第1話:のらりくらり過ごして二十年、夜会の一瞬が静寂を壊す
魔法などという便利な奇跡はこの世界には存在しない。
怪我をすれば薬草を煎じて傷口を縫い、遠くの誰かに声を届けたければ馬を走らせる。夜を照らすのは魔石の輝きではなく、煤の匂いが混じるオイルランプの灯火だ。そんな、石を積み上げ、血を流して歴史を刻む地味で泥臭い異世界に、私は転生して四十年になる。
アステール伯爵令嬢、メルセデス。それが今の私の名だ。
前世の記憶があるといっても、それは霧の向こうにある淡い映像のようなもので、今の私を形作っているのは、この世界で生きてきた四十年の月日そのものである。
二十年前に両親を相次いで亡くした時、親戚一同は「女の細腕で伯爵家が守れるはずがない」と、寄ってたかって財産を食いつぶそうとした。当時の私は、前世の事務知識を振りかざして無双するような真似はしなかった。ただ、父が残した正確な帳簿を盾にし、母方の実家である豪商の伝手を使い、隣国の騎士団長を務める叔父の威光を絶妙な匙加減でチラつかせただけだ。
結果として、私は誰とも結婚せず、誰の派閥にも属さず、このアステール領という小さな平穏を今日まで守り抜いてきた。
「お嬢様、そろそろお支度を。今夜は新王陛下が主催される、政変後初めての公式夜会なのですから」
古参の侍女が、ため息混じりにドレスを広げる。
「分かっているわ。適当に顔を出して、適当に壁の花になって、適当に帰ってくるだけよ」
鏡の中に映るのは、四十歳という年齢相応の落ち着きを纏った女の姿だ。若者のような弾けるような輝きはないが、手入れを怠っていない肌と、長く独身を通してきた自信が、独特の静かな気品を作り出している。
今回の夜会は、これまで国を牛耳っていた私欲まみれの王妃が断罪され、弱冠二十三歳のヴィクトール王子が新王として即位したことを祝うものだ。巷では、王妃に連なる者たちが次々と処刑台へ送られたという血生臭い噂で持ちきりだった。
夜会の会場である王宮の広間は、熱病のような熱気に包まれていた。
魔法がないこの世界において、権力とはすなわち生存権そのものである。新王の覚えをめでたくしようと、着飾った貴族たちが我先にと中央へ押し寄せていく。
私はその喧騒から最も遠い、バルコニーに近い壁際に陣取った。
(……ああ、うるさい。香水の匂いがきつすぎるわ)
シャンデリアの蝋燭が燃える匂いと、人々の欲望が混じり合った空気に、私は早くも辟易していた。
義務としての出席。誰にも話しかけられず、目立たず、この時間が過ぎるのを待つ。それはこれまでの二十年間、私が何度も繰り返してきた得意分野だった。
あまりの騒がしさに、私はふと、まぶたを閉じた。
(……明日の朝食は、昨日叔父様から届いた隣国の燻製肉を焼いてもらいましょう。パンは少し硬めの方が合うかしら。それから、北の果樹園の収穫報告を精査して……)
そんな、極めて現実的で、この華やかな場にはこれっぽっちも似つかわしくない日常の予定を頭の中で並べる。私にとって、この時間は一種の瞑想のようなものだった。
どのくらいの時間が過ぎたのか。
ふと、周囲の喧騒が、潮が引くように静まり返ったのを感じた。
おかしな静寂に、私はゆっくりと目を開ける。
その瞬間、心臓が跳ねた。
目の前に、一人の男が立っていた。
漆黒の礼装に身を包み、腰には儀礼用とは思えないほど実戦的な剣を下げている。突き刺すような鋭い青い瞳が、私を真っ向から射抜いていた。
ヴィクトール新王。
返り血の冷徹さをその身に刻んだままの、若き支配者だ。
なぜ、王がこんな壁際にいるのか。なぜ、私を見つめているのか。
周囲の貴族たちは、息を呑んでこの光景を注視している。まるで獲物を狙う鷹の前に立たされた小鳥を見るような、同情と好奇の視線。
私は、四十年の人生で培った「無」の仮面を即座に装着した。
動揺を見せれば、そこから綻びが生まれる。私は何事もなかったかのように、優雅に、そして事務的に膝を折った。
「……陛下。月の輝きも霞むほどのご威光、お慶び申し上げます」
それは、模範解答のような完璧な会釈だった。二十年間、一度も失礼を咎められたことのない、温度のない礼。
王の返答を待つ間、私は視線を伏せた。彼のブーツの先がわずかに動いたのが見えた。
沈黙。
たった数秒のその時間が、まるで永遠のように長く感じられた。
やがて、彼は一言も発することなく、翻ってその場を去っていった。
(……助かった)
私は背中に流れる冷や汗を感じながら、誰にも気づかれないよう深呼吸をした。
理由は分からないが、どうやら不敬を問われることはなかったらしい。私はそのまま、人混みに紛れるようにして会場を後にした。
夜風を浴びながら馬車に乗り込み、アステール邸へと帰る。
それから三日間、私の日常はいつも通りだった。
朝に庭を散策し、昼に領地の書類を確認し、夕食に叔父から届いた珍しいワインを嗜む。夜会の出来事は、ただの「運の悪い一瞬」として忘れ去ろうとしていた。
だが、その平穏は一通の書状によって、無残にも打ち砕かれることになる。
「お嬢様! 王宮から……王宮から、使いの方が!」
血相を変えて飛び込んできた執事の手には、王家の紋章――峻厳な双頭の獅子が刻印された封筒があった。
私は震える指でそれを開封し、中身に目を通した。
『アステール伯爵令嬢メルセデスに対し、至急、王宮への出頭を命ずる』
簡潔な、逆らうことの許されない王命。
私は手に持っていた茶菓子を、呆然と皿の上に落とした。
「……なにした私!?」
夜会で目が合っただけだ。一言も交わさず、完璧な礼をして去ったはずだ。
二十年間、のらりくらりと、誰の邪魔もせずに生きてきた私の頭の中で、警告音が鳴り響いていた。
魔法のないこの世界で、王の言葉は絶対だ。
呼ばれれば、行かなければならない。たとえその先に、断罪の剣が待ち構えていたとしても。




