第八章 孤高を恐れず
いじめは無意味であり、むしろ悪であるとすら言えます。
何故なら、人々は共同体で生きているようでいて、実際は個として生きているからです。
その証拠に、老人の孤独死や結婚出来ない人たちが多く存在します。
孤立し、自殺する若者も多く存在しますし、希望出生数と実際の出生数にも差があります。
貧困に苦しむ人、孤独に悩む人が居るということは、それはすでに共同体が機能していないからです。
逆説的に言えば、いじめが容認される社会とは、その共同体の意思に従っていれば、それこそ揺り籠から墓場まで、所属する共同体が責任を負ってくれるからこそになります。
収入や立場に応じた結婚相手も共同体が見つけてくれるという点で、共同体においては独身者はむしろ珍しい存在です。
実際、少し前までの日本では、結婚することは当たり前の社会でした。
いつまでも独身でいれば、必ず誰かがお相手の世話をしてくれたものです。
もっとも、婚姻相手を自由に選べないという点では、不自由かもしれませんけど。
しかし、孤独に苦しむことは、あまり無いと言えます。
その存在を、村落共同体と言います。
日本の婚姻率の低下と、急速に進んだ地方における過疎化の問題は、偶然ではなく相関関係にあると考えます。
地域コミュニティの崩壊が進んだからこそ、いじめが容認されるような時代ではありません。
特に高度成長期によって大勢の若者は都会に流れてしまい、各地方は一気に過疎化してしまいました。
その都会で同じ地域出身者で疑似的な村落共同体を形成する事はほぼ不可能であり、出入りが激しい都会では人の定着は中々難しく、しかも所属する組織もバラバラになります。
村落共同体の前提は、同じ職場、同じ集落に住まないと機能しないからです。
高度成長以降の社会では、人々は地域と言うより会社に所属意識を持つようになりました。
我々の世代だと、社長はお父さん、専務がお母さんなんて比喩があったぐらいですから。
そんな訳、ないのに。
共同体の紐帯を確認する為のお祭りや消防団などに参加するにも、休日や勤務形態がばらばらでは、もうどうしようもないからです。
しかし、そうは言っても人は多数派に従うように出来ており、そこに善悪はありません。
だからいじめは無くなりませんし、いじめがあること自体が人の証明になるからです。
それが人類の生存戦略であり、今生き延びている証明になるからです。
それを科学で証明したのが、ソロモン・アッシュが行った同調実験になります。
1955年に米国で行われたこの実験は、ある意味で画期的でした。
この実験のミソは、どんなに愚かな解であっても、多数派の出した解に人々が従う事があるのだということにあります。
つまり、間違った解であっても、それが多数派なら疑問に感じても、それに従ってしまいます。
そもそも集団において、全体に従うことが生存戦略としては正しいはずなのに、どうして間違いに従うのか?
実は問いが単純であれば単純なほど、多数派の出す解が正解になるからです。
この実験もありますが、単純な白黒といった二つの選択肢しかない場合、概ね多数派が正解します。
しかし、三つ、あるいは四つと選択肢を増やせば増やす程、多数派はどんどん正解から遠ざかります。
世界が今のように複雑化していない、狩猟と採集で良かった時代なら、この多数派の解で良かったはずでしょう。
実際、多数派の意見を採用すれば、全体のコンセンサスを得やすく、計画も実行し易いからです。
だから人々は、多数派に流されやすく出来ています。
その一方で、少数派の意見が生かされる場合もあります。
セルジュ・モスコビッチによる少数者の影響実験になります。
これは1969年のフランスで行われた実験で、少数者の意見が全体に対してどのような影響を及ぼすかの実験でした。
これにより、少数者の意見が常に一貫していること、決してブレないという条件が成立することによって、少数者の意見が多数派に影響を与えます。
正しさを主張し続ける、それでもノーと言い続けることによって、間違いから逃れることが出来ると考えます。
例えば、東北のある小学校に避難通路を設置するかどうか揉めた際、一貫して必要性を訴えた結果、その避難通路は設置されました。
そしてついに、その日が来ました。
東日本大震災です。
この未曾有の大災害で、この避難通路が役立ち、子供たちの避難が出来ました。
女川原発も同じです。
国の基準を大きく上回る、高さ14メートルの高台に原発を設置しない限り、原発の導入はしないと当持の東北電力の役員は主張しました。
費用対効果とか国の安全基準とか色々とありましたが、ダメなものはダメと反対し、結局、女川原発は14メートル以上もの高台に設置されました。
そして、ついにその日が来ました。
幸い、女川原発は津波の襲来にも耐えるどころか、避難者の受け入れすら行いました。
そして小学校の避難通路の設置を推進した人も、女川原発を高台に設置せよと主張した人も、すでにこの世になく、彼らは自身の主張の正しさを知ることはありませんでした。
しかし、その結果は御覧の通りです。
日本人は空気を読むことには長けていますが、将来の危機に備えることは出来ません。
それはセロトニン不足による不安感の増大と、思考をする為の理性が乏しいからです。
これは脳がそうなっているので、仕方がないかもしれませんが、正しい主張をする者を排除しようとするので、これはこれで困った話です。
女川原発のようにうまくいった事例もありながら、まったく逆の事例もあります。
それは福島第一原発のように、度々津波対策や原発内で起きた過酷事故に対応する装備の導入を主張しながらも、とうとうそれを受け入れることはなく、ついにその日が来てしまいました。
どうしてかと言えば、福島第一原発を管理運営する東京電力が大きすぎたことが根本理由であり、ああいった大企業になると、自社だけの問題ではないからです。
事故が起きる可能性があるというだけで、それ自体が無責任になるからです。
その意味で、東電もまた被害者なのだろうと考えます。
つまり、学校でいじめがどうして酷くなるのか、どうして学校はいじめを隠ぺいしようとするのかと言えば、そもそも責任を負うべき学校長自体がサラリーマン化しており、しかも地域の名士のような存在ゆえに、子供たち一人一人を思うことが出来なくなります。
むしろ、目は外に向くようになります。
そこに御茶坊主的な学校長が居る場所で、いじめが発生したら直ちに保身に走るはずであり、そこで起きる問題は最初から存在しないことになります。
特に日本人はセロトニン不足であり、冷静さを欠いた対応を取ってしまいます。
何故なら、いじめの加害児童の親は概ね、モンスターペアレンツのような存在になるからです。
だから後になって、モンスターペアレンツよりも遥かに恐ろしい、世間を敵に回してしまいます。
セロトニン不足の影響により、未来予想を出来ないように仕向け、今この瞬間が何とかなれば、後はどうにでもなると思い込めることで、いじめの問題はより深刻になります。
いや、そもそも未来は存在しないから、だから今だけなんです。
そしてそれに同調することが、人にとって一番楽な選択になりますが、複雑化する社会ではその単純な選択こそが、間違いになってしまいます。
だからこそ、同調しない者、一貫して主張する者が組織には必要なんです。
そういう風通しの悪い組織にとって厄介な存在を、悪魔の代弁者と呼びます。
もちろん、いくら悪魔の代弁者であっても、権限が無ければ外野扱いになります。
東芝不適切会計事件のように、せっかく導入した社外取締役を巧妙に無力化し、不適切な会計処理をこっそりやっていたようにです。
これでは、悪魔の代弁者は存在しないも同義と言えます。
しかし、結果はすでに出ています。
だからこそ、どうにかして組織には、悪魔の代弁者の如き存在が必須なんです。
いじめはあって当たり前、組織は腐敗して当たり前。
この当たり前を通り越して、もはや普通にしてしまっていることが、我が国の問題なんだろうと思います。
口先だけで、若者よ出る杭になれなんて言う輩こそ、組織に必要無い存在です。
何故なら、出る杭を見つけては踏みつけたり、せっせと潰すのもこういった輩だからです。
いじめ、絶対ダメ!なんてポスターの横で、我が校にはいじめなんて絶対にありませんと言い切るようになるのも、こういった日本的な慣習があるからと思います。
いじめはあって当たり前なんですよと言っても、我が校の名誉を傷つけているとか、子供たちに酷いことを言うなと、論点ずらしをします。
それこそが、いじめの被害を拡大する要因であると、我々は理解しないといけません。
いじめなんて無いと言う者は、すでに無能であると認識すべきでしょう。
あるモノを無いとすることで、解決することなんて一つもありませんから。