第59話 炎は終焉を照らす
荒い気遣いが、地下水路の中に響く。
重い身体を引き摺るように、竜翔白姫を杖代わりにして、何とか前へと進むロザリンは、ようやく見えてきた目的の場所に、安堵の息を吐く。
ポタッ、ポタと顔から流れる大粒の汗が、通路の上に落ちる。
明りの無い地下水路だけあって、周囲は闇に閉ざされ真っ暗。何とか目が暗闇に慣れてきて、歩くことは可能になったのだが、通路自体は人が一人通れるほどの幅しか無いので、油断すれば足を踏み外し、水路へと落ちてしまうだろう。
慎重に、けれど急いで、ロザリンは水路を進む。
時間は予定より遅れてしまっている。
出来ればもう少し速度を上げたいのだが、ミュウとの戦いで負傷した身体と、魔力の消耗により、ロザリンの体力は限界が近かった。
「後、少し……何とか、頑張らな、きゃ」
必死で自分に言い聞かせ、ロザリンは鉛のように重い脚を動かす。
やがて、ボンヤリとした青い光が見えてきた。
結晶体だ。
「――ッ!?」
目に見える形で目的地が示され、身体に気力が戻ってくる。
歩く速度を速めて、ロザリンは倒れ込むように、結晶体へと寄り添った。
「なんと、か……ついた」
結晶体は水路の突き当りに存在していた。
恐らく、何等かの理由で、続いていた水路を封鎖した影響なのだろう。
ロザリンは通路に膝をつき、結晶体に寄り掛かりながら、息を整える為、大きく深呼吸を繰り返した。
ふと見ると、横には鉄製の梯子がある。
視線で追って見上げると、暗くてよく見えないが、外へと続く鉄製で出来た蓋のような物が確認出来た。
そう言えば、ここに来る途中にも、一定の間隔で梯子が存在していた。
「あそこからなら、簡単に、外へ出られる、だろうけど……今の体力じゃ、途中で、落っこっちゃうね」
ロザリンは苦笑する。
息が整うと、表情を引き締めて、結晶体の前に座り込む。
逆計術式で使う筈の銀板は、ミュウとの戦いで消費してしまった。
なので、この場で逆計術式を発動させるには、直接、結晶体に術式を刻み込まなければならない。
暫し目を瞑り、必要な術式構成を思い起こす。
「……よし」
気合を入れると、ロザリンはポケットから、太い針のような道具を取り出す。
先端を表面に添えると、細かく削りながら術式を刻んでいく。
時間が無いので、必要最低限の術式しか施せず、後は直接ロザリンが魔力を操作して逆計術式を発動させるしかない。
昨夜、何枚も繰り返した工程だけに、削る指先も覚えていて、滑るように鋭利な先端が走る。
後少し、後少しと、焦る気持ちを落ち着かせて、スピーディーにけれど正確に針を操る。
時間が押し迫っている故か、ロザリンの集中力は凄まじい。
水音の中にカリカリと、結晶体を削る音が混じること十数分。術式の九割が完成した。
「よし」
いや、逆計術式自体は完成しているので、このまま発動しても問題は無いだろう。
問題があるとすれば……。
背後で、水音が跳ねる音が聞こえ、淡いオレンジ色が暗い水路を染める。
ひりつくような熱さに、ロザリンは背後を振り返った。
「……見つけたぁ」
地獄の底から響くような声に、戦慄が走り全身が凍りつく。
離れた通路の先にニヤリと笑う、青い結晶体の左目を持つミュウの姿があった。
その半身からは、彼女の怒りを表すように炎が迸る。
「ミ、ミュウ……!?」
ロザリンは絶句する。
彼女は、何度、自分の常識を覆せば済むのだろうか。
傷口の代わりに結晶化した部分は、逆計術式の効果で一部が青では無く、赤へと変色している。
ミュウの足取りは、左足が言うことが利かないのか、引き摺るように歩いていて、見るからに満身創痍といった風体だ。
だが、立ち上がることも出来ないロザリンと比べれば、まだ余力が残っているだろう。
退路を塞いだ余裕からか、ゆっくりとロザリンを追い詰める。
足先が水溜りに触れ、ぴちゃんと跳ねた雫が赤い宝石に触れた瞬間、蒸発して周囲を照らすほどの火柱が立ち上る。
「――ぐうっ!?」
天井を突き抜けるほどの業火の眩さと熱さに、ロザリンは腕で顔を覆った。
自ら発生した炎に炙られ、ミュウは苦悶の表情を浮かべ、僅かに膝を崩す。
火傷をした様子は無い。
あの炎はミュウの一部とも言え、炎自体がミュウを傷つけることは無い。
けれど、ミュウの身体は水属性の結晶体で構成されている。
反属性である炎が身体の中で暴れ回り、実際には傷はつかなくとも、火属性が高まる度に、身体の内部から焼かれるような激痛に襲われているのだろう。
常人なら、歩くどころか立ち上がることも不可能な筈。
それを精神力のみで抑え込み、尚もロザリンの前へと立ち塞がる。
恐るべき執念だ。
火の放射が治まると、ミュウはギロッと血走った右目を向ける。
「殺してやる……お前を、殺して……私はアイツを手に入れるんだッ」
逆計術式の所為で、回復能力が著しく低下した為だろう。
傷の痛みに声を掠れさえて、ミュウは何遍も発してきた言葉を、うわ言のように繰り返す。
憐れだと、ロザリンは悲しげに眼を伏せる。
何が自分をそこまで突き動かすのか、その理由もわからないまま、いや、わからないフリをしたまま、ただ狂って壊れている姿は、まだ若いロザリンには理解出来ないし、直視していられるモノでもなかった。
だが、ロザリンにも引けぬ思いがある。
「――ッ!」
顔を上げ、瞳に魔力を送る。
魔眼だ。
「――チッ!? 身体の、自由がッ!?」
網膜を通して染み込むロザリンの魔力が、ミュウの身体の自由を奪う。
魔眼は強力だが、万能では無い。
強い精神力や高い抵抗力を持つ人間には、非常に聞き難く、その両方を兼ね備えるミュウは、本来なら指先一つの自由も奪えなかった。
けれど、戦いによる疲労、怪我、魔力の低下、そして逆計術式によるオーバーロードによって、何とか魔眼が通じる状態になっているのだ。
それでも奪えるのは、手足の動きがやっと。
本当に、凄まじいほどの執念、いや、妄念だ。
魔眼を発動させた視線を、横の水路に向ける。
「――ッ!? 水路に落とすつもりかッ!」
意図を読み取り、ミュウは意思に反した行動を取り始める足を、なんとか主導権を取り戻す為、強引に身を捩り暴れる。
自己意思と魔眼の効果が反発し合い、奇妙な動きでたたらを踏む。
まるで錆びついた車輪のように、ミュウの足の動きはぎこちない。
濡れる床を滑り、ミュウの足が半分まで水路側に晒された。
「――ッッッ。だ、駄目……!?」
苦しげに呻くと、魔力を帯びて発光する瞳の光が、消えた。
二人を結ぶ綱が切れかたのよう、ロザリンとミュウは互いに荒く息を吐き、濡れた通路の上に手の平を突く。
「ま、魔力の消費が、激しくて、これ以上は、魔眼が維持、出来ない……」
後少しだったのにと、ロザリンは悔しげに曲げた指先で地面を引っ掻く。
これ以上消耗すれば、逆系術式が作動させることが出来ないどころか、この場で気絶してしまう。
限界ギリギリな姿を見てか、ミュウは震える声で笑う。
「は、はははッ。ざまぁないわね!」
「ッッッ……ま、負け、無いッ」
必死の形相で、横に置いてあった竜翔白姫を掴み、杖代わりにして立ち上がろうとする。
けれど、膝に上手く力が入らず、腰を浮かすことも出来ない。
「アンタも、随分と往生際が悪いわね」
ボロボロになり、精根尽き果てている筈なのに、まだ諦めないロザリンの姿を見て、ミュウは不機嫌そうに顔を歪めた。
「いい加減にしろよ……私は欲しいモンなんか無かった。初めて見つけた欲しいモノを手に入れる為に、テメェみたいなッ、お子様がッ、しゃしゃり出ること自体が間違いなんだよッ!」
怒声と共に炎が全身から立ち上り、水路の床や壁、天井を焦がす。
炎に包まれ、ミュウは喉が裂けるほど、感情を露わに怒鳴り散らす。
「邪魔をするなクソガキ! 私は、お前と殺し合いがしたいんじゃない、アルトとしたいんだよぉぉぉォォォッッッ!!!」
「――ふざけるなッ!」
動けぬロザリンは、炎に熱せられ焼け付くような空気を一杯に吸い込み、滅多に出さない大声を張り上げた。
乾いた空気に、咳き込みながらも、ロザリンは力強く睨み付ける。
「私は、アルが好き……この気持ちは、誰にも、負けない」
奥歯をギリギリと鳴らし、立てぬ身体を、強引に押し上げる。
「だから、負けない。こんなところで、負けてやらない。私の恋は、無敵なんだからッ!」
膝が笑う。視界も、薄ぼんやりとしていてハッキリと前を見通せない。
皆を頼むと、アルトは言っていた。
好きな人の守りたいモノは、ロザリンにとっても守りたいモノ。いや、能天気通りが、この王都が、たった一ヶ月ちょっとしか暮らしていない自分が言うには、烏滸がましい言葉なのかもしれないが、帰る場所として守りたい。
空っぽの体力を補うのは、ロザリンがこの一ヶ月で積み重ねてきた、思い出だ。
「それこそ、命と、引き換えに、したってッ!」
竜翔白姫を両手に持ち、刃を自らの方へと向ける。
その行動に、僅かに歩く速度を緩めたミュウは、訝しげに首を傾げた。
「なに? 自害でもするつもり?」
「……まさか」
剣の先端はロザリンの身体を逸れ、背後の結晶体に向く。
息を飲み、ミュウは両目を見開いた。
切っ先は、結晶体に刻まれた文様に向けられている。
「――まさかッ!?」
ロザリンは、ニヤッと笑みを浮かべた。
この場で逆計術式を発動させる。
術式自体は完成していた。が、後一点、安全を確保する為の指向性を設定する術式までは、施せなかった。
本来なら、突き当りで逃げ場の無い場所でも、水の放射を正面に集中させることで、壁際ギリギリにいれば、激流に巻き込まれないよう計算して術式を組んでいた。
しかし、手動での作業ではそこまで間に合わず、このまま作動させれば、溢れ出した水で水路は完全に水没してしまうだろう。
ミュウや自分、諸共。
「――させるかッ!」
全ての激痛を無理やり抑え込み、ミュウは一足で間合いまで踏み込む。
振り上げた右拳は、手加減無しの一撃で、確実にロザリンの頭蓋を砕くだろう。
届くより早く、剣の切っ先が結晶体に突き刺さる。
が、ロザリンの腕に力が入らない為、切っ先が刺さっただけで、目標としている深さまで刃が届かない。
「――クッ。入れ、入ってッ!」
体重をかけて無理やり押し込むと、少しずつ刃は沈んでいくが、間に合いそうにない。
凍えるような殺気に視線を上げると、空気を裂いて轟く拳が、鼻先にまで迫っていた。
死ぬ。
予感と共に、世界がスローになった。
踏み込み、叩き込もうとする全力の拳が、ゆっくりとロザリンの顔面を狙う。
勝利を確信したのか、ミュウは狂気に満ちた笑みを浮かべていた。
「そん、な」
絶望感と無力感から、心が闇へと堕ちる。
瞬間、
目の前に人影が急速落下したかと思うと、直前まで迫っていたミュウの腕が切断され、クルクルと宙を舞いながら水路へと落ちた。
「……えっ?」
鼻孔をくすぐる、薔薇の甘い香り。
大太刀を振り下ろしたラヴィアンローズが、血の変わりに砕け散る青い結晶体を浴びながら、驚きに止まるミュウを蹴り飛ばして振り返る。
普段通りの優雅な笑みを湛え、落下の時に乱れた髪の毛を手櫛で整えた。
「お待たせしましたわね、おちびちゃん」
驚きのあまり、ロザリンは声が出せなかった。
蹴り飛ばされたミュウは、残った左手で床を弾き、一回転して着地。怒りに燃える形相で、ラヴィアンローズを睨み、有無を言わさず飛びかかってきた。
「――貴ッ様ァァァッッッ!!!」
「エーくん」
怒りに我を忘れ、突貫してくるミュウ。
冷静な視線で微笑を向けると、エーくんが緑の障壁を展開する。
諸にミュウは障壁に激突。普段だったら強引にでも打ち破る突進力も、傷だらけの現状では十分に発揮できず、哀れ跳ね返ってきた衝撃にミュウは大きく跳ばされて、通路の上を転げ回った。
そして一巡して状況を把握したラヴィアンローズは、軽く刺さった竜翔白姫を蹴るようにして踏みつけ、目標の深さまで無理やりに押し込む。
「おちびちゃん!」
「うん! 逆計、この我の途を示せ!」
竜翔白姫を伝わり、流された魔力によって、結晶体は輝きを増す。
瞬間、結晶体に罅が入り、僅かずつ水が漏れだす。
「さぁ、スタコラ逃げますわよ!」
突き刺さった竜翔白姫を引き抜いたロザリンを、ラヴィアンローズは肩に軽々と担いで、軽く膝を落とすと真上へと跳躍する。
引き抜いた穴から水が勢いよく噴射し、それが結晶体の罅を更に大きくした。
見る間に水路の水嵩が増えて、荒れ狂うように渦を巻きだす。
梯子は使わず器用に壁を蹴りながら、ラヴィアンローズが降りてきた、上の出入り口を目指す。
「――に、逃がすかぁぁぁぁぁぁッッッッッッ!!!!」
真下からミュウが、獣のような叫び声を張り上げ、徐々に勢いを増す水の中から飛び出すと、まだそんな余力が残っているのかと思う速度で、同じように壁を蹴り二人に迫る。
担がれ、逆さになっているロザリンと、視線が交差した。
「これで、正真正銘、最後、だ!」
最後に残った絞りかすの魔力を込め、ロザリンは一瞬だけ魔眼を発動した。
「――ッ!?」
ほんの僅か、瞬きをする間だけ、ミュウの動きが静止する。
それで十分だった。
唖然とした表情で、駆け上がる揚力を失ったミュウは、地下水路へと落下していく。
「……アル、ト」
呟き、唖然とした表情で、ミュウは縋り付くように手を伸ばした。
ロザリンはハッと息を飲み、自分でトドメを刺しておきながら、思わず身を乗り出し右手を差し出してしまう。
ミュウの右目が、驚くように大きく開いた。
指先が微かに触れる。その瞬間、ミュウは拒否するよう、差し出された手を弾いた。
地の底から轟くような音と共に、荒れ狂う水が水路を瞬く間に埋めていく。
激しく渦巻く水流の中に、ミュウの姿は消えて行った。
前回の非では無い水の勢い。無事に生還することは、ほぼ不可能だろう。
「……ミュウ」
最後に拒絶された手を、力なく握り締めた。
今度こそ、今度こそ終わった。
ラヴィアンローズの肩に担がれ、ロザリンは脱力する。
方法は間違っていたし、何も正しくは無かった。
けれど、最後の最後に見せたあの姿は、恋に破れる女の子のように思えた。
もしかしたら、純粋だったかもしれない一人の少女の恋は、激流の中へと消え去った。
一気に駆け上がり、二人は地上へと飛び出す。
ほんの一時間ほどだが、久しぶりのように感じる太陽の光が、暗闇になれた目には少し痛かった。
「はぁ~い、到着ですわね」
肩から降ろされたロザリンは、立つことが出来ず、ヨロヨロとその場に座り込む。
「あらあら。随分とお疲れね……よく見れば、恰好も悲惨じゃないの」
「……そう?」
言われて、自分の姿を改めて見下ろす。
ボロボロの、ドロドロの、ビショビショ。
身体中のアチコチに切り傷や擦り傷があり、痣や打ち身が無い場所を探す方が難しいだろう。もしかしたら、骨の一本や二本、折れているかもしれない。
今は気分が高まっているので、差ほど痛みは感じないが、時間が立てば激痛に悶絶することは必死。
「やばい。意識したら、痛く、なってきた」
青い顔で言う。
「諦めなさいな。名誉の負傷とは、得てしてそういうモノですわ」
他人事のように笑い、ラヴィアンローズは大太刀を納めた。
遠くの方から、大量の水が流れる音が響き、それに驚く人々の喧騒も聞こえて来る。
「……逆計術式、これにて完成、かしら?」
「うん。多分」
ラヴィアンローズは持ってきた硝子玉を懐から取り出すと、それを目の前に差し出す。
透明だった硝子玉は、十二個全て青く染まっていた。
目を見開き、ロザリンは鼻から大きく息を吸う。
「勝っ、た」
万感の思いを込めて、それだけ呟くと、嬉しさを噛み締めるように打ち震えた。
その姿に、もっと派手に喜べばいいのにと、ラヴィアンローズが腕を組んでジト目を向けていた。
本人も本当はそうしたいが、限界を超えた身体では、これが精一杯なのだ。
「ところで、ラヴィアンローズの方は、大丈夫、だったの?」
「ああ、勿論ですわ。通りの方々にも、被害は出ていません……流石は年の功と言いましょうか、頭取のお婆様が異変を察知して、適切に処理して下さいました」
「おお、流石……でも、よく、場所がわかった、ね。タイミングも、よかったし」
地下水路の場所は、事前に打ち合わせしたから、探しに来ても不思議では無い。
が、あの天井の通路は、ロザリンも知らなかったし、北街出身のラヴィアンローズが知っていたとは思い難い。
「随分と派手に戦っていたようですから、見つけるのは容易かったですわ。それに、探している途中、火柱が上がって、鉄の蓋が吹っ飛んでいきましたから。何事かと中を覗いたらピンチでしたので、透かさず加勢に駆け付けましたの」
ラヴィアンローズは、陶酔するような表情で大きく両手を広げる。
「何て運命の女神に好かれているのかしら、わたくしったらっ! すんばらしいタイミングでしたわエクセレント!」
このテンションも久し振りな気がして、ロザリンは力なく苦笑した。
とにかく、国崩しは何とか阻止した。
すっきりした気持ちで、ロザリンは背中からポテンと倒れる。
これで、後はアルトを助け出せば万事解決。
我慢しきれない達成感の中、ロザリンは暫し酔いしれていた。
★☆★☆★☆
天楼の最奥にある邸宅で、シドは一人、杯に注がれた酒を飲む。
吹き抜けの壁。通常の建物の三階に位置するこの場所からは、天楼の街並みが一望でき、そこからの景色、和やかな人の往来、営みを眺めながら酒を飲むのが、シドの何よりの楽しみでもあった。
北街の無法地帯とは思えないほど綺麗に整い、笑いの絶えぬ賑やかな通り。
ここは、在りし日の北街。その残景を模した姿だ。
魔力の光が漏れだす夜景も美しいが、この平凡な街並みは何よりも代えがたい。
しかし、シドにとってこの場所は、落日の箱庭に過ぎない。
個人がこの規模の街を維持するのには、金銭的にも政治的にも問題が生じる。
今まではそれでも、血を吐く思いで何とかやり繰りして来たのだが、それも最早限界が近づいているのだ。
一年以内、いや、早ければ半年で、この天楼は崩壊してしまうだろう。
「まだだ。まだ、終わるわけにゃいけねぇ」
胸に去来する焦りを表すのか、口に含む酒は妙に苦い。
数刻前、微かだが地響きに似た音が響き、正面のリュシオン湖方面に、魔力放射による青白い閃光のアーチが見えた。
シドの計画には無い現象だった。
「父さん」
階段を昇って来たボルドが、神妙な表情で声をかけてくる。
返事はせず、酒を飲みながら、視線だけで先を促す。
「部下からの報告がありました。国崩し術式、破られたそうです」
「……そうか」
短く、息を吐いた。
苦笑交じりに、ボルドは肩を竦める。
「誤算でしたね。まさか、あんな方法で国崩し術式を破るなんて……アレを作るのに、相当の金と労力を注いだんですが、文字通り水の泡と消えてしまったようです」
「ま、しゃあねぇわな」
グッと、杯を煽る。
妙に無関心な様子に、もう一度肩を竦めると、ボルドは座るシドの横に立ち、両手を腰の後ろに回して同じよう街並みを眺める。
「犠牲を最小限に抑える為の、僕なりの配慮だったんですけどねぇ。彼らは自ら、それを放棄してしまった。無知は罪、何て突き放すつもりはありませんが、事情を知る我らとしては何とも歯がゆい気持ちです」
「その割には、随分と嬉しそうじゃねぇか」
「僕がですか?」
心外だとばかりに、フッと鼻を鳴らす。
「ゲームに意外性は付き物ですから、その点でいえば面白いですよ。ただ、僕はミュウと違って殺人狂ではありませんので、無駄な血を流すのは好みませんがね」
ボルドは何かを思い出すように、ポンと手の平を叩いた。
「ああ、報告にありましたが、ミュウはどうやら戦死したようです」
杯に酒を注ごうとする手が、ピタッと止まる。
「彼女にも困ったものですね。フェイを病院送りにした挙句、自己判断で勝手な行動を取って自滅するとは……まぁ、半分だけとはいえ、僕の妹ですから。死んだと聞かされると、多少は哀れにも思えます」
言葉とは裏腹に、ボルドの口調は随分と流暢で、悲しんでいるとはとても思えなかった。
シドは酒を注ぐのを止めると、膝を叩いて立ち上がる。
そのまま背を向けて歩き出すシドに、ボルドが声をかけた。
「父さん。どちらへ?」
「地下だ」
それだけ言って、部屋の奥の階段から地下へと降りて行く。
ボルドは薄く笑みを浮かべると、その背中に続いて行った。
階段を下りた先は、アルトやミュウが閉じ込められていた部屋。
そこの更に奥。薄暗く、机の下に隠れていたので気がつき辛いが、床に小さな文様が刻まれている。 机をどかしてシドがそれに触れると、一瞬だけ発光し、消えた床の下から隠し階段が出現した。
更にその階段を下りる。
続くボルドが気を利かせて、地下室に置いてあったランプを手にとり、マッチで火と点すと、後ろからシドの足元を照らした。
階段を降り切ると、正面には広い空間が広がる。
ランプの明りに照らされた先は、室内のような人の居住区では無く、人工的に作られただだっ広い洞窟のような場所だ。
その大きさは尋常では無く、天楼の街の三分の一は治まってしまうだろう。
ここは、今は使われていない人工の貯水池。
まだ、生活用の水路が完成していない頃、リュシオン湖の水を直接引っ張って溜めていた場所で、現在は使用されていない。
長年使用されていないので、勿論、貯水池には水は溜まっていない。
あるのは、広い貯水池を満タンに埋め尽くす、青い結晶体だけだ。
その量は膨大で、国崩し術式で使用しようとした十三か所、全てを足してもここの量には及ばないだろう。
これこそが、天楼を照らすほどの魔力の残滓を生み出す、原因と言っていい。
貯水池をランプで照らして、ボルドは楽しげに含み笑いを漏らす。
「国崩しを阻止して、勝った気になっている連中が、この光景を見たらどんな顔をするんでしょうね」
「ボルド。アレを」
シドが目の前に手の平を差し出すと、ボルドは懐から赤い宝石を取り出し渡す。
炎神の焔だ。
手渡したボルドは、訝しげな視線を送る。
「しかし、たったそれだけで、大丈夫なんですか?」
「問題ねぇよ。ここのと違って、コイツは炎神の炎が、直接結晶化した代物だ。質だけで言やぁ、この貯水池の貯蔵全てに匹敵しやがる」
ポン、ポンと、炎神の焔を手の平で弄ぶ。
「これが儂らの手元にある以上、この勝負は儂らの勝ちだ……ボルド」
「はい」
「国崩しに潰れた以上、もう用はねぇ。アルトを殺せ」
「……いいんですか?」
「構わねぇよ。どの道、ミュウが魔女の嬢ちゃんに手を出しちまったからには、もうアイツは儂らとはツルまねぇだろうさ。だったら、邪魔なモンは一つでも少ない方がいい」
意外な言葉だったのか、ボルドは少し驚いた顔をした後、一礼する。
「了解しました。早急に、手配しましょう」
ランプを下に置き、ボルドは指示を出す為、貯水池を後にする。
一人残ったシドは、手に持った炎神の焔と、貯水池の結晶体を交互に見比べた。
「これでもう、戻れねぇぜ……真の国崩し、神崩しの開始だ」
自らに言い聞かせるよう、硬い口調で呟く。
僅かに憂いを帯びた視線をした後、表情を引き締めて貯水池に背を向ける。
シドの顔はまさしく鬼が宿ったように厳しく、そして寂しげだった。




