01_難攻不落の文官ロッシと、妄想全開オトメイドのアンナ
王宮の長い廊下を、アンナはリネンのシーツを抱えて足早に歩いていた。
行き先は、王宮の左翼部に位置する執務室の一室。そこに、アンナの癒しがいる。
「アンナ、また縁談を断ったんだって?」
すれ違いざま、同僚のメイドに呆れたように声をかけられた。
「騎士団の若手で、有望株だったんでしょ? あなたのお父様も『あいつなら娘を任せられる』って大喜びしてたのに」
「……私には、まだ早すぎるから」
アンナは曖昧に微笑んで、その場をやり過ごした。
嘘だ。早すぎるなんてことはない。アンナはもう、結婚を焦る同世代が周りに増えてくる年齢だ。父親が心配するのも、上司や同僚が良かれと思って話を持ってくるのも分かっている。
けれど、アンナの心には、もうずっと前から一人の男性がいた。
それは、アンナが王宮に上がって間もない、大雨の日のことだった。
まだ不慣れな仕事で失敗が続き、メイド長に厳しく叱られたアンナは、すっかり落ち込んで人気のない中庭の渡り廊下で涙を堪えていた。
そこに通りかかったのが、大きな書類の束を抱えたロッシだった。
『おや、お嬢さん。そんなところで泣いていると、せっかくの綺麗な顔が台無しだよ』
声をかけられ、アンナは慌てて涙を拭った。見上げれば、眼鏡の奥にあるのは、穏やかで温かい瞳。見知った顔にアンナが父親の同僚だと名乗ると、彼は「ああ、あいつの娘さんか!」と嬉しそうに目を細め、自分のポケットから、少し上質なリネンのハンカチを差し出してくれた。
『慣れない場所での仕事は、誰だって最初は上手くいかないものさ。私も若い頃は、予算書の数字を一つ間違えて、一晩中上司に大目玉を食らったものだよ。……でもね、一生懸命やろうとしている君の姿は、きっと誰かが見てくれている』
そう言って、彼はアンナの頭を優しく、ぽんぽんと撫でてくれたのだ。
自らも仕事が忙しいだろうに、見ず知らずの新人メイドのために足を止め、自分の過去の失敗を冗談を交えて話し励ましてくれた。また、その後もすれ違うたびに、気にかけ話しかけてくれる。
「もう慣れたかい? この頃は随分手際がよくなったとメイド長が話していたよ」
そう言って、ご褒美にと、王室御用達の高級菓子を「内緒だよ」と差し出してくれた。
大きくて温かい手が触れた時、眼鏡の奥の優しく細められた瞳を見た瞬間――アンナの頭の中で、ゴーンと大きく鐘が鳴り響いた。
(なんて素敵なの……! 私がこの人を幸せにしてあげたい……!!)
ただの「父親の友人」が「一人の男性」に、そして「一生をかけて愛すべき未来の旦那様」へと昇格した運命の瞬間だった。
それ以来、アンナの不屈の片想いと、限界突破の妄想大暴走が幕を開けたのである。
彼の名は、レオナルド・ロッシ。
王宮に勤める中堅の文官で、アンナの父親の学園時代の同級生。眼鏡の優しそうな人で、いつも少し疲れた様子で大量の書類と向き合っている人。
彼には、二度の悲しい別れがあった。
一度目の妻とは、若き日に病で死別。
二度目の妻とは、文官としての忙しさとすれ違いから、十年ほど前に離婚。
『私はもう、誰かを幸せにできる自信も、時間もない。今後は独り身で人生を全うするつもりだよ』
同僚の文官に酒の席でそう漏らしていたという噂は、王宮のメイドたちの間で有名だった。親子ほどの年の差で、身分違いな上に本人が「結婚しない」と公言している。
まさに難攻不落、アンナの恋は始まる前から詰んでいた。
「でも……好きになるのは、私の自由だもの」
執務室の前で、アンナは小さく呼吸を整えてから、控えめに扉をノックした。
「失礼いたします。リネンの交換に参りました、アンナ・モンテローザです」
「ああ、アンナさん。いつもすまないね。どうぞ」
中から聞こえた、少し低くて落ち着いた声。それだけで、アンナの胸はときめいた。
「お仕事、お疲れさまです。ロッシ様」
「ありがとう。この時期は予算編成で、忙しくてね。目が疲れるな」
ロッシは眼鏡を外し、眉間を指で揉んでいる。その、貴重な眼鏡なしの顔と少し疲れた大人の色気に、アンナは内心で悲鳴を上げる。
(ああ、眼鏡を外した顔も素敵だわ! もし私がロッシ様の妻になれたら……!)
アンナの脳内で、いつもの妄想が高速で展開され始める。それは彼女の毎日の楽しみであり、最高の原動力だった。
【妄想その①:夜食の差し入れから始まる恋】
深夜、誰もいない執務室で、疲れ果てた彼に、私は特製のスープを持っていくの。
『アンナ、君のスープはいつも温かいね』
『ロッシ様の冷えた心を温めたいのです』
『……君が隣にいてくれたら、私の夜も寂しくないのかもしれないな』
なんて言われて、そのまま彼の手が私の頬に……!
はぁ、いけない。仕事中なのに……
待って、外のシチュエーションも悪くないわ。
【妄想その②:身分差を乗り越える、突然の雨宿り】
王宮の庭園で急に大雨に降られて、二人きりで東屋に駆け込むの。
濡れてしまった私を心配して、彼が自分の上着をかけながら私に囁くのよ
『冷えただろう、アンナ。……すまない、嫁入り前なのに。私が少しでも君をあたためられたらいいんだが』
って、抱きしめられるのよ……!
「……アンナさん?」
「はいっ!?」
妄想に没頭するあまり、テーブルクロスを抱きしめたままフリーズしていたアンナは、目の前に迫ったロッシの顔に飛び上がった。
いつの間にか彼が机から立ち上がり、心配そうに覗き込んできていたのだ。
「どうかしたかい? 顔がすごく赤いけれど……熱でもあるのかな」
「い、いえ! なんでもありません! 部屋の温度が高いなと思いまして!」
「そうかな? 少し窓を開けようか。無理をしてはいけないよ。君に倒れられたら、君のお父上に顔向けができないからね」
そう言って窓を開けるロッシ。その背中を見つめながら、アンナはきゅっと唇をすぼめた。
(ロッシ様にとって私はしょせん同僚の娘よね…… 一人の女の子として見てもらいたいなぁ)
身分違い、年齢差、そして彼の心の傷。
クリアしなければならない障害は山積みで、今のところアンナの妄想が現実になる兆しは、一ミリもない。
「どうやったら、ロッシ様と結婚できるかしら……」
帰り道、夕日が照らす王宮の廊下で、アンナはぽつりと呟いた。
道のりは遠く、果てしない。
けれど、あの不器用で優しい文官の心の鍵を開けられるのは自分だけだと、アンナは今日も健気に、そしてちょっぴり不純な妄想を膨らませながら、彼を想い続けるのだった。




