第一章 第一話 インク村と、最初の誤植
村に入ると、まず匂いがした。
パンを焼く匂いと、土の匂いと、動物の匂いが混ざり合った、生活の匂い。東京では嗅いだことのない種類のものだったが、不思議と不快ではなかった。むしろ懐かしいと感じた。どこかで嗅いだことがある気がする、と思ったが、たぶん気のせいだ。俺は生まれてからずっと都会育ちだ。
「インク村」という名前の村だと、後で知った。
規模は小さかった。石造りの家が二十軒ほど、広場を囲むように並んでいる。井戸が一つ。商店が二つ。鍛冶屋が一つ。それ以外は畑と、牧草地と、遠くに見える森だった。
……こじんまりした村だ。登場人物は少ない。序章の舞台としては悪くない。
俺はすぐ、自分がまた「編集者の目」で物事を見ていることに気づいた。
しかし止める方法がわからなかった。
◆ ◆ ◆
村に入った俺を最初に見とがめたのは、七歳くらいの女の子だった。
広場の端で羊を追っていた子どもが、俺の顔を見た瞬間に固まった。
「め……目が、変な色」
銀色の瞳のことを言っているのだろう。転生直後に確認した。プロローグで自覚済みだ。
変な色、か。まあ、正直な感想だ。
「こんにちは」と俺は言った。
子どもは三秒ほど固まった後、羊を置いて走って逃げた。
……初対面の反応としては標準的かもしれない。
村の広場には、数人の大人がいた。俺が入ってくると、会話が止まった。全員が、俺の顔、正確には俺の目を見た。
視線に気づかないふりをしながら、俺はとりあえず井戸の近くに立った。
設定閲覧を試してみるか。
転生直後から、その能力の存在は感じていた。なにか、見えそうで見えない情報が、目の前の世界に層になって重なっているような感覚。集中すれば、引き出せる気がした。
俺は視線を、近くに立っていた中年の男に向けた。
……見る。
次の瞬間、男の頭上に、文字が浮かんだ。
【設定閲覧】
名前:ヴィルム=クラッセ 年齢:44歳
加護:農業強化(Dランク) ─ 土壌の状態を直感的に把握する
特記:誤植なし 矛盾なし
……なるほど。
感覚としては、本を開いたときに近かった。ページをめくると情報が目に飛び込んでくる、あの感覚。ただし本の場合は文字を追う必要があるが、これは見た瞬間に読み取れる。
加護がステータスとして見える、ということは聞いたことがある。ラノベの定番設定だ。ただ「誤植なし、矛盾なし」という注釈がつくのは、たぶん俺だけだろう。
「……あんた、どこから来た」
声をかけてきたのは、さっき情報を読んだヴィルムだった。警戒はしているが、追い払う気はなさそうだった。目に、好奇心が混じっている。
「遠いところから来ました」
「遠い、ね。その目の色、見たことがない。転生者か?」
「そうです」
転生者という概念がこの世界で一般的に認知されているのは、好材料だ。説明コストが低い。
ヴィルムは顎をさすりながら、俺をまじまじと見た。
「加護は何だ? 転生者なら加護があるだろう」
「世界改稿、というものらしいです」
「……聞いたことがないな」
「俺も初めて聞きました」
ヴィルムはしばらく俺を見ていたが、やがて溜息をついて、「腹は減ってるか」と言った。
◆ ◆ ◆
ヴィルムの家で、パンとスープをもらった。
黒パンは固かったが、スープは塩気が効いていて悪くなかった。食べながら、俺はヴィルムの家族の情報を読んだ。妻、息子二人、娘一人。全員、誤植なし、矛盾なし。
誰かが書いた、素直な人物たちだ。
ヴィルムはパイプをくわえながら、この村のことを教えてくれた。
インク村。人口およそ百人の小さな農村。王都から馬で三日かかる辺境にある。大きな事件もなく、大きな繁栄もなく、ただ静かに続いてきた村だという。
「英雄も出ていない。伝説もない。ただの村だ」
ヴィルムは少し誇らしそうに言った。
ただの村、か。
「ただの村」が序章の舞台として選ばれた理由が、まだわからない。語り神の意図を読むには情報が足りない。継続して観察する必要がある。
◆ ◆ ◆
村に泊まることになった。
ヴィルムが「一週間くらいなら離れ家を貸せる」と言い、俺は素直に甘えることにした。断る理由がなかった。
翌朝。
日が昇り始めた頃に目が覚めて、俺は村を歩いた。
早朝の村は静かだった。農作業を始める人間がちらほら動き始めているが、広場はまだ誰もいない。俺はそこに立って、村を見渡した。
設定閲覧の精度を確認しておく必要がある。どこまで読み取れるか、まだ把握できていない。
そのとき、井戸の横に人影が見えた。
大きな男だった。
身長は二メートル近くある。肩幅が広く、腕が太く、どこからどう見ても「戦士」という見た目をしていた。だが今、その男は井戸の縁に座って、何もしていなかった。ただぼんやりと、朝の光を見ていた。
俺が近づくと、男が目を向けた。
「転生者か」
「そうです」
「銀色の目。昨日来たって奴か。ヴィルムから聞いた」
男は特に興味なさそうに言った。俺を追い払う気もなく、歓迎する気もない。ただ事実を確認しているだけという顔だった。
俺は設定閲覧を試みた。
そして、止まった。
【設定閲覧】
名前:ガルドス=ライン 年齢:35歳
加護:剛力・不滅 Sランク相当 ─ ステータス:正常に機能していない
特記:【誤植】「不滅」→「不滅」 読み仮名の誤記により加護が未発動
本来の加護ランク:S 現在の実効ランク:C相当
……誤植だ。
俺は思わず声に出しそうになった。
「不滅」が「不滅」になっている。読み仮名の誤記だ。意味が変わった。「不滅」という言葉が「不明」に近い読み方になってしまっていて、加護が自分の能力を認識できていない。
これは……校正レベルのミスだ。内容ではなく、表記の問題。こんなことで、Sランクの加護が正常に動いていない。
男が、俺の顔を見た。
「なんだ。変な顔をして」
「いえ」俺は少し考えてから言った。「あなたの加護に、問題があります」
男の目が、わずかに動いた。
「……何が言いたい」
「問題、というか、誤植です。表記のミス。それで加護が正常に機能していない可能性がある」
長い沈黙があった。
男は俺を見て、俺を見て、また俺を見た。それから、低い声で言った。
「……どういう意味だ、それは」
◆ ◆ ◆
ガルドスという名だと、後で知った。
元はBランクの冒険者で、Sランク昇格を目指していたが、あるときから力が出なくなり、冒険者を引退してインク村の護衛隊長に収まったという。本人は「年のせいだ」と言っているが、村人の誰も納得していないらしい。
「俺の加護が誤植、か」
ガルドスは井戸の縁に座ったまま、低い声で繰り返した。怒っているのか、呆れているのか、判断が難しい声色だった。
「俺がどうにかできる、と言いたいのか」
「できるかもしれません。ただ、確認が必要です。やってみていいですか」
「……リスクは?」
「失敗した場合は現状維持です。成功した場合は、あなたの本来の加護が動く可能性がある」
メリットのほうが大きい。理性的な人間なら受け入れるはずだ。
ガルドスは少し考えた。俺はその間、待った。
「……一つ聞いていいか」
「どうぞ」
「なんでお前が、俺の加護に問題があるとわかった?」
「見えました」
「見えた」
「設定閲覧、というものらしいです。人の加護が、テキストとして見える。誤植や矛盾があると、注釈がつく。あなたの場合、注釈がついていた」
ガルドスは俺を見た。長い間、見ていた。
「……変な能力だな」
「そうですね」
「普通、人の設定なんて読めないだろ」
「読めない人がほとんどだと思います」
また沈黙があった。今度は短かった。
ガルドスが、大きな手を差し出した。
「やってみろ」
短い言葉だった。だが声に、諦めとは違う何かが混じっていた。
……期待、か。
十年以上、動かなかった加護の話だ。諦めていないはずがない。それでも手を差し出した。
いい素材だ。
俺はガルドスの手を取った。
設定閲覧とは別の能力が、動き始める感覚があった。左手の「改稿の紋」が、かすかに熱を持った。
……見える。加護の根幹部分。「不滅」という誤記が、コードのエラーみたいに赤く滲んでいる。
直す。「ふめい」を「ふめつ」に。読み仮名だけの修正だ。内容は変えない。これは添削ではなく、校正だ。
俺は、息を止めた。
そして、直した。
◆ ◆ ◆
変化は、静かに起きた。
ガルドスの体が、一瞬だけ光った。光、というより、輪郭が少しだけはっきりした、という感じだった。存在感が、増した。
ガルドスが自分の手を見た。次に、俺を見た。
「……なんだ、これ」
声が、少しだけ変わっていた。
「あなたの本来の加護です」俺は言った。「ずっとそこにあったものです」
ガルドスは立ち上がった。ゆっくりと、確かめるように。そして右手で剣の柄を握った。
何かを感じているのだろう。俺にはわからないが、ガルドスには伝わっているものがあるらしかった。
「……俺は、ずっとこれを持ってたのか」
「はい」
「お前は」ガルドスが俺を見た。「俺の欠陥を直してくれたのか」
「欠陥じゃないです」俺は言った。「誤植です。あなた自身は最初から正しかった」
長い沈黙があった。
朝の光が、村に差し込んできた。
ガルドスは剣の柄を握ったまま、しばらく空を見ていた。それから、静かに言った。
「……礼を言う」
「仕事です」俺は言った。
編集者の仕事だ。誰かの本来の設定を、正しい形に直す。それだけのことだ。
ガルドスが俺を見た。どこか、見定めるような目だった。
「村にいる間、俺が護衛をしてやる。お前みたいな変な能力を持った奴が野放しになってると、ろくなことにならない気がする」
「護衛は結構です」
「断る理由もないだろ」
……確かに断る理由がない。
俺は少し考えてから、頷いた。
「わかりました。よろしくお願いします」
ガルドスは鼻を鳴らして、また井戸の縁に座った。
朝が、始まっていた。
村の広場に、少しずつ人が出てき始めた。誰かが笑い声を上げた。子どもが走り回り始めた。
俺はその光景を見ながら、設定閲覧を走らせた。行き交う人々の設定が、流れるように読み取れた。誤植なし、矛盾なし、誤植なし、矛盾なし。
……この村は、きれいに書かれている。
語り神の手が入っているのか、それとも偶然か。
ただ一つ、気になることがある。
俺は、広場の端に建つ廃屋に目を向けた。
昨日から気になっていた。村の他の建物より古く、人が住んでいる気配がないのに、窓から光が漏れることがある。
あそこに、誰かいる。
設定閲覧を向けてみたが、何も読み取れなかった。
……読めない? 誤植でも矛盾でもなく、単純に読み取れない。初めてのケースだ。
これは、後で確認しに行く必要がある。
「何を見てる」ガルドスが言った。
「あの廃屋です。誰か住んでいますか」
ガルドスが廃屋を一瞥した。
「ああ。セラフィナが住んでる」
「セラフィナ」
「変な子どもだ。気にするな」
気にするな、と言われたが、俺には設定が読めない相手を気にしない習慣がなかった。
読めない原稿が、一番気になる。
俺はもう一度、廃屋を見た。
窓に、一瞬だけ人影が見えた。子どものような、小さな影だった。
そして影は、すっと消えた。
── 第一話 了 ──
次話「廃屋の住人と、読めない設定」




