静かな村に響く蹄音
その日の朝は、いつもと変わらない、穏やかな陽射しに包まれていた。
カナはエダンの頼みで、少し離れた村の外れまで、薬草の束を届けに出かけていた。
朝の光の中、一本の馬車が村の坂道をゆっくりと登ってきた。
それはこの辺りの農村では滅多に見ない、重厚な黒の馬車。
車体には金の紋章が刻まれている――王家直属の使者であることを示すものだった。
村の子どもたちが遠巻きに見守る中、馬車は村の入り口に止まった。
扉が開くと、中から現れたのは、深い藍の上衣に身を包んだ若い男性だった。
背は高く、鋭い目を持ち、腰には細身の剣を携えている。
随行の文官らしき初老の男が、その後ろに続いた。
「このような辺境に王都の使いが……?」
村長のエダンは、戸口まで出てきて眉をひそめた。
それでも礼儀正しく一礼し、中へと誘う。
使者の青年が口を開いた。
「フェイル村の村長殿。私は王都より参りました、
精霊庁付きの使者、エリアス・グランと申します」
「王都の……精霊庁? 一体何のご用で……」
「――この村に、精霊の声が聞こえる少女がいると、報告がありました」
エダンとマリナの表情が固まる。
一瞬、風が村の空気をかき乱したかのように、ざわりと葉が揺れた。
エリアスは続ける。
「私どもは正式な確認と、王都への招致のために参りました」
マリナは身をこわばらせる。
「招致……ですって?」
使者の後ろにいた文官が、懐から羊皮紙を取り出して差し出した。
そこには、王家印と精霊庁長官の名が並んでいた。
「これが勅命です。
該当の少女を、王立学院へと迎え入れる準備が整っております。
王都において適切な保護と育成がなされるでしょう」
言葉こそ丁寧だが、その語り口には容赦がなかった。
村長は紙を受け取り、黙って目を通した。
眉間に深い皺が寄る。
「我々は、王都の大聖堂にて確認を行うことを第一の目的としています。
あくまで正式な検査の結果次第ではありますが、
才能が確かなものであれば……相応の地位と教育を保証する、と王家は約束しています」
マリナは眉をひそめ、小さく息を吸い込む。
「ですが……カナは、まだ子どもです。
私たちにとっては、かけがえのない家族も同然なんです。急にそんな――」
マリナの声が震えた。
エダンがそっと手を重ね、妻をなだめるようにしながらも、真剣な眼差しでエリアスに向き直った。
「……カナは、今は外しております。
命令とあらば、我らは逆らえぬ立場だが……カナに直接話すことを望まれますか?」
「いえ、今日のところは滞在先の宿で待機いたします。
明日、改めてお伺いしましょう。ですが、猶予はあまりありません」
エリアスの言葉に、村長は目を細めた。
「……わかりました。明日、本人に会わせましょう」
青年は席を立つと、一歩下がって頭を下げ、
村の宿へと向かって行った。
*
その頃、カナは小さな籠を提げ、草花の香り漂う小道を歩いていた。
手には届けた薬草の代わりに、分けてもらった野菜や果物。
木々の間から差し込む光が、彼女の髪にきらめいていた。
ふと、村の入り口に立つ、大きな馬車が視界に入った。
見慣れない黒塗りの車体に、背の高い馬が二頭。
「……わ……あれって馬車?だよね?……初めて見るかも」
何気なくつぶやいたその声に、自分でも少し驚いた。
心に浮かんだのは、ほんのかすかな不安だった。
何か村にあったのだろうか。
「ただいま戻りました」
声をかけながら屋敷のドアを開けると、
いつもは優しい笑顔で迎えてくれるマリナが、少しだけ顔をこわばらせていた。
エダンもまた、言葉少なに「おかえり、カナ」とだけ告げる。
ふたりの雰囲気から、カナは何かを感じ取った。
「……ただいま。
あの、さっき村の入り口で、紋章の入った馬車を見たんです。
村に……何かあったんですか?」
そう問いかけながらも、カナはまだ、その出来事が自分に関わるとは思っていなかった。
空には、さっきまでなかった白い雲がふわりと流れはじめていた。
その日を境に、カナの運命は少しずつ、けれど確実に、動き始めていた。