第27話:甘美な安寧を愛した王妃、最果ての平穏を掴む
魔法の概念が存在しないこの世界において、奇跡とは神の御業ではなく、人の執念と膨大な資力が積み重なった瞬間にのみ現れる現象である。
レガリス王国の王都は今、その「人工の奇跡」によって黄金色に染め上げられていた。
王宮から大聖堂へと続く大通りには、母方の実家であるアルフォンス商会が惜しみなく投じた金貨の成果として、冬の寒さを忘れさせるほどの極彩色の花々が敷き詰められている。その両脇を固めるのは、隣国から「視察」の名目で駆けつけた叔父カシム率いる王家騎士団。一糸乱れぬ黒鉄の甲冑が陽光を照り返し、魔法の防壁などより遥かに頼もしい、物理的な威圧をもって新王妃の門出を祝福していた。
「……なにした私。いえ、本当になにをされたの、私」
王宮の控室、全身を締め付ける重厚なウェディングドレスに身を包んだ私は、鏡の中に映る自分の姿を見つめ、今日何度目か分からない独白を漏らした。
四十歳の独身令嬢。のらりくらりと、目立たず、風に吹かれる柳のように生きてきたはずだった。それがどうして、二十歳も年下の若き王の執着に捕まり、国中の祝福と期待を背負って大聖堂のバージンロードを歩く羽目になっているのか。
鏡の中の私は、かつての「背景の一部」だった頃の自分ではない。二十年の経験が刻んだ落ち着きと、王宮の荒波を乗り越えてきた自負、そして何より、あの若き王によって与えられた「愛されている女」の艶を纏っていた。
「お嬢様、そろそろお時間ですわ。……本当に、お綺麗です」
長年私に仕えてきた侍女が、涙を浮かべながらベールを整えてくれる。
「……ありがとう。でもね、これからが本当の激務の始まりよ。王妃なんて、最高位の事務職に就いただけのようなものですもの」
私は冗談めかして言ったが、それは本音でもあった。魔法のないこの世界で王妃を務めるということは、国母として慈愛を振りまくだけでなく、王宮の裏側を数字で管理し、外交という名の化かし合いに加担することを意味する。のらりくらりとした安寧など、もはや夢のまた夢だ。
大聖堂の扉が開くと、パイプオルガンの重厚な調べが空気を震わせた。
一歩、また一歩と踏み出すたび、参列する貴族たちの視線が突き刺さる。かつて私を魔女と罵り、あるいは排除しようとした者たち。彼らは今、私の足元に広がるアルフォンス家の財力と、背後に控えるカシムの武力、そして何より私の手に握られた「王宮の帳簿」という名の生殺与奪の権を前に、最敬礼をもって私を迎えていた。
その最奥、祭壇の前で待っていたのは、漆黒の正装に身を包んだヴィクトール様だった。
彼は私を目にした瞬間、王としての仮面をわずかに崩し、言葉を失ったように見惚れていた。その青い瞳に宿る熱量は、あの日、執務室で初めて私を凝視した時よりも、さらに深く、暗いほどの独占欲に満ちている。
誓いの言葉を交わし、指輪が交換される。
黄金の鎖。そう、これは私をこの国に、そしてこの男に永遠に縛り付けるための、最も美しく残酷な契約書だ。
「……生涯、お前を離さない。メルセデス」
ヴィクトール様が耳元で囁く。その吐息は熱く、私の心臓を激しく叩いた。
魔法の呪文などなくとも、この男の言葉一つで、私の世界は塗り替えられてしまう。私は諦めにも似た幸福感の中で、差し出されたその手を、しっかりと握り返した。
成婚式が終わり、狂乱のような祝宴を抜けて、ようやく二人きりの寝所へと戻ったのは、月が天高く昇った頃だった。
重い冠と礼装を脱ぎ捨て、私は寝台の端に力なく腰を下ろした。
「……疲れましたわ。陛下、明日からの公務、三割カットの約束、忘れていませんわね?」
「善処しよう。だが、今夜だけは公務の話は禁止だ」
ヴィクトール様は、いつの間にか背後に立ち、私の肩にその逞しい腕を回した。
「メルセデス。……ようやく、名実ともに私のものになったな」
「陛下、わたくしは物ではありませんわ。……それに、陛下こそわたくしのものになったとお考えになってはいかが?」
私が振り向いて微笑むと、ヴィクトール様は少年のように目を細め、私を押し倒すようにして寝台に沈めた。
二十三歳の王の情熱。それは若さゆえの暴走ではなく、孤独な王座を歩んできた彼がようやく見つけた、唯一の安息地への執着だった。
「……お前の安寧は、私が守る。たとえ国を敵に回しても、お前を独りで戦わせるような真似は二度としない」
「……お上手ですこと。……でも、信じてあげますわ。陛下がわたくしを信じてくださるようになったのですから」
魔法のない世界。肌と肌を合わせ、吐息を重ねることでしか、愛は証明できない。私たちは、夜の静寂の中で、新しい「共犯者」としての誓いを、何度も、何度も、体に刻み込んでいった。
翌朝。私の「のらりくらりとした隠居生活」への夢は、執事の無情なノックによって完全に粉砕された。
「王妃殿下、おはようございます! 財務局から火急の相談と、女官局の予算申請、そして隣国からの祝辞への返信草案が届いております!」
「……早すぎるわよ」
私は寝台の中で枕に顔を埋めたが、隣で既に身支度を整えていたヴィクトール様が、楽しげに笑いながら私の手を引いた。
「ほら、起きてくれ、私の王妃。君がいなければ、私の朝食は味気ないものになる」
「……陛下、わたくしに過労死しろとおっしゃるの?」
「死なせはしない。その代わりに、一生分の贅沢と、私の愛を注ぎ続けてやる」
執務室に並んで座る二人の光景は、今や王宮の新しい日常となっていた。
私はペンを握り、次々と運ばれてくる書類に目を通していく。不正は許さない。無駄な支出も認めない。私は「最強の背景を持つ王妃」として、この国の土壌を、数字という名の刃で耕し続けていた。
かつての敵対勢力は、もはや私に逆らおうとはしない。私の決済がなければ、彼らの領地経営さえ立ち行かないことを、彼らは身を持って知らされていたからだ。
窓の外。叔父カシムが隣国へ戻るための準備をしているのが見えた。
「メル! 次は孫の顔を見せに来いよ! 隣国の名馬を用意して待っているからな!」
相変わらずの物騒な挨拶に、私は苦笑いして手を振った。
祖父アルフォンスもまた、王妃の御用達商会として、大陸全土にその勢力を広げている。彼の財力が、この国の防衛と繁栄を支える最強の盾となっていた。
昼下がり。約束の「三時間の自由時間」が訪れる。
私は庭園の東屋で、ようやく手に入れた静寂の中で本を広げていた。
微かな風がページを捲り、遠くで鳥の声が聞こえる。魔法のない、どこまでも現実的で、泥臭く、それでいて愛おしい世界。
「……ここにいたのか」
約束を破って現れたのは、もちろん、ヴィクトール様だった。
「陛下、わたくしの自由時間を邪魔しないでくださいませ」
「邪魔ではない。……ただ、君の安寧の一部に、私も加えてほしいだけだ」
ヴィクトール様は当然のように私の隣に座り、私の膝にその重い頭を預けてきた。
「……お前の髪の匂いを嗅ぐと、国政の疲れがすべて消えていく。……魔法など、本当に必要ないな」
「……調子の良いことを」
私は文句を言いつつも、その黒髪に指を差し入れ、優しく撫でた。
四十歳の独身令嬢。のらりくらりと生きてきた、ただの女。
私が辿り着いたのは、最果ての平穏な隠居生活ではなかった。
それは、若き王の深い執着に守られ、自らの知恵で国を動かし、愛する人々と共に歩む、最高に騒がしくて、最高に甘美な安寧だった。
「なにした私……いえ、本当によく頑張ったわね、私」
私は鏡の中の自分にそう語りかけるように、満ち足りた微笑を浮かべた。
空はどこまでも高く、青い。
魔法のない異世界。
私たちの物語は、この場所で、永遠の日常へと溶けていく。
(完)




