番外編 幸せのもふ
ソファに座って寛いでいた朔は、ふと視線を感じ、そちらに目を遣った。
まさかこちらを向くとは思わなかったのか、更紗が驚いた顔で固まっている。
「更紗?」
「え、あ、あの……。こ、コーヒーのおかわりを淹れて……」
朔は、そそくさと立ち上がろうとする更紗の腕を掴み、強く引いた。
「きゃあっ」
おのずと自分の腕の中に飛び込んでくる更紗を抱え、朔はその顔を覗き込む。すると、みるみるうちに更紗の頬が朱に染まっていき、朔は思わず笑みを漏らした。
夫婦になってしばらく経つのに、未だに更紗の反応は初々しい。朔にはそれがたまらない。更紗のそういう反応が見たくて、わざと迫ってみたりすることもある。
「どうした?」
耳元で吐息混じりに囁けば、さらに赤くなる。熟れた果実のようで、今すぐにも食らいつきたい衝動に駆られる。
「さ、朔さん!」
「ほら、また」
「え? あ、えっと、朔!」
朔さん、と呼ばれるのも決して嫌なわけではない。しかし、敬称がよそよそしく、よけいなもののように感じることもある。誰よりも大切な嫁だから、敬称なんていらない。名前そのままで呼んでほしかった。
更紗はまだ慣れないのか、気を抜くと前のように「朔さん」と言っている。スルーすると気が付かないままなので、都度指摘することにしている。できるだけ早く慣れてほしい、それは朔のささやかな我儘だった。
朔は果物にかぶりつくように、更紗の頬に口づける。するとまた、更紗の頬が赤くなり、熱を持つ。こうなるとエンドレスだ。そしてそのうち、欲望が抑えきれなくなる。
そんな空気を察したのか、更紗は精一杯腕を突っ張り、抵抗を始めた。
「だ、だめっ!」
「何故?」
「だ、だって、まだお昼だし! 朔さん……じゃなくて、朔はこの後もお仕事があるでしょう!」
そう、今はまだ真昼間で、さきほど昼食を済ませたところだ。食後のコーヒーを飲みながらのんびりと休んでいた。休憩後は仕事に戻る。だが──。
「急ぎのものはない。明日でも問題ないぞ」
「で、でも! 明日は明日のお仕事があるんだし、溜めちゃうと後が大変だから!」
「大丈夫だ」
「だめっ!」
必死に自制しているのだろうが、真っ赤な顔で潤んだ瞳では、と朔は苦笑する。更紗自身は意識していないだろうが、煽っているのと大差ない。本当に、我が嫁ながら可愛すぎる。
朔は喉を小さく鳴らしながら、更紗をより近くに引き寄せ、頭のてっぺんにキスを落とした。
少し落ち着き、朔は当初の目的を思い出す。更紗は何か言いたそうにしていた。その言葉を聞かなくては。
「俺に、何か言いたいことがあるんだろう?」
「あ……」
「どうした?」
優しい笑みでそう問われ、更紗の胸がトクンと鳴った。
出会った頃から朔は優しかったが、結婚して夫婦となってからは、それにますます拍車がかかった。
こういった普段の表情も豊かになったし、声音も優しくなった。更紗を見つめる視線はいつも甘く、今では鋭さなど微塵もない。あるとしたら、それは悪霊退治に行く時くらいだ。
「あの……前から思っていたことがあって……」
「なんだ?」
「陽さんは、何でもないようなことをおっしゃっていたんですが」
「前置きが長い。そのまま言ってみろ」
「……はい」
朔に促され、更紗はようやく意を決したように言った。
「尻尾! あの……朔さんの尻尾を、触りたいなって」
「尻尾? あぁ、これか?」
朔が自分の尾を掴み、更紗の目の前に持ってくる。
ふさふさとした毛並みのいい尾は、見るからに触り心地がよさそうだ。この尾を見た時から、一度触りたいとずっと思っていた。
しかし、獣にとって尾というのは大事な部分だ。あまり触られたくないかもしれない。
陽は、朔に頼めばすぐに触らせてくれると言っていたが、お願いしてもいいものかどうか迷っていた。何故なら、朔は出来得る限り更紗の願いを叶えようとするからだ。
本当は嫌でも、更紗が頼めば聞いてしまう。更紗としては、朔の嫌がることはしたくない。例え、揺れる尻尾に抱きつきたいくらい、気になっていたとしても。
「あの、嫌だったらいいんです!」
ブンブンと勢いよく首を横に振る更紗に、朔はフッと笑みを漏らす。
こんなことくらい、すぐに言えばいいものを。
更紗の考えているとおり、尾は急所でもある。だから、むやみやたらに触られるのは勘弁だ。しかし、それが嫁となると話は別だった。
「誰にでも触らせるわけじゃない。だが、更紗なら構わない」
朔がそう言って、更紗に自分の尻尾を触らせた。
ふわりとした毛が、更紗の手をやんわりと撫でる。
「ふ……ふわふわ、もふもふだぁ……」
更紗の顔が思い切り崩れる。顔中の筋肉が緩み、目は糸のように細くなり……簡単に言うと、デレデレ状態になっていた。
こんな更紗を見るのは初めてで、朔は目をぱちくりとさせる。
「そんなに触りたかったのか?」
「はい! うわぁ、本当にもっふもふ! 気持ちいいぃ~っ」
嫁が自分の尾に顔を埋めている。幸せそうな顔で尾を抱きしめている。
それは朔にとっても嬉しいことなのだが、何故だか複雑な気分になる。
「幸せ……」
吐息混じりにそう呟く更紗を見て、我慢できなくなった。
朔は更紗の顔を上げさせ、思い切り顔を近づける。
「え、あの……い、嫌でした……?」
「違う」
「じゃあ、どうして……?」
朔は口をへの字に曲げた。
まさか、自分の尾に嫉妬するなど──。
「そういうセリフは、俺の顔を見て言え」
「へ?」
「尻尾の方が好きみたいに見える」
「あ……あはははははっ!」
更紗が大きな声をあげて笑い出す。これもなかなか珍しい。
お腹を抱えて笑っている更紗を見ていると、知らず知らずのうちに朔の口元も緩む。
こんな風に自分の言ったことで笑われるなど、いつもなら不機嫌になっているはずだ。だが、それが更紗であると嬉しい。笑われるのではなく、笑わせたと思える。
更紗のこめかみに口づけを落とすと、更紗は朔を見上げ、そっと唇を寄せた。
「朔さんがいるだけで、私はいつでも幸せです」
そんなことを、キスの後、満面の笑みで言われてしまうと。
「今日は午後休だ」
「えぇっ!?」
「もう仕事にならん」
「ちょ、ちょっと! 朔っ!」
朔は更紗をひょいと抱き上げ、そのまま寝室に向かって歩き出す。
更紗には見ることができないが、朔の尾はピンと上がり、嬉しそうにゆらゆらと左右に揺れていた。
了
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。
こちらで完結となります。




