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世界改稿の祝福 〜元編集者、異世界を添削する〜  作者: あぷりこっと
プロローグ 異世界と、赤ペン

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プロローグ

世界改稿の祝福

〜元編集者、異世界を添削する〜

 


プロローグ

締め切り前日

時刻は午前二時を過ぎていた。

オフィスには俺一人だった。隣のデスクには昨日まで後輩の田中がいたが、今日は午前零時に「もう無理です」と言って帰った。田中が無理と言えば本当に無理なので、俺は引き止めなかった。ただ「お疲れ」と言って、また赤ペンを動かし続けた。

窓の外は、雨だった。

東京の夜景は雨に滲んでいて、光が水に溶けているみたいに見えた。きれいだと思う感性は昔あったと思うが、今はもう「見える情報」として処理するだけだ。雨。夜。オフィス。俺。原稿。締め切りまで十四時間。

十四時間。余裕はないが、足りないわけでもない。

俺の名前は桐島蓮、三十二歳。出版社「星海ブックス」のライトノベル編集部に勤めて十年になる。担当作品の累計発行部数は二千万部を超えた。業界では「売れる編集者」と呼ばれているらしいが、本人にその実感はない。ただ毎日、原稿を読んで、直して、また読んで、また直す。それだけだ。

机の上には三冊の原稿が積まれていた。

一冊目は来月刊行予定の新作。序章の人物紹介が長すぎる。読者は三ページで主人公の名前を忘れる。カットが必要だ。

二冊目は既刊の文庫版。改稿箇所を確認するだけだが、作者がまた書き直したがっている。気持ちはわかるが、世に出たものは世に出たものだ。

そして三冊目。

……三冊目。

俺は少し、手を止めた。

三冊目は、ボツにした原稿だった。正確には、ボツにした原稿のコピーだ。本物はもう作者に返してある。返す前に、習慣でコピーを取っておいた。

◆ ◆ ◆

三年前のことだ。

その原稿は、ある新人作家から持ち込まれた。タイトルも作者名も、今は思い出せない。それほど印象が薄かった、というわけではない。むしろ逆だ。あの原稿は、俺が今まで読んだどの原稿より、設定が細かかった。

異世界の地理。魔法の体系。種族の歴史。国家間の政治。神話の構造。

細部まで作り込まれた、一つの完全な世界だった。

だが俺はボツにした。

「設定は面白い。だが物語が動いていない」

あのときの俺の判断は正しかった、と今でも思う。どれだけ世界が精密でも、そこに生きるキャラクターが動かなければ、読者は読み続けない。あの原稿の主人公は、世界の傍観者だった。なぜ戦うのか、なぜ愛するのか、なぜ生きるのかが、最後まで書かれていなかった。

作者は激怒した。

「あなたには世界の価値がわからない」と言って、原稿を引き上げていった。それ以来、連絡は取っていない。

あれから三年。あの原稿のことを、たまに思い出す。

あの世界で、誰かが生きていたら。

もしあの主人公に、ちゃんとした「動く理由」があったなら。

俺はボツにしなかったかもしれない。

考えても仕方のないことだ、と俺はいつも思う。

出版された物語だけが、物語だ。ボツになった原稿は、存在しなかったのと同じだ。

それが編集者というものだ。

◆ ◆ ◆

原稿に戻ろうとして、俺は気づいた。

胸が、妙に重かった。

最初は気のせいだと思った。徹夜明けの疲れだろうと。コーヒーの飲みすぎだろうと。だが重さは引かなかった。むしろ少しずつ、確実に、増していった。

……おかしい。

赤ペンを置こうとして、指が動かなかった。

視界が、ゆっくりと狭くなっていく。机の上の原稿が遠くなる。窓の外の雨音が、どこか遠い国の音楽みたいに聞こえ始める。

ああ。

俺は思った。

これは、死ぬやつだ。

呆れるほど冷静な認識だった。パニックにならない自分に、少しだけ感心した。

次に浮かんだのは、明日の担当作家への連絡をどうするか、だった。

田中に引き継いでもらえばいい。あの子は優秀だ。ちゃんとやれる。

そして。

あの原稿の主人公は、結局どんな人間だったんだろう。

最後に思ったのは、不思議なことに、三年前にボツにした原稿のことだった。

世界だけがあって、人がいなかった物語。

存在しなかったことになった、あの精密な世界のこと。

◆ ◆ ◆

暗闇の中で、声がした。

性別もなく、年齢もなく、どこから聞こえてくるのかもわからない声だった。ただ確かに、俺に向かって話しかけていた。

「ようやく見つけた」

見つけた、という言葉が妙に引っかかった。

俺を探していたということか。

「そうだ。ずっと探していた。私の世界を、直してくれる人間を」

世界を直す。

……編集者を、探していた?

「あなたが一番、わかっているはずだ。設定だけがあって、物語が動かない世界の問題を」

俺は、暗闇の中で目を閉じたまま、少し考えた。

死んだらしい、という認識はあった。そのわりには頭が冷静に動いていた。

……あの原稿と似た世界、ということか。

「そうだ」

つまり、誰かが動かなければ、物語が完成しない。

「そうだ」

で、俺にその役をやれと。

「お願いしたい」

俺はまた少し考えた。

断る理由がない、とは言わない。そもそも死後に異世界へ送られることへの同意を、人間から取るべきだろう。プロセスとして問題がある。ただ、俺が持っている情報はあまりにも少なかった。判断材料が不足している状態でYESともNOとも言えない。

一つだけ聞いていいか。

「なんでも」

その世界の主人公は、ちゃんと動けるか。

暗闇の向こうで、少しだけ間があった。

「それは……あなた次第だ」

俺は、溜息をついた。

やっぱり、そういうことか。

編集者というのは、どこにいっても編集者らしい仕事を押しつけられるものだ。

わかった。やってみる。ただし条件がある。

「なんだ」

面白くなかったら、俺は好きに直す。あなたの原稿でも、俺が担当した以上は俺が責任を持つ。

また間があった。今度は、少し長かった。

「……それで構わない」

俺は目を閉じたまま、頷いた。

そして意識が、落ちた。

◆ ◆ ◆

目が覚めたとき、空が青かった。

知らない空だった。

俺が見てきたどの空とも違う青で、雲の形も、光の色も、空気の匂いも、何もかもが知らないものだった。

起き上がると、そこは草原だった。

遠くに小さな村が見えた。煙突から煙が出ていて、風が草を揺らしていた。手を見ると、指が細くなっていた。自分の手ではないみたいに見えた。

転生、か。

実感があるとは言い難かった。だがとりあえず、俺は立ち上がった。

草原を歩きながら、俺は確認した。記憶はある。知識はある。言語は……なぜか問題なく理解できる。おそらく、声の主が何かしてくれたのだろう。

そして左手を見た。

手のひらに、紋章が浮かんでいた。ペンのような形をした、銀色の紋。

これが、加護とやらか。

村の方向へ歩きながら、俺はその紋を眺めた。

この世界は「書きかけの原稿」だという。設定だけが精密に作り込まれていて、物語が動いていない世界。

俺はそれを、直しに来た。

ボツにした原稿に、似ているな。

三年前の、あの世界に。

俺は少し立ち止まった。風が吹いて、草が波のように揺れた。

……まあ、いい。

担当した以上は、最後まで責任を持つ。それが編集者というものだ。

俺は村に向かって、また歩き始めた。

空は、相変わらず青かった。

今度こそ、ちゃんと見ておこうと思った。


── プロローグ 了 ──


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