143 門出
「いよいよ結婚式ですよね。少し緊張していますが、精一杯頑張ります」
「・・・・・・・・・・ああ、そうだな」
どうしたことか、アルバート様の瞳が、ほんの一瞬、揺れた。
そのまま黙り込み、どう反応すべきか迷っていると、不意に距離を詰められた。
息がかかりそうなほど近く、視線を逸らすこともできず、アルバート様の瞳を見つめてしまった。
「アルバート様、どうしたのですか?」
「・・・・・・いや、君は、私の顔がここまで近づいても、目を逸らさずに見つめているのだな」
「何の確認ですか?目を開けていたら、いけないんですか?」
「いや。普通は、これほど顔が近ければ、目を閉じるものではないのか?」
「普通は、そうかもしれません。でも、アルバート様は怖くありませんから」
「怖い?」
「ええ、怖いと目を閉じますよね?」
「ああ、そういう考え方もあるのか・・・」
(・・・・・・どうしたのかしら?)
アルバート様は、顎に手を当てて考え込んでいる。
もしかして、私の行動は常識外れだったのだろうか。
「・・・何か、悪かったでしょうか?」
「いや、別に構わない。ただ、結婚式で誓いのキスをするときにも、君は目を開けて・・・」
「『誓いのキス』!!!」
突然の私の大声に驚いたのか、アルバート様は少しだけ身を反らした。
「ああ、そうだよ。この前、挙式の流れを説明されただろう?君、聞いていなかったのか?」
「い、いえ、聞いていました」
「その時に、説明があったはずだが・・・」
「・・・・・・そういえば、確かに聞きました!記憶があります!!」
「では、何を今さら焦っているのだ?」
「あ、あ、あ、だって、想像していなくて。私、式の進行や招待客への挨拶ばかりに気を取られてて、誓いのキスなんて、頭からすっぽり抜け落ちていました!!!」
(どうしよう!!!)
まだファーストキスもしていない私が、人前で誓いのキスなんてできるのだろうか。
思わずアルバート様の、形の整った唇に目を遣る。
あの唇が私の唇に触れると思うと、心臓が早鐘のように打ち、頬に熱が一気に集まるのを感じた。
緊張のせいで息が乱れそうになり、慌てて喉を押さえてしまった。
「だ、大丈夫か?」
「だ、だ、だ、大丈夫ではありません!どうしましょう!!私、初めてなのに、ちゃんとできるでしょうか!?」
「いや、ちゃんとって・・・」
「れ、れ、れ、練習もしていないのに、どうしましょう!?」
「練習って・・・・・・」
「だって、練習もしていないのに、本番でできるわけないでしょう!?私、不器用なんですよ!?」
何度も練習を繰り返して、初めて完璧にできるのだ。
そんなぶっつけ本番で、大勢の前でキスができるとは到底思えなかった。
「そんなに心配しなくても大丈夫だ。落ち着くんだ」
「そんな!これが落ち着いていられますか!?失敗したら、どうするんですか!?」
「いや、失敗って・・・」
「だって大勢の人たちが来ているんですよ!しかも、ほぼほぼ全員、国賓なんですよ!!」
「私に任せればいいから、大丈夫だ」
「ま、ま、任せるにしたって、私だって、することあるでしょう!?」
「いや、特には・・・」
「ありますよね!?だって、目を閉じるのが普通なんでしょう!?私、目を閉じないといけないんですよね?」
「・・・別に、目を開けていてもいい」
(絶対嘘でしょう!?)
きっと目を閉じるのが、普通なのだ。
だからこそ、アルバート様は私の反応を確かめようと、顔を近づけたに違いない。
「め、め、目を、い、い、いつ閉じればいいんですか?」
「いや、そう言われても・・・」
「ちゃんと教えてください!本番で失敗したら、もう恥ずかしくて耐えられません!」
大勢の賓客たちの視線が注がれる中で、失敗だけは絶対に避けたかった。
目を閉じるタイミング、唇に触れる仕草、きっと何か正解があるのだ。
誰か、私にキスの正しいやり方を教えて欲しい。
「アルバート様!私にキスのやり方を教えてください!!」
「え・・・・・・」
「本番で恥をかかないために!お願いします!!」
私の必死なお願いに、アルバート様は目を瞬かせた。
普段の顔からは想像できないほど、戸惑いの色が濃く浮かんでいる。
「・・・えっと、君、本気で?」
恐る恐るといった声で問いかけられ、思わず首を大きく縦に振る。
早くキスのやり方を覚えなければならない。
結婚式はもうすぐなのに、何も知らないまま挑むなんてできない。
「・・・・・・じゃあ、今、練習しようか?」
「えっ?は、は、はい!是非、お願いします!!め、め、目を、目を閉じればいいんですよね!?」
慌てて力を込めて、ぎゅっと目を瞑る。
こんなことなら、イザベラ様にでもやり方を聞いておけば良かった。
みんな、どこでキスのやり方を学ぶのだろうか。
正しいキスのやり方なんて、妃教育には、一切含まれていなかった。
いつもなら先のことまで考えて行動していたのに、今回はまったく考えが及ばなかった。
(・・・・・・・・・・・・どうしたのかしら?)
いつまで待っても、アルバート様が近づいてくる気配がしない。
怖々と目を開けると、困っているのか、笑いを堪えているのか、なんとも言えない表情をしていた。
「な、何ですか?」
「ああ、いや、その、可愛いなと思って」
「えっ?何、この状況で冗談言ってるんですか!?結婚式まで、もう時間がないんですよ!?は、は、早く、早くしてください!」
「いや、そんな・・・・・・」
私の焦る様子がよほど可笑しかったのか、アルバート様は顔を背け、口に手を当てて震えている。
公式行事に慣れているアルバート様なら平気なのかもしれないが、私は王族として人前に立つのは初めてなのだ。
呑気に笑っている場合ではない。
「も、もう、アルバート様ったら!は、は、早く、早くキスしてください!!」
「た、頼む。アンナ嬢。これ以上、私を困らせないでくれ」
「えぇ!?そんな意地悪言わないでくださいよ!困っているのは、アルバート様ではなく、私です!!もう時間もないし、お願いします!!!」
ついに耐えきれなくなったのか、アルバート様は後ろを向いて、両手で顔を覆ってしまった。
笑いを堪えているのか、肩が小刻みに震えている。
なんて酷いのだろう。
準備を怠った私だって悪いが、協力してくれたっていいだろう。
「アルバート様!お願いだから、キスしてください!!」
「いや・・・」
「そんな『嫌』とか言ってないで!お願いですから!!」
焦るあまりに顔が赤くなり、もう目に涙が浮かび上がってきたのが、自分でもわかる。
どうしていいのか、わからない。
まさか、結婚式直前にこんなことになるなんて、思いもしなかった。
必死にお願いをする私の声が届いたのか、アルバート様はやっと私の方を見てくれた。
だが、私の顔を見た瞬間、今度は顔を覆ったまましゃがみこんでしまった。
「あ、あ、あ、アルバート様・・・?」
(ど、どうすればいいの?)
笑いを我慢しすぎて、お腹でも痛くなったのだろうか。
耳まで赤くさせたアルバート様は、そのまま動かない。
誰かに助けを求めたいが、こんなことで人を呼ぶわけにはいかないだろう。
オロオロとし、私にとっては永遠とも思える時間アルバート様は座り込んでいたが、ようやく立ち上がってくれた。
(・・・・・・よ、よかった)
私を見下ろした顔が、いつもの表情がないアルバート様に戻っていて、ほっとする。
「今から練習だ」と思い、思い切り目を閉じる。
アルバート様の唇を待ち受けていると、思いがけない言葉が降ってきた。
「・・・・・・・・・誓いのキスは、額にしよう」
「え?ひ、額?『おでこ』って、ことですか?」
「ああ。それなら、大丈夫だろう?」
「え、え、ええ、多分」
口にされるより、ずっとハードルは低いはずだ。
だが、王族の結婚式で、誓いのキスが額にされるなんて、本当に許されるのだろうか。
胸の奥がざわつき、思わず手が震える。
「で、でも、いいんですか?式次第に、『誓いのキス』って書いてありましたよね?」
「場所に指定はないからね」
「ほ、本当に・・・・・・?」
「ああ、気にしなくて大丈夫だ」
(本当に、それでいいのかしら・・・?)
優しいアルバート様は、いつも私に気を遣ってくれる。
でも、私だって、アルバート様にとって心強い存在でありたい。
「でも、それだと問題があるんじゃないですか?私、人前で誓いのキスくらい、アルバート様のためなら、絶対にやり遂げてみせます!」
「心配しなくても、そんなに気にするものではない。・・・まあ、姉上あたりから揶揄われるかもしれないが、別にいいだろう」
「イザベラ様!い、いや、イザベラ様に揶揄われるなんて面倒です!!しましょう、キス!!!」
楽しそうに揶揄いに来るイザベラ様の姿が、すぐに思い浮かんだ。
どうもあの方は、人を揶揄って楽しむ節がある。
「大丈夫だ。姉上は、誓いのキスをしても、しなくても揶揄う」
「え・・・・・・?」
「そういう人だ」
(・・・・・・確かに、そうだわ)
イザベラ様なら、どんなことでも理由をつけて、きっと私を揶揄ってくるに違いない。
「あ、アルバート様は、それでいいんですか?」
「いいよ。私たちは、これからずっと一緒にいるのだ。今、無理にキスしなくても、これから機会はいくらでもある」
「え、ええ、まあ・・・」
アルバート様の言葉に何か引っかかりを覚えた瞬間、不意に大きな歓声が聞こえてきた。
その大きな歓声に驚き、バルコニーに繋がる大きな窓に目を向けた。
(・・・え?なに、この人だかりは)
ここから見渡すだけでも、ものすごい数の人々が押し寄せているのがわかった。
遠くからでよく見えないが、集まった人々のその手には、旗や花を持っているように見える。
「アルバート様、外に人が、たくさんいるような気がするんですが・・・」
「ああ、私たちのお祝いに駆けつけた国民たちだ」
「え?あんなに大勢の人たちが、私たちの結婚式のために集まったのですか?」
「そうだね。通常でも王族の結婚式は大勢の人が集まるが、君の場合は特別に多いかもね」
「特別に多いって、なぜですか?」
「姉上がローゼル歌劇団に、私たちのことを演じさせた」
「私たちって・・・?」
「婚約を破棄された子爵令嬢が、王子に見初められる劇を上演させたのだ。皆、ヒロインを君に投影したのだろう。君を一目見ようと、街道はすごい人だかりになっていると、先ほど報告があった」
「へ?」
「ヒロインも君と同じ名前だから、余計に君と重なる部分が多いのだろうな」
「えっ、ええ?」
「上演されてからもうすぐ一年が経とうとしているが、それでも連日立ち見がでるほどの人気だそうだ」
「・・・・・・私、そんなこと全然聞いていないんですけど」
(あれだけイザベラ様とは、頻繁に顔を合わせていたのに!?)
確かに、家の仕事と妃教育に追われ、街の流行りに目を向ける余裕などなかった。
だが、妃教育が始まってから、三日と空けずイザベラ様とは顔を合わせてきたというのに、あの方は一言も私にそんなことは伝えてこなかった。
イザベラ様が歌劇団の演目を変えていたことさえ、私は知らなかった。
「そうなのか?」
「え、え、ええ。だって・・・」
「それは悪かった。すぐに手配するから、私と一緒に観に行こう」
「いや!そんなことを言ってるんじゃなくて!どうしましょう、私、こんなにたくさんの人たちが集まるなんて、思っていなかったんです」
「そうは言っても、集まってきたものは仕方がない。まさか、追い払うわけにはいかないだろう?」
「え、ええ。そ、そうですよね」
この人波の中を馬車で手を振りながら進むのかと思うと、緊張で胸が震えてくる。
いや、それだけではない。
結婚式が終われば、バルコニーで集まった国民に向けて挨拶もしなければならない。
自分の顔から血の気が引き、手先が冷たくなっていくのを感じた。
「・・・・・・アンナ嬢、大丈夫か?」
「は、はい・・・」
考えてもいなかった事態に、手が震えてきてしまう。
少し落ち着く時間が欲しかったが、結婚式の開式時間は決まっていて、招待客たちを待たせるわけにはいかない。
ここで足を止めているわけにはいかなかった。
大きく息を吸い、静かに吐いたそのとき、心配そうに私を覗き込むアルバート様と目が合った。
(・・・・・・・・・綺麗ね)
アルバート様の瞳の青は、今日の空そのものだった。
あんなに手が震えていたのに、その美しい青を見つめるだけで、不思議と震えが止まった。
「・・・・・・・・・雲の向こうは、いつも青空」
「アンナ嬢?」
「すみません。今、不意に頭に浮かんだものですから」
この言葉を私に言ったのは、誰だったのだろう。
幼い私を抱えた母だったのか、それとも隣にいた父だったのだろうか。
肩車をして私に空を見せてくれたマシューだったかもしれないし、どこかの書物で目にしただけかもしれない。
(・・・・・・そう、そうだわ)
たとえ空が厚い雲に覆われていても、その雲の上には常に青空が広がっているのだ。
困難は、永遠に続くものではない。
必ず終わりがあり、その先には明るい未来が待っているのだ。
未来に何が待ち受けていようと、アルバート様が隣にいてくれるなら、私はきっと乗り越えられる。
この「青」が、私のすぐそばにあるだけで、不思議と胸の奥まで力が満ちてくるようだった。
「アルバート様。私、アルバート様が好きです」
「あ、ああ。私も、君が好きだ」
私の突然の告白に、アルバート様は動揺したかのように目を瞬かせた。
婚約して一年も経つのに、私が好意を示すたび、アルバート様は少し照れた様子を見せる。
自分はすぐに愛を囁くのに、その態度は不思議でならなかったが、同時に嬉しくもあった。
「私、アルバート様と一緒なら、どんなことでも乗り越えられそう気がします」
「ああ。私もだ」
「だから、ずっとそばにいてください」
「・・・・・私が、そう言いたかったのだが」
「え?そうなんですか?すみません」
「いや、いい。アンナ嬢、君こそ、私のそばにずっといてくれ」
「はい、もちろんです」
もう、何があっても、私は動じない、迷わない。
これからの人生は、アルバート様と共に歩むのだ。
鼓動が高鳴る手のひらを、そっとアルバート様の腕に添える。
心の奥で、小さな決意が震えていた。
「ご準備をお願いいたします!」
張りのある騎士の声とともに、まるでタイミングを合わせたかのように、目の前の扉が開かれた。
アルバート様はゆっくりと頷き、静かに視線を前へと向ける。
私も、アルバート様と同じところを見つめ、呼吸を整えた。
どんなに困難が待ち受けていようとも、二人でいれば、その先には必ず幸せがある。
未来への決意を感じながら、私たちは新たな人生の一歩を、静かに、でも確かに踏み出した。
作中「雲の向こうは、いつも青空」は、「若草物語」の著者ルイーザ・メイ・オルコットの言葉です。
お読みいただいた皆様、そして応援してくださった皆様、本当にありがとうございます。
読んでいただけることが何より嬉しく、それが毎日の執筆の原動力でした。
本当にありがとうございます。
「アンナの物語」はこれでおしまいですが、続いて「その後のヘンリー」を投稿する予定です。
よかったら、ご覧ください。




