第26話:黄金の包囲網、逃げ場なき戴冠の予感
この世界には、魔法という名の奇跡を紡ぐ呪文は存在しない。
だが、今の私を取り囲んでいる状況は、いかなる強力な束縛魔法よりも執拗で、逃げ場のない「呪い」に満ちていた。
朝、目を覚ました私の寝室には、頼んでもいないのに隣国の王室御用達である最高級の絹で作られた「王妃用」の礼装が、まるですでに主が決まっているかのように恭しく並べられていた。
「……なにした私。いえ、もうそんなレベルじゃないわ。これは完全に外堀が埋め立てられているどころか、内堀までコンクリート……じゃなくて、大理石で固められているわね」
私は鏡の中の自分を見つめ、力なく項垂れた。四十歳の、静かな独身生活を愛した私の安寧は、新王ヴィクトール様の「不器用だが執拗な愛」によって、粉々に打ち砕かれようとしていた。
部屋を出ると、そこにはいつになく真剣な表情の叔父カシムが立っていた。いつもならニヤニヤと私をからかう隣国の死神も、今日ばかりは「隣国騎士団長」としての冷徹な顔をしている。
「メル、観念しろ。隣国の王宮には既に、レガリス王国から『次期王妃内定』の公式な親書が届いている。我が王も、お前のような賢しい姪が隣国の王妃になるなら、これ以上の同盟の担保はないと大喜びだ。今さら辞めると言えば、それは国家間の裏切りになるぞ」
「叔父様まで……。わたくしをそんなに高く売り払いたいのですか?」
「売り払う? 違うな。……あのアホ面をした若造王が、お前のために国庫の半分を担保にして、アステール領の全住民の税を『永劫免除』する契約を結ぼうとしている。お前が王妃になるだけで、領民全員が一生安泰に暮らせるんだ。……お前に、それを断るだけの冷酷さがあるか?」
叔父の言葉は、私の最大の弱点である「実務的な良心」を正確に射抜いていた。魔法のない世界において、民の生活を保障することは、どんな愛の言葉よりも重い誠意の証明だ。ヴィクトール様は、私が最も拒めない「実利」を提示して、私の退路を断ったのだ。
追い打ちをかけるように、母方の祖父アルフォンスからも伝書が届いた。
『メルセデス。王妃の冠に必要な宝石はすべてこちらで用意した。お前が受けてくれるなら、アルフォンス大商会はレガリス王国全土の街道整備を無償で請け負おう。……頼む、孫娘よ。老い先短い私に、王妃の祖父という肩書きをプレゼントしてくれ』
「……おじい様まで、何てことを……」
実家の財力、叔父の武力、そして王子の執着。これらが完璧な三角形を成し、その中心に私が、一歩も動けない状態で固定されている。
私はふらつく足取りで、王宮の庭園へと向かった。そこには、一人で夜の準備を眺めるヴィクトール様の姿があった。
「……来たか。メルセデス」
彼が振り返る。その瞳には、一国の王としての威厳と、私を求める一人の男としての渇望が、激しく入り混じっていた。
「陛下……やりすぎですわ。わたくしを王妃にするために、これほどの国家的損失を伴う契約をあちこちと結ぶなんて。事務官として、断じて見過ごせません」
「損失ではない。投資だ。……君という、この国で唯一、私に真実を語る知恵を手に入れるための、安すぎる代価だ」
ヴィクトール様は私の前に歩み寄り、その熱い手で私の頬を包み込んだ。
「君がいなければ、私はまた孤独な、血に塗れた王座に引き戻される。……頼む、メルセデス。私の『隣』にいてくれ。監査官としてではなく、私の魂を分かち合う伴侶として」
若き王の、剥き出しの本音。魔法のない世界では、こうして熱を伝え、言葉を尽くすことでしか、心は結ばれない。四十歳の私は、彼のそのあまりにも不器用で、しかし真っ直ぐな情熱に、ついに白旗を掲げるしかなかった。
「……分かりましたわよ。負けましたわ。……ただし、一つだけ条件がございます」
「何だ? どんな条件でも飲もう。領地の拡大か? それとも新たな官職か?」
「いいえ。……わたくしが王妃になっても、一日に三時間は、誰にも邪魔されない『のらりくらりとする時間』を確保していただきますわ。……お茶を飲んで、お菓子を食べて、陛下の悪口を日記に書くための静寂を」
ヴィクトール様は、私のあまりにも私的な条件に、一瞬だけ呆けた顔をした。そして、堰を切ったように笑い出した。
「……ははは! ああ、約束しよう。その時間は、私が君の扉の前で門番として立っていてもいいくらいだ」
「それは邪魔ですので、止めてくださいませ。……陛下、本当に、後悔なさいませんこと?」
「後悔など、する暇もないほど、お前を愛して忙しくしてやる」
翌朝、王宮の大広間。
全貴族、そして他国の使節たちが居並ぶ中、ヴィクトール様が私の手を取り、玉座の隣へと導いた。
「諸公に紹介しよう。我がレガリス王国の、新たな光。……アステール伯爵令嬢メルセデスを、我が唯一の王妃として迎えることを、ここに宣言する!」
会場に、地鳴りのような拍手と歓声が響き渡った。かつて私を魔女と呼んだ者も、今は未来の安泰を確信したような安堵の表情で跪いている。
魔法など存在しない。
あるのは、逃げ場なき黄金の包囲網と、それを受け入れることを決めた、一人の女の覚悟。
私は、繋がれた手の圧倒的な熱を感じながら、静かに目を閉じた。
「……のらりくらり。さようなら、私の平穏。……こんにちは、激務の王妃生活」
私は、隣で満足げに笑う王子の横顔を見つめ、半分諦め、そして半分は……言いようのない幸福感の中で、新しい時代の幕開けを受け入れていた。




