第24話:事務官の裁き、影の終焉
大評議の間に、鉄の匂いが充満していた。
魔法の光や呪文の唸り声ではない。それは、隣国の精鋭騎士たちが纏う磨き上げられた甲冑の匂いであり、大陸最強と謳われる叔父カシムが放つ、物理的な威圧そのものだった。
扉を蹴破り、悠然と歩を進めてきた叔父は、抜身の剣を肩に担ぎ、私を囲んでいた公爵の私兵たちを一瞥した。その一瞥だけで、熟練の兵たちが蛇に睨まれた蛙のように硬直する。魔法のないこの世界において、これほどまでに圧倒的な「武」は、何よりも確かな真実であった。
「……陛下、そして諸公。騒々しくてすまんな。だが、我が姪がこれほどまでに低俗な茶番の主役にされていると知っては、視察の足を止めざるを得なかったのだ」
叔父の豪胆な笑い声が広間に響き渡る。
ヴィクトール陛下は、その乱入を待っていたかのように、微かに口角を上げた。だが、壇上のガストン公爵は、みるみるうちに顔を土気色に変えていた。
「カ、カシム殿……! これは我が国の内政問題だ! 隣国の騎士が、武装して評議会に踏み込むなど、明らかな国際法違反であるぞ!」
「法、か。……ならば閣下、その手に持っている『偽物』の法的な有効性についても、ここで議論しようじゃないか。メル、続きをやりなさい」
叔父は私に目配せを送ると、公爵の私兵たちを牽制するようにその場に居座った。
私は静かに一歩前へ出た。
周囲の貴族たちは、もはや私を「魔女」と罵る余裕すら失っていた。彼らの視線は、叔父の武力と、これから私が語るであろう「事実」への恐怖に揺れている。
「……公爵閣下。先ほど、この密約書に記された物資の価格が隣国の相場と乖離していると申し上げましたが。……さらに奇妙な点がございますわ」
私は公爵の手から、震える指で掴まれている書類を、躊躇いなく取り上げた。
「この書状に使われている紙。……これは、王宮の財務局が昨年に独占契約で仕入れた、特別な透かし入りの高級紙ですわね。隣国の貴族が、一年も前に我が国の特注品を手に入れ、そこに密約を記すなど、物理的に不可能ですの」
会場に、絶望的な静寂が流れた。
ガストン公爵の額から、大粒の汗が滴り落ちる。
「そ、それは……! 隣国のスパイである貴様が、王宮から紙を盗み出し、彼奴らに渡したに決まっている!」
「あら、それなら話が早いですわ。……わたくしが『誰の許可も得ず』にその紙を持ち出したという記録は、財務局の出納帳には存在しません。……ですが、ガストン公爵閣下。貴方の署名で、大量の予備紙が『廃棄』として処理されている記録なら、昨夜、わたくしがすべて洗い出させていただきました」
私は、自分のショールの内側に忍ばせていた、別の分厚い帳簿を提示した。
それはガストン公爵が突きつけた偽造の証文などとは比較にならない、圧倒的な情報の重みを持っていた。
「魔法のないこの世界において、事実とは積み重ねられた記録そのものです。……閣下、貴方がこの二十年間、前王妃様の威光を借りて、国庫から私腹に肥やしてきた金の流れ。……そのすべてを、ここに再現いたしました」
私は一ページずつ、淡々と読み上げ始めた。
「十年前の北部の飢饉。支援金のうち四割が、架空の輸送費として公爵閣下の関連商会へ流れている。……五年前の王宮改修工事。資材の仕入れ値を三倍に水増しし、差額が隣国の秘密口座へ。……そして、ルイス・フォン・クロムウェルとの共謀。彼を特使として招き入れ、アステール家の権利を奪うことで、隣国への不法な送金ルートを確立しようとした計画……。すべて、数字が語っておりますわ」
「あり得ない……! そんな記録、すべて処分させたはずだ! 貴様のような小娘が、どうやって……!」
ガストン公爵は、もはや自分が何を言っているのかも分からぬ様子で叫んだ。
「魔法はございませんが、母方のネットワークは大陸全土にございますの。商人の帳簿をすべて焼き払うことは、王であっても不可能ですわ。……公爵閣下、貴方が隠したつもりでも、受け取った側の記録は残ります。……そして、わたくしのような『数字の狂い』を生理的に受け付けない人間が、それを見逃すとでも思われましたか?」
会場の空気は、完全に一変した。
公爵に従っていた貴族たちが、蜘蛛の子を散らすように彼から距離を置く。彼らにとって、ガストン公爵はもはや「庇うべき主」ではなく、自分たちの身をも滅ぼしかねない「沈みゆく泥舟」に過ぎなかった。
「……そこまでだ、ガストン」
これまで沈黙を守っていたヴィクトール陛下が、ゆっくりと玉座から立ち上がった。
王の放つ威圧感は、叔父の武力とはまた異なる、冷徹で絶対的な「法」の重みを纏っていた。
「……ガストン・フォン・バルバロイ公爵。貴殿を、公金横領、公文書偽造、及び国家反逆の罪で直ちに捕縛する。……弁明の余地はない。君が積み上げてきた悪徳は、アステール顧問の指摘通り、もはやこの国の土壌を汚しきっている」
「……あ、ああ……」
ガストン公爵は、力なくその場に崩れ落ちた。
二十年間、魔法のない世界で「実務」という名の闇を支配してきた老獪な怪物は、自分よりも遥かに精緻で、遥かに強靭な「実務の天才」である四十歳の令嬢によって、その牙をすべてへし折られたのだ。
近衛兵たちが、抵抗を止めた公爵を連行していく。
広間には、嵐が去った後のような虚脱感と、それ以上の畏怖が漂っていた。貴族たちは、中央に立ち続ける私――メルセデス・アステールを、もはや「王の寵妃」などという甘い言葉で呼ぶことはなかった。
彼女は、数字一つで国を改造し、言葉一つで最強の騎士団を動かす、この国で最も「触れてはならぬ女」である。その認識が、魔法のないこの世界の「新たな常識」として刻まれた瞬間だった。
「……メルセデス」
ヴィクトール陛下が壇上から降り、私の前へと歩み寄った。
彼は、周囲の視線など一顧だにせず、私の手を取り、その手の甲に深く、熱い接吻を落とした。
「……見事だった。君が独りで戦い抜くと誓った通り、君は私の手を汚させず、自らの知恵でこの国を救った。……君こそが、レガリス王国の誇りだ」
「陛下。……わたくしはただ、合わない数字を正しただけですわ。……それに、叔父様が来てくださらなければ、わたくし今頃、地下牢の冷たい床で寝る羽目になっておりましたのよ」
私はのらりくらりと、しかし微かな安堵を込めて微笑んだ。
叔父カシムが、肩をすくめて剣を鞘に収める。
「まあ、最後は数字の勝利だったな。だがメル、お前がこれほど恐ろしい女になるとは、亡くなった兄貴も天国で腰を抜かしているだろうよ」
影の支配者は去り、過去の亡霊も消えた。
残されたのは、不器用な若き王と、のらりくらりと生きてきた四十歳の事務官。
そして、二人が手を取り合って築く、新しい時代の静かな胎動だった。
私は、繋がれた手の熱を感じながら、ようやく訪れた本当の平穏――いや、王妃としての更なる「激務」の予感に、苦笑いを浮かべるしかなかった。




