一方のミレイは、どこからどう見ても魔法使いだった。
白いブラウスの上から、金の刺繍が施された暗色の外套を羽織り、長い黒紫の髪を背に流している。
肩周りは動きやすいよう軽装で、足元こそ旅用のブーツだが、剣も槍も一本すら持っていない。
周囲の屈強な冒険者たちと比べれば、頼りなく見えることこの上なかった。
それでも、ここまで来て帰るという選択肢はさすがにない。
気後れしながらも、ミレイは検問の列へ並んだ。
「近くまで来ると、もっと凄い……」
並んでいるうちに、先ほど抱いた印象は確信へ変わった。
圧倒的に男が多い。
冒険者、鉱夫。 髭、筋肉。
そしてガチャガチャと喧騒を奏でる武器と鎧の金擦れの音。
「次、そこの女の子。こちらへ」
「あ、はい……!」
景色に圧倒されているうちに順番が来た。
門番の前へ進む。
「ここへは、一人で?」
「そ、そうです。ルクシアから来ました……」
少女の一人旅。 それに、この街には少々似つかわしくない格好。
門番は怪訝そうに目を細めたが、やがてミレイの胸元に輝くブローチへ目を止めた。
「クレシアの卒業証か」
「はい……」
「なら身元は問題ないな。街の中でも、面倒事には近づくなよ」
「え……? そ、それだけですか?」
思わず聞き返す。
クレシア魔導学院は確かに名の知られた学院だ。
だが、超一流というわけでもない。
あまりにも検問が軽い。
門番は苦笑した。
「ここは見ての通り、来訪者に事欠かないからな。身元を証明するものが一つあれば、基本的には通す。一人一人じっくり調べてたら日が変わっても帰れん」
「はぁ……」
「それにな」
門番が周囲へ視線を飛ばす。
「それに――中で妙なことをしようものなら、な?」
つられてミレイも周りを見回した。
人、人、人。
筋肉、筋肉、筋肉。
商人、商人、たまに魔法使い。
そしてまた筋肉。
「…………」
無理だ。
ここで騒ぎなんて起こそうものなら、衛兵が駆けつけるより先に、この筋肉の群れに取り押さえられる未来しか見えない。
全員が大人しく待っているわけでもない。
早くしろとがなり立てる者。露骨に機嫌の悪そうな鉱夫。商人。
端のほうでは、本当に殴り合いの喧嘩まで始まっている。
目は逸らした。
端的に言って、物騒すぎた。
「ははっ。理解が早くて助かる。さすが卒業生殿だ。ほら、次の開門で入ってよし」
「は、はい……!」
黒紫の長髪を振り乱しながら全力で首を振るミレイに、門番は笑った。
「かいもーーーーーーん!!」
それからほどなくして、列の先がにわかに騒がしくなる。
門番たちが慌ただしく持ち場につき、開門の準備が始まった。
よく通る号令が響き渡り、巨大な門が重々しい音を立てながら、ゆっくりと開いていく。
十分大きいと思っていた槌の音がさらに大きくなり、鍛冶場だろうか、いくつもの炉から熱気が上がっている。
店主たちは街道を歩く人々の声に負けまいと、そこかしこで声を張り上げている。
「……わぁ。凄い、凄い……! これが、グランツ……!」
目を輝かせ、行き交う人々を避けながらミレイは街を見渡した。
鉄錆色の街。
それが、第一印象だった。
白や淡い黄を基調にした建物の多いルクシアとは真逆。
グランツの建物は灰色や赤茶の石造りが多く、扉や柱、看板にまで無骨な金属が惜しげなく使われている。
住めればいい。壊れなければいい。
そんな実用性優先の街並み。
かといって、冷たい街かと言われればそうでもない。
行き交う人々の表情は生き生きとしていて、鉱夫の豪快な笑い声がそこかしこから聞こえてくる。
「武器屋や鍛冶場がいっぱい……」
少し目線を下げれば、迎えてくるのは武器と防具の様々な輝き。
オーソドックスな剣。身の丈ほどもある大剣。 鋭い槍。
全身鎧、肩当て、胸当て、巨大な盾、小盾、手甲。
何でもござれだ。
気に入ったものがなければ作るのみ、と言わんばかりに鍛冶場が熱を吹き上げ、槌の音を響かせている。
「あの人たち、もしかして土霊【ドワーフ】だったりして……」
ふと、ある鍛冶場で働く一団へ目が止まった。
小柄な身体。 それに似つかわしくないほど、がっしりとした筋肉。
そして立派な髭。
本で読んだ土霊によく似ている。
本当にそうなのかは、まだ分からない。
それでも。
「凄い……グランツ、凄い……!」
見渡す限り、未知。
本好きの少女の知識欲が、底なしに刺激される。
もっと見たい。 次はあっちへ――。
「あ、と……」
未知への興奮に任せて歩き回っていた足が、とうとう疲労を訴えてつんのめった。
それはそうだ。
慣れない旅。 歩き慣れない道。 初めての野営。 初めての街。初めてづくし。
疲れていないわけがない。
「んー……まだ見たいけど、一旦休憩とろう……」
鈍痛を訴える両足の警告に従い、名残惜しいが散策を中断する。
宿なら、少し見渡すだけでもいくつもある。
高い安いはあるだろうが、今はこの足を休めるほうが先だった。
「確か、宿と酒場って兼用のところ多いんだよね……」
少なくともルミエラでは、酒場と宿屋を兼業している店が多い。
泊まったことはないが。
やがてミレイは、雰囲気だけで一軒の店を選んだ。
看板には――。
【サラマンダーの溜息】
「……ここにしよ」
扉を開けた瞬間。
中は、戦争だった。
「こんばん――っ!?」
「いらっしゃーい!! あれ? 女の子とは珍しい! ご飯なら適当に席ついてー! 宿ならカウンターで待っててー! あとで聞きに行くからー!」
今が夕食時だからというのもあるのだろう。
金属製のジョッキを打ち鳴らす音。 笑い声。怒鳴り声。
なぜか泣き声。
あまりにも凄まじい音響にミレイが顔をしかめていると、その大合奏すら貫いて女性の声が飛んできた。
どうして聞こえるのか不思議である。
言われた通りカウンターで待っていると、しばらくして先ほどの声の主が現れた。
「おまたせ! サラマンダーの溜息へようこそ。ここで店長やってるカルラって言います。よろしくね!」
「え、あ、はい。よ、よろしくお願いします……」
「で、カウンターってことはお泊まり? 女の子一人? 珍しいねぇ……って、そのブローチ。クレシアの卒業生?」
「は、はい……」
「なるほどね。まあ、何か困ったら言いな」
職業柄なのだろうか。情報整理が異様に早い。
ミレイが言葉を探している間にも、カルラは凄まじい勢いで帳面へ何かを書き込んでいく。
「料金は一泊でこれくらい。支払いは出ていく時でいいよ。女の子一人だし、今日はちょっとサービスしといたげる」
「え、あ、は、はい!」
「じゃ、ゆっくりしてってね。はい、鍵! 無くしたら弁償だからねー!」
鍵を押し付けると、カルラは嵐のように去っていった。
「と、とりあえず……荷物……」
ぽかんとしている間に、全部終わっていた。
ここが高いのか安いのかすら、考える暇もなかった。
「カルラさんが、いい人であることを祈ろ……」
これでぼったくられていたら悲しすぎる。
それでも、宿は宿だ。
鍵を開けて部屋へ入る。
こじんまりとした部屋だった。
ベッドが一つ。 小さな机と椅子。
壁際には荷物を置く棚があり、窓辺には小さなランプ。
華美なものは何一つない。
それでも掃除は隅々まで行き届き、使い込まれた木の家具からは不思議な温かみが感じられた。
「はぁーーーー……ベッドだぁ……ふかふかぁ…………」
荷物を脇へ投げ出し、部屋の中央に居座るベッドへ身を投げる。
「もふもふ……ふかふか……うん、カルラさんいい人……」
判断理由、ベッドがふかふかだったから。
それだけで人の善悪を決めてしまう程度には、ミレイは疲れていた。
このまま眠ってしまいたい。
だが、そうもいかない。
サラマンダーの溜息で食事を取るという手もある。
しかし路銀は多くない。
まだ無駄遣いは避けるべきだ。
最重要である宿の確保はできた。 あと、もうひと踏ん張り。
「よし……」
身体へ鞭を打ち、ミレイは夕日が差し込む街へ再び繰り出した。
◇◆◇
「えぇと。水の確保と……保存が利いて、ある程度お腹を満たせるものっていうと……干したものとか、燻製とか、だよね……」
人混みに揉まれながら、なんとか市場へ辿り着く。
水は絶対。
本音を言えば、新鮮な野菜や焼き魚のほうが好きだ。
けれど、旅に持っていくには日持ちがしない。
となれば、ある程度は候補が絞られる。
「あ……」
あれは高い。 これは量が少ない。
うんうん唸りながら探し回った末に、少し大きいが手頃な値段の燻製肉を見つけた。
何日かに分けて食べれば問題ない。
そう考え、手を伸ばす。
「え……?」
「あ……?」
横合いから伸びてきた大きな手と、まったく同時に燻製肉を掴んだ。
ミレイのものより、一回りは大きな手。
その腕を辿るように、恐る恐る視線を上げる。
まず目に入ったのは、使い込まれた肩当てと胸当て。
そして背に負った、持ち主の身の丈にも迫る大剣。
――大きい。
少年、と呼ぶには躊躇するほど背が高い。
さらに顔を上げれば、鋭く吊り上がった赤い瞳と目が合った。
そして何より目につくのが、その髪だった。
どうすればそうなるのかと思うほど、棘のようにあちこちへ跳ねた鮮やかな赤髪。
髪も、瞳も、燃えるような赤。
火が歩いているようだ。
それが、ミレイが彼に抱いた最初の印象だった。
とりあえず染み付いた条件反射でミレイは頭を下げようとしてーー
「何、お前……」
「…………」
ーー固まった。
遠慮も何もなかった。
俺は不機嫌だ。
その感情を一切隠すつもりのない視線が、ミレイへ向けられる。
「え。何って……買うんですが……」
「お前が?」
「……私が」
「何で?」
「…………何で?」
「どう見ても後衛だろ、お前。そんな細い身体でこれ全部食うのかよ」
「食べますけど……」
「俺は前で身体張ってんだよ。こういう腹に溜まるもんはこっちに譲って、向こうの缶詰でも買っとけ」
「…………は?」
何を言っているのだ、この人は。
明らかに、前衛のほうが大変だと決めつけている言い方だった。
基本的には温厚なミレイだが、初対面の相手からここまで一方的に言われては、さすがに少し腹が立つ。
「剣を振り回すだけの前衛さんと違って、こっちは距離とか配置とか、全体を見ないといけないんです……」
「あ?」
「貴方こそ、どうせ何も考えず突っ込むだけなんですから、頭がよくなるようにお魚とかお野菜とか食べたらどうですか……?」
言った。
普段なら、初対面の人間相手に絶対言わないようなことを。
だが、一度出てしまった言葉は戻らない。
「んだと……クソガキ。お前、どうせ前衛がいなきゃ後ろで何も出来ねぇくせに……」
「初対面の相手にいきなり喧嘩をふっかけておいて、クソガキはどっちですか……。そうやって睨んでれば、いつも相手が怯むと思ってるんですか……?」
長身の少年が見下ろしてくる。
ミレイも精一杯睨み返した。
「大きいのは、背丈だけですね……?」
「……てめぇ」
一触即発。
そう思われた――が。
「チッ……だりぃ。やるよ、それ」
「え……?」
意外にも、少年のほうが先に怒気を消した。
燻製肉から手を離す。
「ちょ、ちょっと……!?」
「もういらねぇよ」
ばつが悪そうに後頭部をがりがりと掻き、そのまま人混みの中へ歩き去っていく。
ミレイは、燻製肉を掴んだままぽかんとその背中を見送った。
「……何なんですかー! もう!!」
人混みの向こうへ消えていく赤髪を、腹立たしげに睨みつける。
せっかくグランツまで来たというのに、とんだ災難だった。
――この時のミレイにとっては、本当にそれだけの出来事だった。




