夕暮れの中庭
学院長室を後にしたカナは、胸の奥で渦巻く不安を抱えたまま歩いていた。
気がつけば、学院の中庭。
夕暮れの風が静かに木々を揺らし、噴水の水音だけが響いている。
生徒たちの声も遠く、ここだけが別世界のように静まり返っていた。
(……精霊の森に異変って……どういうことなんだろう……)
胸の奥がざわめく。
優しい風と囁き、温かな森の匂い。
(……シルヴィア……)
カナの指が、ペンダントに触れる。
森の中で現れた、風の精霊王。
(周囲の住民にも影響が、って言ってた……。
もし、村の人たちに危険があったら……)
エダンやマリナの優しい顔、無邪気なティオや、
優しい村人、元気な子供たちの顔が、目の前に浮かんでは消える。
(あ、ダメだ……)
不安が膨らみ、ぎゅっと手を握る。
ほろっと涙がこぼれ、唇を噛みしめたその時、背後から優しい声が降りてきた。
「……そんなに不安そうな顔をして、どうした?」
はっと振り返ると、レイナルトが立っていた。
夕焼けを背にしたその姿はどこか柔らかく、それでいて王子らしい凛々しさを漂わせている。
「……レイナルト、様……」
声を詰まらせるカナの前に、レイナルトはゆっくり歩み寄った。
そして、そっとカナの肩に手を置き、真摯な眼差しを向ける。
「森のことが……心配なのだろう?」
その声に、カナは言葉を失いながらも、小さく頷いた。
「……はい……フェイル村や……あの森の精霊たちが……もし……」
最後まで言えず、俯くカナを、レイナルトはためらいなく抱き寄せた。
その腕は驚くほどあたたかく、胸の鼓動がすぐ近くで響く。
「大丈夫だ」
低く、しかし優しく響く声が耳元をくすぐる。
「君が行けば、必ず精霊たちが応えてくれる。
それに……俺も、ずっと見守っている」
心の奥がじんわりと温かくなる。
レイナルトは懐から、小さな銀のブレスレットを取り出した。
光を象った繊細な飾りが、夕陽を受けてやわらかに輝く。
「これは……?」
カナが問いかけると、レイナルトは穏やかに微笑んだ。
「お守りだ。……旅の間、これをつけていてほしい」
そう言って、レイナルトはカナの手首をそっと取る。
指先が触れるたび、くすぐったいような温もりが伝わってくる。
ブレスレットを丁寧に巻き、留め具を留めたあと――
レイナルトはその細い手首を自分の方へ引き寄せ、唇をそっと寄せた。
銀の飾りに触れる柔らかな口づけ。
その一瞬、カナの心臓は跳ね上がり、胸いっぱいに熱が広がる。
「……必ず、無事に帰ってこい」
レイナルトは唇を離し、静かな声でそう告げる。
真剣な瞳に見つめられ、カナは震えるように小さく頷いた。
カナは涙をこらえながら、ブレスレットを見つめ、小さく頷いた。
「……はい……ありがとうございます、レイナルト様……」
夕焼けに照らされる中庭で、二人の間に流れる時間はゆっくりと、けれど確かに深まっていった。
*
風が二人の髪を揺らし、噴水の水音だけが静かに響く。
やがてレイナルトは、カナの手をそっと握り直し、絞り出すような低い声で言った。
「……本当は、俺が一緒に行きたい……」
その声には、王子としての威厳ではなく、ひとりの青年としての本音が滲んでいる。
カナは驚いて見上げた。
レイナルトの瞳には強い光と、どうしようもない不安が混じっていた。
「君を、あいつに任せたくはない……」
指先に力がこもる。
「けれど……学院長の判断が正しいことも、わかっている」
レイナルトは唇を噛み、目を閉じて短く息をつく。
「……だから、せめて……このお守りだけは持っていってほしい。
君の無事を祈ることしか、今の俺にはできないから」
胸が熱くなり、カナは言葉を失った。
ただ、レイナルトの手を握り返し、小さく震える声で答える。
「……必ず……戻ってきます……レイナルト様のところに……」
その一言に、レイナルトの瞳がわずかに潤む。
けれど彼はすぐに表情を整え、優しく微笑んだ。
「……そうだ。必ず戻ってこい、カナ」
夕焼けがゆっくりと夜に溶けていく中、二人の手はいつまでも離れることなく、
静かな温もりを分かち合っていた。




