序章・その二
渕沼小夜理は家のお仕事が嫌いでした。
釣り宿【いさば丸】。
遊漁船(釣り船)【いさば丸】を運行して釣り客を乗せて魚の群れを探してお客さんに釣りをさせる簡易宿泊施設です。
業務は早朝の出航に備えて宿泊するお客さんへの応対や食事の提供、船で釣り道具やクーラーボックスの荷揚げや荷下ろし、釣行のあとは釣った魚を調理したりします。
力仕事も板前仕事も嫌いではありませんが、肝心の船が悩みの種。
小夜理は乗り物が苦手なのです。
船に乗っては吐き、なにかを口にしては吐き、吐かないと一時的とはいえ船酔いが治まりません。
長男坊の佐一が、廃業した漁家の娘さんと結婚したおかげで人手不足が解消され、運行中のお手伝いだけは放免されたのですが、荷役で停泊中のいさば丸に乗るだけでグッタリしてしまうのが現状です。
この日も小夜理は朝の仕事を終えて、船着き場で吐いてから。防波堤でゴロゴロと日向ぼっこをしながら船酔いを覚ましていました。
「お前ぇ、釣りは好きか?」
薄目を開けると、目の前に金髪の少女がいました。
確か小夜理と同い年で、親ぐるみのつきあいがある磯鶴神社の子供です。
ドイツ系クォーターで、高校生のお姉さんがいるとかいないとか聞いています。
「釣り宿の子だっけ? いさば丸が出航するの見たけど、お前ぇは乗らねぇのか?」
小夜理はこの少女が嫌いです。
学校や神社のお祭りや町内のイベントで幾度となく見かけますが、いつも釣りの話ばかりしているので、釣り宿の娘だからと密着されないように、要注意人物として常に距離を置いてきました。
それが船酔いで弱ったところを強襲されるとは……。
「釣りは嫌いです。大嫌いです」
起き上がって防波堤から降りると、目の前に巨大なビーチボールが二つも並んでいました。
迷彩柄のタンクトップから大人用のレースつきブラジャーがはみ出しています。
『いつの間にこんな……⁉』
前に見た時は、こんなに大きくなかった……というか小夜理と同じサイズ、つまり限りなくゼロだったはず。
この金髪少女が嫌いな理由が二つに増えました。
「そうか釣りは嫌いかぁ……」
わかったら、さっさとあっち行ってください。
そう念じる小夜理ですが、親同士のつきあいがある家の子を無碍にする訳にも行きません。
「じゃあ俺と釣りしようぜ!」
「あなた話聞いてました⁉」
嫌いな理由が三つに増えました。
この少女は人の話を聞いてくれません。
「なんで釣りが嫌いなんだ?」
「船酔いするからです。乗り物はみんな嫌いです」
学校の遠足でもバスに乗るたびに吐くので、小夜理はクラスの嫌われ者でした。
そして何度も上履きを盗まれてはゴミ箱に捨てられました。
ある日、焼却炉からサルベージした上履きに油性ペンで【ゲ〇女】と書かれていたので、翌日スマホで犯行現場を押さえて動画サイトにモザイクつきで投稿、そして動画のURLを添えた証拠写真を犯人の下足箱に入れたのです。
もちろんその子の上履きには、たっぷりと〇ロを注入しています。
平穏な日々が戻りました。
誰にも話しかけられませんが、それは元からです。
要するに渕沼小夜理は嫌な子でした。
「船なんか乗らなくても釣りはできるぞ?」
いきなり竿を渡されました。
「エサはジャリメしか持ってねぇ。ハゼでも釣るか」
小夜理の竿に小型の穴釣り仕掛けを繋ぐ少女。
この金髪、自由すぎる。
「ほれ。エサくれぇ自分でつけられるだろ?」
エサ箱を渡されて、小夜理は思わず中のジャリメを鈎につけてしまいました。
船でお客さんに散々エサづけを教えたので、本能的かつ反射的にやってしまうのです。
「おおっ、巧ぇじゃねぇか。俺より早ぇ」
餌までつけてしまったのでは、もう後戻りはできません。
小夜理は竿の弾力だけでヒョイと仕掛けを海に放り込みます。
「ベイトタックルでそのキャスティングは凄ぇな。手慣れたもんだ」
ベイトリールは糸巻きが横についていて、スピニングリールより扱いが難しく、ちょっとの油断で糸がゴチャゴチャになってしまうのです。
「これくらい普通です」
リールを巻きながらチョイチョイと海底の穴を探し、たちまち一尾釣り上げました。
「アナハゼだぁ!」
マハゼと同じくらいのサイズと魚形ですが、スズキ目ハゼ科のマハゼとは完全な別種で、カサゴ目カジカ科の魚です。
ちょっとトゲトゲしていて、ハゼと違ってお腹のヒレが吸盤になっていません。
「じゃ、これ返しますね」
小夜理はノルマ達成を主張して、さっさと逃げ出そうと考えていました。
「……なにいってんだ? 一尾じゃ三時のおやつにゃなんねぇだろ」
許してくれませんでした金髪。
「おやつに魚食べる気ですかあなたは⁉」
「あったりめぇだろ! 三食デザートおやつに夜食、浜っ子が魚食わねぇでどーすんだ⁉」
いかれてますこの金髪。
「小魚はカルシウムと鉄分が豊富なんだ! 食わねぇと大きくなれねぇぞ!」
「……………………」
小夜理は目の前の少女が、大柄でアレが大きい理由がわかった気がしました。
このミルクタンク……中身にカルシウムが過剰に添加されているッッ‼
「……エサ箱ください」
上面にメッシュとファスナーとロープのついたビニール製のバケツにアナハゼを放り込み、鈎に残ったジャリメの残骸を指先でピンッと弾き飛ばします。
「よっしゃ、そうこなくっちゃ!」
バケツのファスナーを閉じて、海に放り込んで水を汲み、ロープで引き上げる金髪。
「名前、教えてください」
「知らなかったのか? 俺は日暮坂歩フォレーレ。あの山に……」
「それは知ってます。神社の子でしょう?」
「そうそう。まあよろしくな、マキエ」
「私は小夜理です!」
「マキエだろ?」
「だから私は……あれ?」
なんだか記憶野の片隅がムズムズします。
開いてはいけない扉が開きそうな予感。
「あ……ああっ、まさか……そんなのありえない」
「あるもねぇもねぇだろ。お前ぇはマキエだ」
そう……初めていさば丸に乗った、磯鶴幼稚園年長組だった頃のふちぬまさより。
釣り竿を握ったまま船べりで吐く小夜理と、その背中を撫でてくれた金髪の幼女。
「あの時の……?」
自分の釣り竿を放り出して背中を撫でてくれた金髪の幼稚園児。
撫でながら、しきりに『撒き餌、撒き餌』と囃し立てていた、年齢的にどうかしている発言を繰り返していた金髪のお客さん。
「あの時の変な子⁉」
記憶の封印が、たったいま解かれました。
「思い出があんまりな形に変容してるだとぉ⁉」
「いいえ事実のまんまです! おかげであのあと、しばらく家族にマキエ呼ばわりされたんですよ!」
「そもそも年少組じゃ一緒の組だったんだぜ⁉ あと小学二年の時! なんで覚えてねぇかなぁ⁉」
「髪を染めてる子もいたから金髪の見分けなんてつきません!」
クラスに馴染めなかった小夜理は、クラスメイトの顔と名前をほとんど覚えていません。
覚えているのは、忘れられないのは、報復対象としてロックオンした子たちだけ。
片やクラスの爪弾き者。
片やクラスの人気者、ただし男子限定、しかも過去形。
五年以上もの間、まるで縁のなかった二人が、再び同じ道を歩み始めた小学五年の夏休み。
まさか、このあと高校生になっても釣りにつき合わされ続けるとは、小夜理は想像もつきませんでした。
「ふう~ん。それでどうなったの~?」
「どうもこうもありません。二人でずっと釣りばっかりやってました」
ポチャンピチャンと雨漏りの音がうるさいオンボロバラック部室小屋。
稲庭八尋と姉の風子は、古い中華料理店にあるようなガタガタのテーブルに肘をついて、小夜理の思い出話を聞いていました。
メインディッシュもといメインおやつのウミタナゴを、カセットコンロで焼きながらの昔話でした。
ウミタナゴは先日、八尋たち四人で釣って開き干しにしたものです。
「それだけなの?」
「由宇さんに会って、お守りもらって無理矢理召喚されたりとか、いろいろありましたが……」
日暮坂由宇は歩の姉で、磯鶴高校の教師と船釣り部の顧問をしています。
「歩、ちょっと畑で大根取ってきてください。おろして、つけ合わせにしましょう」
部室小屋のすぐ隣には家庭菜園があります。
「おっけー。じゃあ行ってくる」
旧東ドイツ軍払下げのレインドロップ迷彩ポンチョを被り、これまた払下げのEツール(スコップ)を持って、立てつけの悪い扉をガタガタと開ける歩。
「あの畑、大根もあるんだね」
「農家の子にいろいろ教えてもらいましたから、本格的な野菜が作れるんですよ」
昔と違って、いまの小夜理には女子の友人がそれなりに存在します。
中学に入ってから、いつでもどこでも吐ける特殊スキルを会得したので、バスの中で吐いて周囲に迷惑をかける事もなくなりました。
「おお~っ」
「そういえば雨の日に畑の大根を盗むタコの伝説がありましてね……」
JKたちの暇潰しは、まだまだ続きそうです。