第51話 狡猾なるボルド
水路の湿った空気を引き裂くように、音を切ってボウガンの矢が飛ぶ。
飛来する計五本の矢は鉄製で、当たれば鉄板でも貫くだろう。
ラヴィアンローズは平然とした表情で、平然とそれを迎え撃つ。
最初の二本は大太刀を左右に振るい叩き落とし、左手で矢を一本掴み取る。そして蹴りで四本目を踵で飛ばしながら、最後の五本目は身を捩って回避した。
流れるような動作を、一瞬で執り行う。
流石はラヴィアンローズと言うべきか、大胆な中に優雅さが宿る。
笑みを浮かべ斬り込もうとするが、すぐにボルドの合図の元、第二射が撃ち込まれ攻めに転じることが出来ず、素早く回避行動に切り替える。
「なるほど……小癪な手を使いやがりますわね」
表情こそ笑顔だが、内心の苛立ちを表すように、唇の端がヒクッと反応する。
ボウガンは威力があり、力や技術の無い者でも格上の相手を打倒できる。しかし、普通の弓より遥かに固い弦を引くのは容易では無く、連射することは難しい。鉄製の矢を飛ばすなら、尚のことだろう。
それをボルドは、射撃部隊を三つにわけることで、矢をリロードする隙を無くし連射を可能とした。
ここは狭い水路。動きが制限されるから、予想以上にこの戦術は効果的だ。
「父さんのお気に入りだけあって、中々頑張るじゃないか。けど、それが何時まで持つかな……貴様ら。射撃間隔をもっと縮めろ」
ボルドの指示に黒衣の男達は返事せず、代わりに命令通り動きを速めることで答えた。
その様子に、ラヴィアンローズは舌打ちを鳴らす。
「あらあら。自分が編み出したわけでもない戦術を、ドヤ顔で使う姿は何て浅ましいんでしょ。お里が知れますわね」
「悪いが僕は勝つ為なら手段は選ばない。が、慈悲が無いわけではない……地面に額を擦り付けて許しを請うなら、許してやっても構わないよ?」
言い終わる瞬間、右足をドスンと大きく踏み鳴らし、ボルドに向かって斬り込む。
些細な一言が、ラヴィアンローズの逆鱗に触れたらしい。
大太刀を振り上げボルドを睨み付ける表情は、普段の飄々とした笑みは無く、鬼のような怒りが滲み出ていた。
飛来する矢を紙一重で回避し、間合いまで踏み込むと上段から大太刀を振り落すが、続けて飛ぶ矢の牽制が正確で踏み込みが浅くなってしまう。
「ふっ」
ボルドは一歩後ろに下がり、サーベルで大太刀を弾く。
真後ろからボルドの身体ギリギリをすり抜け、飛んできた矢がラヴィアンローズだけを正確に狙う。
矢を弾き、手で受け止めながら、ラヴィアンローズはバク転でボルドから距離を取った。
迷うことなくボルドの背後から、ギリギリで矢を放ったことに、驚きを隠せない。
絶え間なく連射された矢を、全ては避けきれず、ラヴィアンローズの服は所々裂かれ、頬や手の甲には薄らと血が滲んでいた。
スーッと息を吐き、表情に笑みを戻す。
「失礼。あまりにも舐めた言葉を言いやがるモノですから、少々イラッときてしまいましたわ」
「気にすることは無い。もうすぐその苛立ちも、感じなくなる」
「ええ。貴方のスッ首を、叩き落としてね」
軽口を叩き、再び大太刀を構えた。
強がってみたモノの、戦況は少しばかり不利だ。
地の利は完全にあちら側にある上に、予想以上に高いボウガンの精度が、更に効果を高めていた。
認めたくは無いが、ボルドの戦術は実に的確だ。
重量のある武器を操る故、ラヴィアンローズは正面からのぶつかり合い、斬り合いを得意とする。
本来なら狭い通路での戦闘など、さほど不利に働かないのだが、正面から絶え間なく、正確無比に連射される矢で、突進力を生み出す足が殺されてしまい、思うような戦い方が出来ない。
攻め手が封じられては、ラヴィアンローズも戦いようが無い。
同時に、ボルドの部隊は射撃しながら、後ろへと下がり常に一定の距離、間合いに踏み込まれても対応出来る距離を維持している。
先ほどもこれで、攻撃が潰されてしまった。
黒衣の男達の正確な射撃と、ボルドの嫌らしい戦術は、突進タイプのラヴィアンローズとは噛み合わせが想像以上に悪い。
まるで、事前に予測していたかのような布陣だ。
「まさか、私達の動きを、読んでいた?」
あり得ない話では無い。
流れ矢に当たらないよう、結晶体の影に隠れていたロザリンが、顔を覗かせ呟く。
声が届いたらしく、ボルドはニヤリと笑った。
「君達は前回、僕の立てた計画を予見し、潰してくれたからね。そこそこ頭が回るのならもしやと思い、君らの住処に近いこの場所で、網を張って待っていたんだ。まぁ、ものの見事に引っかかってくれたよ」
「この結晶体は、ブースター。人の魔力を引き出し、増幅させる作用が、ある。これを使って、何をするつもり?」
問いかけに、ボルドは軽く驚いた表情をする。
「おやおや。そこまで感づいていたとは、中々に聡明じゃないか。流石は魔女と呼ぶべきかな?」
茶化すボルドの挑発には付き合わず、守るよう正面に立っているラヴィアンローズの後ろから、厳しい口調で問いただす。
「ここの結晶体は、術式を強引に捻じ曲げて作った、人工的な魔力溜り。こんなこと、普通の魔術師や、錬金術師には、使わない、禁術」
一般的な魔術の教えは、流動的な物である。
炎が燃え、水が流れ、風が吹き、土が変化するように、森羅万象の全ては絶えず変化を続け、その自然の摂理ことが魔術式の根底を成している。
しかし、この結晶体は、魔術の常識とは真逆の存在。
停滞することにより、魔力同時が結合し、より高濃度な魔力へと昇華される。
一見すれば魔力を高めることが出来る、素晴らしい方法に思えるが、どんなに素晴らしい料理でも味付けが濃すぎれば、人にとっては毒になってしまうように、高濃度の魔力は周辺に悪影響を及ぼす場合があるのだ。
人為的に歪められた術式を扱えば、周囲の自然発生した魔力が枯渇してしまう可能性もあり得る。
こんな物を生み出す術式は、普通の良識ある魔術師なら絶対に組む筈が無い。
ましてや魔女の矜持は、自然と調和。
このような矜持に反する魔術を、認めるわけにはいかない。
ロザリンの考えを見透かしてか、ボルドは楽しげに含み笑いを漏らす。
「魔女のお嬢さん。そんなに、この術式が不服かい?」
「当たり前。こんな術式、使っては、いけないもの」
「憐れだなぁ」
ボルドはワザとらしく、天を仰いで悲しむように、両手で顔を覆った。
芝居がかった動作に、ロザリンは何事かと顔を顰める。
チラッと、指を隙間から見せたボルドの視線は、明らかな嘲笑をロザリンに向けていた。
「実の娘にそんなことを言われては、母親は浮かばれないだろうよ」
心臓が、ドクンと大きな音を立てる。
「……今、何て言った?」
突然、ボルドの口から語られた名に、ロザリンの瞳と言葉に、烈火の如き怒りが湧き上がる。
「おちびちゃん?」
ラヴィアンローズは、突然の変化に不思議そうな視線を向ける。
今のボルドの言葉で、ロザリンは理解した。
「この術式、お母さんと、お婆ちゃんの。魔女の秘術を、盗んだな?」
ロザリンの母親、エリザベットは生粋の魔女では無い。
だが、生前、母と親交のあった人から話を聞くと、怪我や病気で大変な思いをしている近所の人間に、エリザベットは時折、自家製の薬品を届けていたらしい。
恐らくは、薬草などを用いた、魔女の秘薬の類だろう。
祖母も母親は魔術の才能は無かったが、霊薬や薬草を作ることには向いていたと話していたし、園芸を司る魔術式のレシピを祖母から教わり、家を出た時もそれを記されたノートだけは、ちゃんと持って行ったと聞く。
育成の難しい霊草の中には、より強く魔力を集める為に、周囲の自然術式を捻じ曲げる方法を取る場合もある。
しかしそれは、あくまで自然現象で起こる範囲内だ。
目の前の結晶体は、明らかにそれを逸脱している。
生前の遺品の殆どは、ランディウス・クロフォードによって、秘密裏に回収されている。
その中にあった術式を、何らかの形でボルドは入手したのだ。そして、術式に手を加えて今のような、禁術紛いの魔術を生み出し悪用した。
これは母に対する、いや、魔女への冒涜だ。
怒気の籠る視線を受け流し、ボルドは挑発するよう、ワザらしく両手を上げた。
「盗んだとは人聞きの悪い。僕はただ、義兄弟が手に入れた物を引き継いだだけさ」
ボルドは口元を手で覆い、溢れ出る笑いを噛み殺した。
「虚栄心ばかりが先立ち、役に立たない男だったが、まぁ、あれを事前に回収した手癖の悪さは褒めてやってもいいかな」
「――ッ!?」
怒りで頭に血が上り、ロザリンの赤い瞳に魔力が宿る。
魔眼。
相手の身体的自由を奪う、ロザリンだけが使える特殊な魔術だ。
しかし、ボルドは慌てて視線を落とし、顔を手で隠すよう覆う。
「おっと。危ない危ない。確かその魔術は、視線が交差した相手にしか効果が無いのではないかな」
「……クッ」
くやしげに、唇を噛んだ。
黒衣の男達は皆、フードで顔を隠している上にこの暗がり。魔眼の力で相手の自由を奪うことは出来ない。
怒りに身を任せ、感情的になるべきじゃないと、ロザリンは大きく息を吸い込む。
上った頭の血が戻ることで冷静さを取り戻し、ロザリンの瞳から赤い光が消える。
魔眼は高位の魔術。何度も使えるモノでは無い。
憎くても、悔しくても、ここはグッと堪えて先のことを考える。
「何だかよくわかりませんけれど、どうやら落ち着いたみたいですわね、おちびちゃん」
「うん……ラヴィアンローズ。今は、逃げる」
「ま、それが懸命ですわね」
目を細めて言うと、ラヴィアンローズはバックステップで結晶体の上に飛び乗り、ロザリンの隣へ降り立つ。
「ふん。このまま逃がすと思うのか?」
合図と共に、鉄製の矢が飛ぶ。
風切り音と共に飛翔する矢が、青い結晶体に突き刺さり、キラキラと欠片を飛ばす。
不完全故に頑丈では無い結晶体は、次々と飛んでくる矢を受けて、全体に細かい罅を走らせている。
後数発も喰らえば砕け散り、二人を守る遮蔽物は無くなるだろう。
だが、ロザリンは結晶体が破損することを、待っていた。
結晶体に手を添え、口の中で呪文を呟く。
瞬間、耳鳴りのような音が響く。
ラヴィアンローズは確認するより早く、ロザリンの腰を抱き上げて、全速力でその場を駆けだした。
「チッ。逃がすな。おえ……」
指示を飛ばそうとした時、目の前で起こっている結晶体の異変に気がつき、思わず表情を崩した。
「ま、不味い!? クソッ、あの雌ガキッ!」
ボルドが怒りを露わに怒鳴った瞬間、結晶体は破裂するよう砕け散り、飛び散る欠片一つ一つから大量の水が溢れ出した。
狭い水路一杯に、隙間無く溢れた水は激流となり、ボルドや黒衣の男達に襲い掛かる。
轟音と水飛沫が、一瞬で水路を水没させていく。
逃げようと慌てて駆け出すが、鉄砲水と化した水から逃れることは叶わず、一人、また一人と飲み込まれていった。
そして顔面を怒りで真っ赤に染めるボルドも、迫りくる水にその姿を消してしまう。
ボルドが現れた時、もしもの為にと結晶体に自分の血を付着させ、魔力を送り易いよう細工をしておいた。その上でボウガンの矢が結晶体を傷つけ、不安定になった状態のところに魔力を注ぎ、固定化していた術式のバランスをワザと崩した。
リーディングを失敗した時のことを、今度は故意に行ったのだ。
これにより弾けた魔力は暴走。元の性質を取り戻し、濃縮化した分の水が溢れ出したというわけだ。
事前にブースターを調べ術式を把握していたので、仕掛けは想像よりずっと簡単だった。
一方のロザリン達にも、激流は迫る。
だが、何の対処も無く、相討ち覚悟でこんな手段に打って出たわけでは無い。
小脇に抱えられたロザリンが、走るラヴィアンローズの顔を見上げた。
「ラヴィアンローズ!」
「わかってますわ。エーくん。全力全開ですわ」
「きゅぃぃぃぃん!」
チョロチョロと肩に駆け上ったエーくんが、後ろ向きになって甲高い鳴き声を張り上げると、水が迫る後方、水路一杯に緑色の波紋が広がり、障壁となって通路に蓋をするよう襲い掛かる激流を防いだ。
緑色の壁に阻まれ、水は白い飛沫を上げていた。
その光景に、ロザリンはホッと一息。
「何とか、なった、みたいだね」
「ええ。そうですわね。ところで、おちびちゃん」
ロザリンを小脇に抱えたまま、ラヴィアンローズは神妙な口調で問いかける。
何だか、嫌な予感が過った。
「泳ぎは得意かしら?」
「なに、その嫌なフリ」
ツーッと、額から汗が流れ、ラヴィアンローズは見上げる視線を、合わそうとしてくれない。
「わたくしの亜精霊のエーくんは、契約の元に繋がっていますの。本来、低位の亜精霊には明確な実態がありませんから、契約者が魔力を供給することによって、現界を可能とし、様々な力を振るうことが可能なのですわ」
「とりあえず、結論だけを」
「ランプ代わりにずっと光らせてた所為で、わたくしの魔力がもうすっからかんですわ」
「――えっ!?」
ロザリンの表情が引き攣るのと同時に、後ろからミシッと破滅の音が聞こえた。
振り向きたくない、振り向きたく無いが、音はみるみる大きくなっていく。
恐る恐る二人が振り向いた目の前には、砕け散った緑の壁の向こう側から、待ってましたとばかりに、白い飛沫を撒き散らす激流の渦が、大口を開けるように波打つ。
二人は悲鳴も恨み言も漏らす間も無く、襲い掛かる水に飲み込まれてしまった。
ぐるぐると回転しながら、ロザリンは澄み切った水の中に引きずり込まれ、酸素不足で意識が薄らと遠のいていく。
不意に水を掻きもがく指先に、何か硬い物が触れ、無意識に縋り付くよう手に取る。
これは本気で、ヤバイかもしれないと、生まれて初めて死を覚悟した。
数分後、水路の出口から水と共に勢いよく飛び出し、二人で大河にぷかぷか浮いているのを、通りかかった渡り船のオジサンに助けられ、何とかことなきを得た。
二人揃って、本日二度目のびしょ濡れ。
アルトが女難なら、今日のロザリンは、水難の相が出ているのかもしれない。
★☆★☆★☆
ヘトヘトのずぶ濡れになり、自宅の戻る頃には、もう夕方になっていた。
命からからがらと言うか、殆ど幸運で何とか激流から助かることが出来たが、水の中を着衣で泳ぐのは容易では無く、ただもがいていただけなのに、マラソンでもしたかのような脱力に襲われる。
魔力を消費と、ボルド達と対峙したことによる緊張もあって、心身共にクタクタだ。
水を含んだ服で、物理的にも重くなった身体を引き摺り、何とか家に辿り着いたロザリンは、濡れるのも構わずソファーの上へと倒れ込んだ。
「だらしが無いですわね。まぁ、お子様には少しばかりハードな経験でしたかしら」
「……服、絞るなら、外か、シャワー室で」
水を含んだスカートを絞っているのを、寝そべった状態で咎めると、ラヴィアンローズは肩を竦めて、シャワー室の方へと向かう。
扉を開き入った内部から、濡れた服と下着を投げ捨てると、水音と鼻歌が聞こえてきた。
何処までも遠慮の無い態度に、ロザリンは疲れ切った息を吐く。
腹這いに寝そべり、スカートのポケットから、拳ほどの青い宝石を取り出す。
激流に飲み込まれた時、無意識に手に取った物だ。
「結晶体の、核」
ボルドが人工的に作り出した魔力溜りは、作ってからそんなに日にちが立っていない所為か、不完全な状態だった。
そのお蔭で壊れやすく、魔力の状態も不安定だったので、簡単に暴走を引き起こすことが出来たのだが、その中心部はどうやら完璧に結晶化していたらしく、魔力の暴走に巻き込まれず、こうして形を保ち、偶然ロザリンの手に渡った。
「これが、魔力の、ブースター……これが、あれば」
脳裏の浮かぶ、偽ハウンドや黒衣の男たちの俊敏な動き。
平凡な体力しか持たないロザリンでも、常人を超える魔力量を持ってすれば、ブーストされる身体能力は、彼らの非では無いだろう。
そうすれば、もっとアルトの役に立てる。母や祖母の技術を悪用する、ボルドを討ち倒せるかもしれない。
でも。と、ロザリンは手に持った結晶を、グッと握り締める。
「それは、正しいこと、なのかな?」
漠然とした疑問を、口にする。
この結晶をブースターとして使用するには、恐らく身体に埋め込む必要性がある。
人が魔力を持ち、魔術を扱う仕組みは、現代魔術ではまだ完璧に解明されてはいないが、異なる魔術式の異物を人体に埋め込んで、全く副作用が無いとは思えない。
それは自然と調和を重んじる、魔女の矜持に反するのかもしれない。
けれど、胸に広がるモヤモヤは、倫理やわかりきった正しい答えに、素直にうんと頷くことが出来なかった。
「わからない、わからない、よ」
魔女として、自分としての在り方。
自分の感情を赴くままに、結果だけを追い求めれば、魔女としての流儀に反してしまう。しかし、魔女としての生き方に拘りすぎれば、今、目の前にある危機に対処出来ず、得たい結果に手が届かない。
二律背反の思いが、ロザリンを悩ませる。
あれでボルドが倒せたとは、到底思えいない。
今日は何とかなった、だが明日はどうだろうか?
「国崩しのことも、あんまり、わからなかった。この結晶体も、もう少し、詳しく調べたい。アルも、早く助けない、と……やることは、一杯あるのに」
言葉とは裏腹に、瞼が重くなっていく。
森育ちのロザリンにとって、水の中を泳ぐことは想像以上に体力を消費したのだろう。
言うことを聞かない身体を仕切り直す為、ほんの数秒だけ目を瞑ろう。
そんな思いも空しく、ロザリンの意識は急速に眠りの中へと堕ちて行った。
薄れゆく意識の中、耳慣れた人の声が、聞こえた気がする。
「……もう、馬鹿。一人で無茶してるんじゃ、無いわよ……ったく、誰に影響されたんだか」
フワリと、ロザリンが好きなトマトソースの香りが鼻に届く頃には、意識は既に眠りの奥へと沈んでいた。
★☆★☆★☆
同刻。
茜色に染まる太陽の光を反射し、大河の水面が空と同じ色に輝く。
東街のとある川べり。
人気の少ないその場所に、雨上がりの後のように激しく波打つ川の中から、一人の青年が岸へと這い上がる。
ボルドだ。
荒い気遣いで、先に川べりへと上がっていた黒衣の男達の手を借り、何とか水を吸って重くなった身体を引き上げる。
激しく咳き込みながら、苛立つように地面を殴りつけた。
「糞ッ。あのガキが、甘い顔をしたらつけあがりやがって!」
怒りを露わに、濡れた上着を乱暴に脱ぐと、足下に叩き付けた。
その後で、癇癪を起したかのよう、何度も何度も地面に落ちた上着を踏みつける。
橋からも遠く、人目が少ないのが幸いしてか、ボルドの癇癪や黒衣の男達の異様な出で立ちを、怪しむ人達は存在しない。
仮に人が目にしても太陽祭が近いだけに、お祭りの仮装か何かだろうと思い気に留めないだろう。
人目を気にしなくてよいからか、存分にボルドは癇癪を起こし、怒りを発散させている。
周囲の男達はまるで感情の無い人形のように、棒立ちのまま黙って、主の気が晴れるのを待った。
一頻り怒りを発散して満足したのか、ボルドはふぅと息をつく。
真っ赤に染まっていた顔色も戻り、何事も無かったようボルドは濡れた髪を整えた。
「魔女を捕まえることは、出来なかったか……まぁいい。完璧では無いとはいえ、準備はほぼ整っている。今更、魔女の一匹くらい、捨て置いても構わないか」
そう納得するが、直ぐに表情に不機嫌さを滲ませた。
「それにしても、嘆かわしいのはあの女共だ。ラヴィアンローズめ……父さんのお気に入りだからと言って、好き放題した挙句裏切るとは……ふん。結局のところ、我が父も人情家気取りで、人を御せる器では無かったというわけだ……それに」
ギリッと奥歯を鳴らす。
「フェイ。表向きは忠実な犬のフリをしているが、所詮は雌犬。下賤な野良犬に垂らしこまれやがって。ま、あの馬鹿のように表だって僕に刃向わない点は、評価してやってもいいがね」
濡れた前髪を両手で後ろに送り、オールバックの髪型にする。
そして、手についた水滴を、ふるい落とした。
「忠義な仁義だ古臭い連中め。反吐がでるぜ」
フェイやラヴィアンローズは実力者だが、それは個人の武力。天楼の半数以上を抱き込み、アレハンドロを始めとする騎士団の一部、彼らを支援する保守派の貴族達、そしてブースターの力で強化された私兵である黒衣の男達。
これだけの戦力を持ってすれば、強いだけの二人など不要だ。
だが、ボルドは慎重な男。万が一の事態も、考慮にいれている。
「あの二人もそうだが、保守派の貴族や騎士にも、僕の誘いを断った連中がいる……奴らの共通点は、あの男と関わりがあることだ」
野良犬騎士アルト。
忌々しげに、その男の名を呟いた。
とっくの昔に止めたとはいえ、騎士自体を知る人間は、水晶宮にも少なくは無い。
多くは彼を異端な人間と罵るが、一部では数年立った今でも彼の復帰を望み、信奉している連中が貴族や騎士の中に存在する。
彼は例外なく、ボルドの仕掛けた誘いを、悉く拒否していた。
「思えば、ラサラ・ハーウェイの時もそうだった。奴の側に近づいた者は、次々と僕の敵へと回る。父さんも敵対こそしているが、随分とあの男を買っていたな」
何故、あんな何も持たない男がと、疑問で仕方が無い。
けれど、アルトがボルドの野望の前に立ち塞がる、壁の一つには違いない。
「何やらミュウも、あの男を妙に気にしているようだし……あの狂犬が靡くとは思えないが、手を打っておくべきか」
こめかみを指で叩き、頭の中で計画を練る。
野良犬を気に掛ける狂犬。そして、その野良犬に懐く魔女。周囲の人間関係を思い出し、それを数式のように並べ、一つの計画を紡ぎだす。
やがて、口元に嫌な笑みが浮かび上がった。
「上手く焚き付けることが出来れば、面白いことになりそうだな。それで潰し合ってくれれば、僕の邪魔をする者は減る。国崩しに、多少の影響は出るやもしれんがね……おい」
視線を向けられ、黒衣の男の一人が前に出て膝を突く。
「共和国側との交渉、どうなっている?」
「ハッ。先方も興味を示していますので、感触は良好かと」
「そうか……なら」
スッと、視線を細めた。
「国崩しが失敗する可能性が出てくれば、僕は早々にこのゲームから降りるとしよう。今回のことで、完璧な計画も雲行きが怪しくなってきたからね」
何の未練も無く、ボルドはあっさりと言い切った。
「計画は完璧。準備も整った。その上で負けるはずが無いと踏ん反り返る人間は、最後の最後でテーブルを引っくり返されて破滅するのさ。だが、僕は違う。負けた場合の戦略も、ちゃんと組んである」
勝利に執着しない。ボルドの本質はそこに集約される。
例え負けても、決定的に敗北しない。負けることまで、ボルドにとっては計算済みなのだ。
「国崩しが成功すればよし。失敗したところで、僕まで辿り着くことは無い……この戦争は、誰が勝利しても僕が敗北しない仕組みになっているのさ」
ボルドは笑う。
天楼も、騎士団も、アルト達も自分の手の平の上だと。
彼が豪語する言葉が事実なら、ロザリンとラヴィアンローズは、ボルドを倒すことが出来る唯一のチャンスを、逃してしまったのかもしれない。




