第二章・雪辱戦・その二
巻網媛は後部信号楼の中央部にある漏斗型の見張り所にいました。
前部信号楼を選ばなかったのは、初心者の玉網媛が、歩と一緒に大艫(後甲板の後端)で釣りを始めたからです(小夜理はキラキラ中ですしばらくお待ちください)。
由宇たち古参組は前甲板で釣行中。
こちらは艦釣り初心者ではないので、見守る必要はありません。
魔海での悪樓釣りとは異なり、本物の海での釣りなので、全員巫女服の上に救命胴衣を着用しています。
空は曇天、波は少し高めの二メートル。
船釣りには絶好の条件ですが、水上船舶に慣れていない玉網媛には少々きつい模様。
神力でどうにか甲板に貼りついていますが、なかなか釣りに集中できません。
『ええと、糸巻きを指で押さえて竿を振るんですね?』
小型通信機をつけているので巻網媛にも会話が聞こえます。
ただし送信を切っているので、こちらの声は届きません。
『いや離していいから。そもそも投げなくていいから』
歩による釣り指南は難航しているようです。
『竿を前に出したらハンドルから手を離して仕掛けを落とす。あとは適当なところで糸を止めて、竿を上下させながら少しづつ巻き上げるんだ』
現代日本なら、二十五メートルごとに色分けされた釣り糸がありますが、ナイロンやフロロカーボンの糸など存在しない弥祖皇国には、半透明の天蚕糸しかありません。
水深は手探り、勘で覚えるしかないのです。
『はあ……これで本当に魚が釣れるのでしょうか?』
玉網媛は今回の魔海釣行が初めてで、本物の釣りに至っては、実物を見た事もありません。
神楽杖の扱いなら知識として身につけていますが、こちらは片軸受け糸車が標準で、両軸受け糸車の扱い方なんて知りません。
それでも真面目な玉網媛は、歩の説明を必死に覚えて、どうにか仕掛けを海に落としました。
左右が樽のように膨らんでいる玉髄ですが、艦尾付近はそれほどでもありません。
玉網媛の仕掛けは海にまっすぐ落ちて沈み始めました。
「うむ、歩殿は教え上手じゃ」
巻網媛もひと安心。
しばらく眺めていると、船酔いから復活した小夜理が釣りに参加しました。
「どうやら儂の出番はなさそうじゃな……」
転落事故が起こった時のために待機していた巻網媛ですが、魔海と違って救命胴衣は頼りになるし、いざとなれば海難救助の専門家である水兵さんたちが出動してくれます。
しかし玉網媛になにかあれば、外遊で海外に出ている宝利命に申し訳が立ちません。
謝罪の概念を持たない巻網媛ですが、贖罪のやり方くらいは知っていました。
いつか宝利が弥祖に帰ってきた時のために、それまでに顔を合わせる勇気を養い、あらん限りの代償を支払う。
いまはそれだけが生きる意味。
玉網媛の顔を直視するたびに、五年前の出来事を思い出して震え上がる巻網媛ですが、宝利本人でなければ糾弾されても平気です。
一人前の神官に育てるのは、あくまで職務。
宝利に賠償する際、目撃者である玉網媛が立ち会うのが筋と考えている程度です。
あの事件で玉網媛が自分をどう思っているかは、また別の話。
弟を殴られた姉が犯人に憎悪を抱くのは同然ですし、復讐されるなら、それはそれで仕方ありません。
むしろ罰せられて安心してしまうのが怖いとすら思っていました。
でも、そんな事とは関係なく、姪の心配をするのは叔母として当然。
数えで十六になろうとも、可愛い可愛い可愛い姪っ子なのです。
『釣れた! 釣れましたよ歩様!』
玉網媛がビギナーズラックを決めたようです。
「よしっ、でかした!」
思わず手摺を握る両手に力が籠りますグニャグニャ曲がってます。
『おおっ、マサバじゃん!』
初の獲物は普通よりちょっと大きめで、三十センチちょっと。
『……でもこれなんか変じゃね?』
『いえ真鯖ですよ? ごく普通の鯖です』
玉網媛は皇族とはいえ、サバの形くらいは知っていました。
『異世界だからかなぁ? うちのはこんなトゲトゲしてねぇぜ?』
玉網媛は把手をクルクル回してサバを引き上げます。
ブルブルブルブルブルブルブルブルッ!
マサバが小刻みに震えました。
『お魚って発動機みたい!』
弥祖にも発酵燃料を使った内燃機関が存在し、自動車などに使われています。
『凄ぇだろ? サバ科の魚は特に震えるんだ』
歩は会話しながら縄のついた馬穴で海水を汲み上げました。
玉網媛は、釣れた魚から鈎も外さず放り込みます。
『蕃神様って、いつもこんな……魚を……これ楽しいです!』
距離は離れていても、声だけでも、玉網媛が目を輝かせているのがわかりました。
『よっしゃ! じゃあ、どんどん釣ろうぜ! 乗組員全員分だ!』
『八百人以上もおりますよ⁉』
『そりゃ大変だ。だったら、なおさ急ごうぜ!』
『はいっ!』
『……っと、忘れるとこだった。サバ折りしねぇとな』
歩はバケツからブルブル震える釣れたばかりのサバを取り出して、口吻から鈎を外すと、鰓に指を入れて首をポッキリとへし折りました。
引き千切られた喉から血がビュービュー噴き出します。
『キャ――――ッ‼』
『サバは足が早ぇからな。血抜きしねぇと血液中の酵素が筋肉を溶かして……って、あれ?』
歩が振り返ると、玉網媛は甲板に倒れていました。
白目を剥いていました。




