第一話 三十歳の誕生日
スマートフォンのアラームが鳴った。
「……ん、もう朝か」
佐久間大輔は布団の中でもぞもぞと動き、枕元に手を伸ばした。手探りでスマートフォンをつかみ、アラームを止める。
画面に表示された日付を見て、寝ぼけた頭が少しずつ働き始めた。
「十月二十一日……」
そこで、大輔は動きを止めた。
「ああ、今日か。俺、誕生日じゃん」
今日で三十歳になる。
メッセージアプリを開いてみたが、友人からの連絡は一件もなかった。通知欄に表示されているのは、アプリから届いた誕生日のお知らせだけだ。
「……三十歳かぁ」
スマートフォンを枕元に置き、大輔は天井を見上げた。
仕事はそれなりに続いている。生活に困っているわけでもないし、趣味を楽しむ余裕だってある。特別に不幸な人生を送っているつもりはなかった。
ただ、一つだけ、どうしても気になることがある。
「三十歳で童貞、か……」
口に出してみると、思っていた以上に虚しかった。
学生時代、大輔には本気で好きになった相手がいた。
勇気を振り絞って告白したものの、返ってきたのは、恋愛対象としては見られないという言葉だった。
相手に悪気があったわけではない。それでも、当時の大輔にはつらい経験だった。
それ以来、恋愛に対して臆病になった。
気になる女性ができても、声をかける前に考えてしまう。
もし、また振られたら。
もし、相手に迷惑だと思われたら。
そんなことを考えているうちに、結局何もできずに終わってしまう。
大輔は、決して顔立ちが悪いわけではない。身だしなみにも気を配っているし、もう少し自信を持って振る舞えば、恋愛の機会だってあったかもしれない。
けれど、過去の失恋を引きずったまま、何年も踏み出せずにいた。
そうしているうちに、気づけば三十歳である。
「まあ……今さら焦っても仕方ないか」
自分に言い聞かせるように呟き、大輔は布団から抜け出した。
誕生日だからといって、特別な予定はない。いつもどおり仕事に行き、帰ってきたら夕飯を食べて一日を終える。それが今日の予定だった。
せめて朝食くらいは、いつもよりまともなものを食べよう。
そう考えたところで、玄関のチャイムが鳴った。
――ピンポーン。
「……誰だ?」
こんな朝早くから訪ねてくる相手に心当たりはない。宅配便の予定もなければ、誰かが来る約束をした覚えもなかった。
大輔は寝癖のついた髪をかきながら玄関へ向かい、ドアスコープを覗いた。
そこには、見知らぬ女性が立っていた。
黒を基調とした制服に、腰には警察官を思わせる装備品。長い黒髪はきれいに整えられ、背筋もまっすぐに伸びている。
顔立ちは驚くほど整っていた。すっと通った鼻筋に、形のよい唇。切れ長の目は鋭く、表情からは感情がほとんど読み取れない。
美人ではある。
しかし、気軽に話しかけられるような雰囲気ではなかった。
その後ろには、同じ制服を着た女性が二人いる。一人は短い茶髪で、引き締まった体つきをしていた。もう一人は黒髪を後ろでまとめ、手元の端末を確認している。
「……警察?」
大輔は首を傾げた。
もちろん、警察に世話になるような覚えはない。
少し迷った末に玄関の鍵を開けると、先頭の女性が胸元から身分証を取り出した。
「突然の訪問、失礼いたします。国家治安維持局・特別対策部所属、オヤジ狩り隊の者です」
「……オヤジ狩り隊?」
「はい」
「いや、名前が物騒すぎません?」
「部隊名についてのご意見は、担当窓口までお願いいたします」
「意見を受け付けてるんだ……」
思わず漏れた言葉にも、女性は反応を示さなかった。
「佐久間大輔さんで間違いありませんね?」
「そうですけど……」
「本日、十月二十一日が三十歳のお誕生日であることも確認しています」
「えっ。なんで誕生日まで知ってるんですか?」
「当局の調査記録に基づいています」
女性は淡々と答えた。
「佐久間さん。あなたは、当局が実施する魔法適性調査の対象者です」
「……魔法?」
聞き慣れない言葉に、大輔は思わず聞き返した。
「三十歳を迎える性行為未経験男性の一部に、魔法と呼ばれる特殊な能力が発現する事例が確認されています。当局では、その可能性がある方を対象に調査を行っています」
「……はい?」
「もちろん、該当する方全員に発現するわけではありません。発現するのはごくまれです。あなたについても、事前調査の結果、確認が必要と判断されました」
「いや、ちょっと待ってください。なんで俺が対象になってるんですか?」
「住民情報などの記録と、当局が実施した事前調査に基づいています。詳しい説明は、施設で行います」
女性は手元の端末に目を落とし、確認するように続けた。
「佐久間大輔さん。本日は魔法適性の確認にご協力いただきます」
「ちょ、ちょっと待ってください。つまり、三十歳まで童貞だと、魔法が使えるかもしれないってことですか?」
「正確には、性行為未経験の男性の一部に、魔法が発現する可能性があるということです」
「言い方は違うけど、だいたい同じですよね!?」
「大筋では」
「認めるんだ……」
大輔は額に手を当てた。
魔法など、ゲームや漫画の中だけの話だと思っていた。それがまさか、国家機関が調査に乗り出すほど現実的なものだったとは。
いや、そもそも本当に魔法なんて存在するのだろうか。
「……すみません。まだ話がよく分からないんですけど」
「詳しい説明と検査は、当局の施設で行います。まずは任意での同行をお願いします」
「これからって、今すぐですか? 俺、仕事があるんですけど」
「勤務先への連絡はこちらで対応します」
「いや、そういう問題じゃなくて……。いきなり来て、魔法の検査を受けろって言われても困りますよ」
「ご事情は承知しています。ただし、法令により、調査対象者には適性確認を受けていただくことになっています。任意の同行に応じていただけない場合は、所定の手続きを経て、強制移送を行うことがあります」
「……強制移送?」
「はい。まずは任意の同行にご協力ください」
女性は、まるで事務手続きの説明でもしているかのように答えた。
大輔は女性たちを見比べた。
どうやら、簡単に帰ってもらえる状況ではないらしい。
「……少し考える時間をもらえませんか?」
「申し訳ありませんが、調査日程はすでに決まっています。任意での同行に応じていただけない、ということでよろしいですか?」
「いや、まだ拒否すると決めたわけじゃ――」
「同行を承諾する意思が確認できませんでした。規定に従い、強制移送の手続きに移ります」
「ちょっと待ってください! 考える時間がほしいって言っただけでしょう!?」
「その点は承知しています。ただし、これ以上の延期は認められません」
女性は後ろの隊員に視線を向けた。
「移送を開始してください」
「判断が早い!」
短い茶髪の隊員が一歩前に出て、大輔の腕を取った。
「えっ、ちょっと!?」
「抵抗しないでください。安全のためです」
「いや、まだ何も納得してないんですけど!」
大輔は反射的に腕を引いたが、隊員の手はびくともしなかった。
訓練を受けた相手に、寝起きの三十歳男性が力でかなうはずもない。大輔は抵抗を続けたものの、隊員の手を振りほどくことはできなかった。
「せ、せめて靴を履かせてください!」
「どうぞ。速やかにお願いします」
大輔は慌てて靴に足を入れた。
誕生日の朝から、何がどうなっているのか。
童貞だから魔法の検査を受けろと言われ、断れば強制連行。しかも、相手は国の機関を名乗っている。
靴を履き終えた大輔が、再び隊員に腕を取られ、玄関の外へ連れ出されようとした、そのときだった。
「おいおい。朝っぱらから、ずいぶん物騒なことをやってるじゃねえか」
男の声が響いた。
隊員たちの動きが止まる。
大輔も顔を上げた。
こちらへ歩いてくるのは、三十代半ばくらいの男だった。無造作な髪に、少しくたびれた服。目立つ容姿ではないが、妙に落ち着いた雰囲気がある。
男は大輔と、彼の腕を押さえている隊員を交互に見た。
「嫌がってる相手を無理やり連れていくってのは、どうなんだ?」
隊長が男へ向き直った。
「こちらは国家治安維持局・特別対策部、オヤジ狩り隊の職務執行中です。関係者以外は立ち入らないでください」
「オヤジ狩り隊ね。そりゃ知ってるよ」
男は臆することなく歩み寄った。
「だが、こいつを連れていかれるのを黙って見てるわけにはいかねえんだ」
「公務の妨害は処罰の対象となります」
「そいつは怖いな」
男は肩をすくめた。口調こそ軽いものの、引き下がる気はなさそうだった。
「けど、こっちにも譲れねえ事情があるんでね」
隊長の目が細くなる。
「……あなたは何者ですか?」
男は足を止め、隊長をまっすぐに見据えた。
「俺は『チェリー』の人間だ」
その名を聞いた途端、隊員たちに緊張が走った。
「……チェリー、ですか」
「そうだ。聞き覚えくらいはあるだろ?」
隊長はすぐには答えなかった。先ほどまで冷静だった彼女の目に、警戒の色が浮かんでいる。
男は小さく笑い、それから名乗った。
「俺は村田治だ」
隊長の表情が変わった。
「村田……!?」
「まさか、あの『不動』の村田か!?」
大輔は腕を押さえられたまま、男の顔を見た。
聞き覚えのない名前だった。
村田は大輔にちらりと視線を向けた。
「悪いな、ちょっと遅くなった」
「えっ? いや、あなた誰ですか?」
「話はあとだ」
村田は再び隊長へ向き直った。
「そいつは、俺が預かる」
その一言で、玄関先の空気が張り詰めた。
国家治安維持局のオヤジ狩り隊と、謎の組織チェリー。
何も知らない大輔を挟み、二つの組織が対峙する。
助けが来たのはありがたい。だが、目の前の男もまた、聞いたことのない組織の人間らしい。
――これ、本当に助かったのか?
誕生日の朝、大輔は自分の人生が、思いもよらない方向へ転がり始めたことを実感していた。




