第十七話 協力者
『アテン』
そう書かれた白い小さなプレートが、ドアに提げられていた。
妙に丸っこい文字で書かれており、それが微妙に腹立たしく感じられる。
「……………」
フォルツは固まった表情でそれを見ていた。
「フォルツさん?入らないんですか?」
「入らねえよ!!!!」
怪異から逃れて以来、マルクに引っ張られるまま付いてきたフォルツだったが、流石にここで足を止めた。
「キミ、アテンと同居してたのか!?連れ去られたのは知ってるが、正気じゃない!!あんな腐れ太陽と!!」
「く、腐れ太陽?」
マルクが首を傾げた。
「そうだよ!前の前の前の、その前の夜会でだ!オレ様が何時間もかけてセットした髪型を『似合ってないナ』と切り捨てやがった!腐ってんだよ!あいつは!腐った太陽だ!」
「え、えっと……フォルツさん……」
ヒートアップするフォルツの背後をマルクが、じっと見つめていた。
「なんだよ!まさかそこにいるって言うのかい!?いるんだったら今すぐあの太陽頭をガッと掴んで、サンサンサンサン鳴かせてや——」
後頭部が高温を感じ取り、フォルツはギギギと後ろを振り返った。
「吾輩の頭は熱いからネ。掴むなら気を付けたまエ」
目の前に太陽。
じわり、額から汗が流れた。
フォルツは言葉を止める。
まるで真夏の日差しを至近距離で浴びているような熱量だった。
「それに、吾輩はサンサンとは鳴かないネ」
「は、はい」
「まあ、せっかくダ。少し休んでいくといイ。もてなすヨ」
アテンは固まるフォルツの腰に手を添え、そのまま家の中へ招き入れた。
「マルク、君も来るんだヨ」
「あ、はい」
マルクは二人を追うように、部屋の中へと入った。
◇
マルクとフォルツは机を挟み、向かい合って座っていた。
マルクの隣にはアテンが腕を組んで腰掛けていた。
三者面談みたいだな。
そんな場違いな感想を抱きながら、フォルツはこほんと咳払いをした。
「マルク、さっきのはなんだ?」
「……さっきの?」
マルクは心当たりが無いように首を傾げた。
「とぼけるな。なんかしただろ。あの化け物から逃げる時だ」
フォルツが眉をひそめた。
まるで意識ごと、深い奈落へ沈んでいくような感覚。
自分という存在が溶けていくようだった。
——しかし、母の胸に抱かれているようでもあった。
ぞわり、と背筋を寒気が駆け上がる。
フォルツは目の前の少年を見つめた。
「あれは、キミの能力か?」
マルクは視線を落とした。
膝の上で、自分の手を見つめる。
「……分かりません」
「分からない?」
フォルツの目が細められる。
「はい……」
部屋を沈黙が満たす。
マルクは自分の胸元へそっと手を当てた。
「でも。心の奥で、多分こう思ったんです」
——みんな消えちゃえば、助かるかもって。
全身の産毛が逆立った。
フォルツは無意識に身を引いた。
消えれば、助かる?
馬鹿を言え、消えたら何も無い。
それは死ぬのと変わらない。
「マルクの魂は空っぽダ」
アテンが横から口を挟んだ。
フォルツは腕を組み、黙って続きを促した。
「だが、その本質は少し違う。それは“無”さえ吸い込むほどの、完璧な“虚”ダ」
アテンが言い切った。
「……っ」
フォルツの目が見開かれた。
フォルツの脳裏に、あの時の感覚が蘇る。
魂が剥がされたわけではない。
消滅したわけでもない。
ただ、自分という存在そのものが、どこまでも沈んでいった。
魂を扱う者だからこそ分かる。
あれは破壊ではない。
「そういうことか……」
「……フォルツさん?」
「キミはオレ様を、いや自分自身さえも、飲み込んだんだ。その空虚でね」
「……えっと」
マルクは困ったように視線を泳がせた。
「キミの空っぽは、全てを飲み込む“虚”。その能力で、我々の“存在のみ”を奪った。体や人格を、現世に置き去りにしたまま」
マルクは首を傾げた。
自分の話をされているはずなのに、どこか他人事のように聞こえた。
「オレ様たちは、あの場にいながら、“いないことに”された。あの瞬間、世界から切り離されてたんだ」
言って、フォルツは改めてマルクを見つめた。
底知れない恐怖が心を満たす。
一歩間違えば、二度と帰ってくることはできなかっただろう。
自分という輪郭さえ失ったまま、永遠へと沈み続けることになったはずだ。
それに、あんな力をマルクだって無事で使えるはずがない。
こうして何事もなく座っていること自体、本来なら奇跡に近かった。
フォルツは目の前の少年を、改めて得体の知れないものを見るような目で見つめた。
マルクは思う。
フォルツは自分を恐れている。
あの能力はもう使うべきではないかもしれない。
この依頼からも、手を引くべきかも知れない。
だが。
それでも。
マルクは自分を知りたかった。
そのためには——絶対にあの報酬が必要だ。
「アテン、頼みがあります」
「嫌だネ」
アテンは窓の外を見ながら、面倒そうに言った。
「まだ何も言ってません!」
マルクが机に両手をつき、声を荒げた。
「依頼に協力しろっていうんだロ?前に言ったロ、吾輩は君の保護者でも友達でもなイ。君の遊びに付き合ってる暇はないんだヨ」
「こ、これは遊びじゃ——」
「“アレ”に近付くべきじゃなイ」
アテンは一瞬だけ、何かを思い出すように目を細めた。
「それに」
アテンはそこでようやく、マルクの目を見つめた。
「キミは今のままでいイ」
「……っ」
それは慰めの言葉ではない。
マルクには、前へ進むなと言われたように聞こえた。
アテンは立ち上がり、部屋から出ていった。
マルクは俯いたまま、奥歯を強く噛み締めた。
部屋に沈黙が落ちる。
ふと、マルクが顔を上げた。
「…………フォルツさん」
「オレ様もパスだな」
フォルツの言葉に、マルクの顔に絶望が浮かんだ。
「アテンと一緒だ。キミを手伝う義理がない」
フォルツは肩を竦める。
「それにあの化け物は危険すぎる。一言で言うなら“異質”だ」
「異質……?」
「ああ。都市の霧の正体、それは、その土地に残る情報、記憶、古代文明の傷跡、様々なものを質量として現世に呼び起こす装置だ」
まあ諸説あるが、とフォルツは続ける。
「死んだ人間の怨念や執念が現界する、まあ、それは珍しくもない。ただ、あれは違う」
「違う、というのは?」
「あれは元々質量をもった存在が、霧の力で変質したものだ。無理やり質量を持たされたハリボテとは違う」
「どういうことでしょうか……?」
マルクの頭はパンク寸前だ。
フォルツは机を指先で軽く叩き、告げる。
「あれは生きた人間——そう言っているんだ」
「……………………え?」
マルクが唖然としたように動きを止めた。
「だから厄介なんだ」
フォルツは顔をしかめた。
「あれには魂がある。しかも霧に侵され、醜く、極限まで膨れ上がった魂だ。人間が太刀打ちできる相手じゃない」
フォルツは低く呟いた。
「——だからオレ様もパス。割に合わない」
その言葉に、マルクは唇を噛んだ。
サンダーを圧倒し、尚も余裕を見せていたフォルツに、こうも言わせる怪物だ。
自分ひとりでは、太刀打ちできるはずもない。
「じゃあ、オレ様はこれで失礼する」
マルクの顔を一瞥し、フォルツは立ち上がった。
靴音が遠ざかる。
「フォルツさん!!」
まずい。
このまま行かせたら終わりだ。
きっと、もうチャンスは訪れない。
自分は一生、自分に辿り着けないのではないか。
そんな恐れがマルクを支配する。
考えろ。
考えろ。
考えろ。
一言。
一言でいい。
一歩。また一歩。
靴音が出口へと向かっていく。
必要なのは。
フォルツを引き止める一言。
フォルツが望む一言。
——フォルツが望まない一言。
瞬間。
ひとつの映像が、マルクの頭の中を流れた。
【淵】の発動により、自分の中へとゆっくりと沈んでいくフォルツの姿。
その時の、フォルツの考え、想い。
マルクは自然と口を開いていた。
「フォルツ、お前、自分が嫌いなんじゃないか?」
「………………は?」
フォルツの足が止まった。
「今、なんて言った?」
振り向き、表情のない顔でマルクを見た。
マルクは立ち上がった。
「違う?」
「…………」
フォルツは答えない。
ただ、マルクを見ていた。
怒っているわけではない。
だが、その沈黙は怒声よりも重かった。
「気に入らないな」
ぽつり、フォルツが呟いた。
コツ。
フォルツが一歩、前へ出た。
コツ。
さらに一歩。
ゆっくりと、マルクとの距離を詰めていく。
「見透かしたような、嫌な目だ」
足が止まる。
互いの表情がはっきり見える距離だった。
「…………」
フォルツの目が、値踏みするように細められる。
そんなフォルツを、マルクも真っ直ぐな瞳で見つめ返した。
数秒。
いや、それよりも長かったかもしれない。
フォルツは小さく息を吐いた。
「……なるほどな」
「?」
「いや」
「………………いいだろう」
沈黙を破るようにフォルツは呟いた。
「協力してやろう」
「っ!!じゃあ——」
「その代わり」
フォルツがマルクの襟を掴み、額を突き合わせる。
「二度とオレ様を“覗く”な」
その瞳には、何も映っていなかった。
瞬間、マルクが全身の力が抜けたように、地面へとへたり込む。
「よかった〜!」
フォルツがぽかんと口を開けた。
「協力してくれなかったら、どうしようかと思いました」
ありがとう、フォルツさん。
そう言ってマルクが笑った。
ついさっきまでの緊張感など、微塵も感じられない。
本当に、よく分からない奴だ。
やがて、フォルツははぁと深いため息を吐いた。
「もうフォルツでいい」
フォルツは頭の後ろを掻きながら、吐き捨てるように言った。
マルクが顔を綻ばせる。
「え!じゃあ“お前”もいい?フォルツ!」
「“お前は”なしだぁ!!」
フォルツの叫び声が部屋に反響した。
——フォルツは考える。
自分は、この少年から大きなものを得るだろう。
直感だった。
“それ”が何かは分からない。
確証もない。
だが、それはきっと、鮮烈なものだ。
この“大嫌い”な自分を殺してくれるほどの
破壊的なものだ。




